夕張支線(ゆうばりしせん)とは、新夕張駅と夕張駅を結んでいたJR北海道石勝線の支線である。
概要
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2019年4月1日に廃止となった石勝線の支線である。
元々は、1892年11月1日に開業した追分駅~紅葉山駅(現・新夕張駅)~夕張駅間の「夕張線」の一部であったが、千歳空港駅(現・南千歳駅)~追分駅間・新夕張駅~新得駅間が建設され、1981年10月1日に「石勝線」に改称された際に、新夕張駅~夕張駅間が分離され「夕張支線」となった。
JR北海道が運行をしていたが、平成28年度の収入が1000万円なのに対し費用は1億7600万円で、年間1億6600万円の大赤字となっており、営業係数(100円の収入を得るために必要な費用)にしても1681と大きな値となっていた。輸送密度も極めて小さく[1]、また施設の老朽化も進んでいたことから路線の廃止が検討されることになった。その後、夕張市が条件付きで廃止を提案したことにより、2019年4月1日に廃止となり夕鉄バス(夕張鉄道)に転換された。
1994年5月16日に廃止となった函館本線の上砂川支線以来、2線目の幹線廃止となる。(ただし両者とも支線の廃止である)
路線廃止後、踏切は撤去されたが、それ以外の設備はほぼそのまま残されたままである。
歴史
1892年に現在の石勝線の前身となる夕張線の末端区間として北海道炭鉱鉄道の手により開業したのがその始まりで、1905年の鉄道国有法により国有化された。その後国有鉄道の組織の変遷と民営化の末2019年3月の廃止地点ではJR北海道が保有・運行していた。
夕張は1960年代まで石炭の採掘で栄えた町であり、夕張線も石炭の輸送が路線開業の目的だったのは想像に難くないだろう。この夕張線は、夕張川沿いの渓谷を南側の紅葉山駅(現・新夕張駅)から南北に貫き、また各所で炭鉱会社が運営する専用鉄道と接続する形で夕張の石炭を内地へ送り出す苫小牧・室蘭の港まで運んでいた。
しかし、石炭から石油へとエネルギーの主役が変わるとともに夕張の炭鉱、そして町は衰退の道をたどる。接続していた専用鉄道も1987年を最後に廃止となり、また炭鉱で働いていた人々も夕張を去っていった。そのような情勢の中で夕張線はこれまで滝川から芦別・富良野を経由し帯広・釧路などの道東に向かう大回りのルートをとっていた根室本線に代わる道央(千歳空港駅(現・南千歳駅))と道東(新得駅)を結ぶショートカット路線として改良されることが決定。1981年10月1日に「石勝線」と名付けられたこの路線が開通すると、紅葉山駅改め「新夕張駅」から北側の路線はその石勝線の支線という形で運営されることになった。
そして1990年代以降、夕張は人も離れ、さらに石炭に代わる産業軸の一つとして観光開発を試み、その一環で夕張川渓谷の奥地にあった終点・夕張駅は「石炭の歴史村」に組み込まれることになったため、市役所近くの夕張本町地区まで短縮・移転した。しかしこの産業振興策は大失敗、多大な負債を抱えた夕張市は2007年に民間企業でいうところの経営破綻にあたる財政再建団体へと転落してしまう。
この「経営破綻」はそれ以前も激しかった夕張の人口減少にさらなる拍車をかける形となった。2010年代に入り、JR北海道の財政状況は悪化の一途をたどり、大赤字を垂れ流す不採算路線の廃止が検討されることになった。利用客数が先述の通り極めて少なくなっていたこの夕張支線も例外ではなく、地元との協議の末2019年3月31日を最後に廃止された。
最盛期には札幌駅まで直通する準急→急行「夕張」も運行されていたが、廃止直前にはキハ40系が1両で1日5往復する寂しい路線になっていた。
また、蒸気機関車が最後まで貨物列車牽引・交換用機関車として「現役」として活躍した路線でもあり、腕木式信号機やタブレット閉塞といった旧態の列車運行方法が21世紀になっても残っていた数少ない路線である。これは夕張が蒸気機関車の動力源である石炭で栄えたことと、路線を近代化する投資の必要性もないほど寂れたことを端的に表すものだろう。
駅一覧
廃駅・廃止信号場及び過去の接続路線については、JR発足日(1987年4月1日)以降に存在していたもののみ掲載する。
駅番号 | 駅名 | ■乗換・備考 | 所在地 |
---|---|---|---|
K20 | 新夕張駅 | ■JR北海道:石勝線(本線) | 夕張市 |
Y21 | 沼ノ沢駅 | ■北海道炭礦汽船:真谷地炭鉱専用鉄道(1987年10月13日廃止) | |
Y22 | 南清水沢駅 | ||
Y23 | 清水沢駅 | ■三菱石炭鉱業:大夕張鉄道線(1987年7月22日廃止) | |
Y24 | 鹿ノ谷駅 | ||
Y25 | 夕張駅 |
関連動画
関連公式生放送
関連項目
脚注
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