学生運動とは、戦後に行われた大学生の大学改革運動・政治運動の総称。
大抵の場合は1960年代後半の新左翼的思想を持った者による暴力的な政治活動を意味する。
概要
医大卒業生インターン制度反対・学費値上げ反対・大学の自治要求など、大学当局の運営の怠慢や学生生活への不安に直接関係する問題に対する運動も見られた。しかし同時にベトナム戦争、日米安全保障条約などの大学と直接関係ない政治的議題の反対・阻止をも目的とした。全般的に上記の運動は後期になればなるほど新左翼的な思想が横行して過激化、暴徒化した。
しかし過激化の反動や大規模な闘争鎮圧の影響で学生運動の機運は徐々に萎んでいき、70年代前半には完全に失速した。
ちなみに右翼にも学生運動団体はある。日本青年協議会や全国学生自治体連絡協議会、生学連は民族派学生運動団体として知られている。
過去
発端から最盛期
まず何故学生運動が活発化したかと言うと、1960年代当時の大学運営サイドの組織腐敗や専横体制が挙げられる。
当時の大学は授業料の大幅な値上げ(特に国からの補助のない私立大学に顕著)、授業の低質化、大学当局の独裁的態度や声を上げた学生を弾圧するなど劣悪な教育条件がまかり通り、当局への不満が学生の中に溜まっていたのである。
大学外でもまた佐藤政権によるベトナム戦争への間接的援助、成田空港建設に際しての政府による専横的土地接収、70年の日米安保条約自動延長と言った権力側の猖獗を極める時代背景が、学生運動の根幹にあった。
このような状況下、1965年の慶応大学での授業料値上げ反対抗議運動、1967年の東京大学医学部の学生達のインターン制度[1]の抗議運動などの大学当局による横暴に対する抗議を発端に、全国各地の大学へ燎原の火のごとく反・大学当局の流れが拡大。1968年の日本大学の不正会計問題を切っ掛けに、大学や主義主張の垣根を超えた全学共闘会議(全共闘)が結成される。
同時期にベトナム戦争開戦や日米安全保障条約延長締結、成田空港建設に際しての土地強制接収に対しても学生組織が反対運動を展開するのである。
1969年の運動最盛期には各地の大学で学生による授業をボイコットや大学当局への団交の要求、更には校舎の占拠(学園封鎖)などが行われた。この頃になるとそれまで運動を牽引していた新左翼諸派に加え、「ノンセクト・ラジカル」と呼ばれる特定の党派に属しない急進派学生も数多く反大学当局闘争に参加するようになっていた。
これに対し各大学当局は警察(機動隊)の出動要請を行ったり、体育会系学生や反動右派の学生を懐柔して、運動を行う学生への襲撃を命じるなどの武力鎮圧を敢行し、闘争は泥沼化の一途をたどる。その結果起こったのが日大紛争や東大安田講堂占拠事件である。これらの事件が起きた結果、東大では1969年の入試が中止されている。
学外においても新左翼諸派に属する学生が中心となって多くの抗議デモが実施され、1967年の佐藤首相の東南アジア諸国訪問を阻止する羽田闘争、1968年の原子力空母エンタープライズの佐世保寄港阻止デモや国際反戦デーに新宿で発生した騒擾(新宿騒乱)、成田空港開港阻止闘争(三里塚闘争)などの武力を伴うデモが数多く行われた。
学生運動の火は大学だけにとどまらず高校生や浪人生にも波及し、高校でも封鎖やデモが起きている。
また一般市民や闘争に参加しなかった学生も、社会正義を信じて権力の専横と戦う学生たちを同情的・肯定的に見ており、思想的に対立する右翼の中にもアメリカ帝国主義と戦う新左翼諸派を称賛する意見があった。
なお全ての学生が熱意と高い意識を持って運動に参加していたわけではなく、ノンセクト・ラジカルの中には「女にモテるから」「友達に誘われて」などのいい加減な感覚で闘争に身を投じていた者も居た。
衰退と壊滅
70年以降になると度重なる機動隊との衝突や学生の逮捕に伴う学生運動側の組織弱体、運動の武装路線化への忌避、運動を牽引した新左翼諸派同士の先鋭化や内ゲバに嫌気が差したことなどから、ノンセクト・ラジカルを中心として多くの学生が徐々に運動から離脱。学生運動は下火となりはじめる。
そんな空気の中で新左翼諸派の一つである「赤軍派」はより革命グループとしての性格を強め、銀行強盗や銃砲店襲撃などの独自の武装路線を強めていた。
だが大菩薩峠でのメンバー大量検挙とよど号ハイジャック事件で主要幹部の殆どが投獄あるいは国外逃亡。壊滅寸前の組織の立て直しを図ろうとした赤軍派残党は、同じ武闘派で悪名高い左派グループ「京浜安保共闘」と合併し「連合赤軍」を結成。
関東の山中に設けられた山小屋を拠点に日本政府に対してゲリラ戦術を行おうと画策したが、1971年から1972年にかけての3ヶ月の間に、山小屋内で組織の主導権争いや閉鎖空間におけるヒステリーが原因となり、12人の構成員がリンチ殺人された「山岳ベース事件」が発生。
さらに山岳ベースから逃亡した構成員4名が軽井沢の企業保養所で管理人の妻を人質に9日間立て籠もり、警察官と民間人に死傷者を出した「あさま山荘事件」も発生。
この2つの事件は社会に大きな震撼をもたらし、これを切欠に運動と左翼学生に同情的だった多くの学生と一般市民は彼らを見限り、新左翼諸派は孤立。学生運動は壊滅的打撃を受けた。
また70年代以降は当の学生側も経済的余裕が出来、消費社会の文化の中で生き、学生運動世代の就職時の掌返しを見て、政治や社会に熱意を持たなくなった「シラケ世代」がその中核を占めるようになっていた。
その上大学当局側も待遇の改善や学生の団結を防ぐ対策を打ち出すようになったのもあり、往時のような熱狂的な団結と闘争はもはや望めなくなっていった。
80年代以降は大学での運動は完全に沈静化し、一部の学生がスピーカーで騒ぐ程度まで落ち着いた。
なおこの時期に学生運動と極度に尖鋭化した学生運動家達による極左テロが起こったのは日本だけでなく、欧州でも西ドイツ(当時)の「バーダー・マインホフ・グルッペン(ドイツ赤軍)」やイタリアの「赤い旅団」と言った学生主体の極左組織が凶悪なテロ事件を引き起こしている。
現在
狭義の意味での「旧来の新左翼勢力に属する学生の政治運動」は旧帝大などの歴史ある大学などで細々と命脈を保っているものの、往時学生や世間に与えた影響力はもはや残っておらず、現代に残る過去の亡霊と化しているのが現状である。
広義の意味での「学生達が自発的に行う政治・社会運動」については現代でも活発に行われている。
世相の変化も相まってかつての狭義の学生運動のようなイデオロギー性や暴力性は失われ、社会的企業やNPO・NGO主催のボランティアに参加して地道な社会貢献活動や社会問題の変革運動に関わるのが現代の主流となっている。
関連動画
関連項目
- 左翼/共産主義
- 新左翼/極左暴力集団
- 右翼/民族派
- 内ゲバ
- ノンポリ
- テロ
- 安保闘争
- 大学
- 学生
- デモ
- SEALDs - 21世紀の学生運動とも言われる。ただし従来の学生運動より穏やかではある。
- 日本会議 - 現事務総長の椛島有三が日本青年協議会などの民族派学生団体設立に関与。
- 社会運動
- 政治活動
- 政治参加
脚注
- 7
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