「水原親憲」(すいばら・ちかのり 1546 ~ 1616)とは、
- 上杉謙信が認めた剛の者であり、
- 茶の湯・連歌等にも精通した風流人であり、
- 傾奇御免の前田利益が認めた上杉家随一の個性派であり、
- 大坂の陣で徳川秀忠から賜った感状を「花見の様な戦でもらえるとは笑い話だ」と言い切った大ふへん者
である。
別名は「杉原親憲」。なお「水原」と書いて「すいばら」と読むが、「杉原」と書いても「すいばら」と読む。
概要
大関親信の子に生まれる。大関氏を名のって軍神・上杉謙信に仕え、
其長鴨居をさえぎり、面は馬の如く、黒子多くして黒大豆を蒔たる如く
との恵まれた体格を活かして、激戦となった第四次川中島の戦いにて戦功を上げ、勝ち戦の時は目立たないが、激戦・苦戦となるや、
天下に敵と存ずる者なし、嵐の中の塵芥の如きもの
と大声を張り上げて味方を鼓舞する姿から、上杉謙信より剛の者であると讃えられた。
上杉謙信の急逝によって発生した、上杉景勝と上杉景虎の間での後継者争い「御館の乱」では景勝についた。だがその後、鬼小島弥太郎こと小島貞興と共に上杉家を出奔し、蘆名盛隆の元に身を寄せた時期もあった。後に上杉家に帰参。新発田重家の乱で水原満家が戦死したため断絶していた名門・水原家を継いで、水原親憲と名のり、水原城と3000石の知行を得た。
上杉家の会津転封時には、5000石の知行を得て猪苗代城の城代に任命される。関ヶ原の戦いが発生すると、直江兼続に従って最上義光攻略に参加。長谷堂城の戦いでは、最上家の救援部隊を率いた清水義親と楯岡光直の軍勢を、伏せておいた鉄砲隊による待ち伏せ攻撃で撃退した。
しかし長谷堂城は、志村光安や鮭延秀綱、氏家光氏らの活躍で攻略出来ずに終わった。
関ヶ原の戦いが1日で終結して上杉景勝が敗軍の将となると、長谷堂城から撤退する。背後から追撃してきた最上義光の軍勢の前に自刃も覚悟した直江兼続だったが、彼を助ける為に前田利益が突撃を敢行するとこれに親憲も呼応し鉄砲隊による支援攻撃を行った。この活躍で最上義光に追撃を諦めさせ、上杉家の軍勢は無事撤退した。
大坂冬の陣では、徳川方として参加した上杉家の第一陣を務めた須田長義率いる5000が、大野治長率いる12000の軍勢に攻撃されて後退したところを、水原親憲が鉄砲隊で攻撃。大野治長の勢いをとめたところに、更に安田能元が横腹をついて撃退する功績を上げて徳川秀忠より感状を得たが、後に、
此度の戦は子供の石合戦のようなもので、怖くもなければ骨折りとも思わなかった。
謙信公の元で戦場を駆け回っていた頃は、今日死ぬか明日死ぬかと思いながら必死に戦ってきたが、一度も感状など貰えた事はなかった。
こんな花見同然の合戦で感状をいただけるとは、おかしなことだ。
と、大ふへん者らしい皮肉の聞いた言葉を大笑いしながら語ったと言われている。←だがそれがいい
その後、大石綱元が亡くなると上杉家の三奉行の一人になり、太平の世になり、自分の様な武辺者はまさに不便者である事を思いながら71歳で没した。
長男が夭折していた為、家督は、下条正親の次男で水原親憲の孫にあたる水原憲胤が養子となって継承した。
※その他「水原親憲」の詳細についてはWikipediaの該当記事参照の事。
大ふへん者
戦場での戦い一筋に生きてきた水原親憲は、風神・雷神・火神と書いた団扇の前立てをつけた兜を着用し、戦場に向う際も、馬に乗りながら大笑いを交えながら世間話をしつつ移動し、いざ戦場ともなると即座に死人となって、特に激戦や苦戦の際に味方を鼓舞して戦った剛の者であり、
風流者で、乱舞、連歌をよくし、茶の湯の数寄者でもあり、人の噂にのぼることの多い男であった
とも残る風流人でもあったことから、長谷堂城の戦いで戦場を共にした、当時すでに60歳を越えていたといわれる傾奇御免の大武辺者・前田利益から、同類に見られると言う話を織り交ぜられる事がある。
特に、鉄砲隊を用いた戦術に定評があり、自軍のピンチを何度も救っている他、戦略面でも、徳川家康の会津征伐が、関ヶ原の戦いの勃発により、家康が上方へと向った事を周囲が喜ぶ中で、徳川家康の勝利と石田三成の敗戦を予測し、上杉景勝が敗軍の将となることを冷静に判断して、家裁をとりしきる直江兼続を生還させることに尽力した。
大坂冬の陣で、徳川秀忠より功績証明書である感状を賜った際は、重大な礼儀違反である「感状をその場で開封する」と言う行為を行い、上杉家臣として評価された事を確認すると、傍らの本多正信に目をやって
景勝公のみならず、陪臣の身である私にまでこんな名誉を戴けるとは、謙信公以来の上杉の名をあげられて嬉しいかぎりです。
と答えて静かに退出した。
重大な礼儀違反を犯した事にはかわらなかったが、武人・水原親憲とすれば、上杉謙信の元で、領土も得られぬ義の為の戦いの日々を送り、そんな激戦の中をくぐりぬけても一度ももらえなかったものである感状を、単に鉄砲を斉射して崩れた味方を立て直した程度で、「是非におよばず候」とまで言い切った直江状にて、寡兵で徳川家康に対抗するはずだった上杉家臣の自分が、徳川家臣扱いされて下賜れるのは許されぬ恥辱であり、その様な自らにとっては無礼な扱いをするようであれば即座に返上するつもりだったと言われている。無論、こういった話が大好きな徳川家康は笑って許したといわれる。
まさに↑だがそれがいい
水原→杉原
大坂冬の陣で、徳川秀忠から下賜された感状には、「水原」ではなく「杉原」と記されていた。
徳川秀忠の右筆が間違って書いてしまった為なのだが、徳川秀忠の面前で感状を開いた際に、水原親憲は記載ミスに気づいていたものの、それ以上に重要なことがあった為なのか、特にこのミスに対する意義は申し立てず、将軍家のミスを残す為だとばかりに姓を「杉原」に改めた。
関ヶ原の戦いの結果、徳川家の配下となったものの、心はいつも上杉家臣であることや、尊敬する上杉謙信からはもらえなかったのに、ぶち殺すつもりだった徳川家からもらった感状には、宛名ミスを修正させるだけの存在意義を見出せず、これを問題視するようなら徳川幕府も小さいと言い返すつもりだったのかもしれない。
武者震いがするのう!!
江戸時代になると、水原親憲は出陣の際に武者震いする癖があったが、いざ戦いとなるとピタリとやんだと言われていた事から、水原親憲の墓は、「瘧(おこり」と言う病気(要するにマラリアの事)で発熱する際におきる震えを押さえられるとの噂が広まり、その墓石は、アカギの墓のように削られては持ち帰られてしまった為ボロボロになったと言われている。
関連動画
▼北の関ヶ原こと長谷堂城の戦いの屏風絵に水原親憲の鉄砲隊も登場している。
補足
「戦国立志伝」の大坂の陣では鴨野・今福の戦いがイベントで再現されており、大野隊(12000)に水原隊(700)が攻撃を仕掛けると一瞬で大野隊が壊滅する。史実を知っていればニヤリとするイベントだが、逆にこれを知らないと大野隊の大兵力の前に苦戦する羽目になる。
軍事能力 | 内政能力 | |||||||||||||
戦国群雄伝(S1) | 戦闘 | - | 政治 | - | 魅力 | - | 野望 | - | ||||||
武将風雲録(S1) | 戦闘 | - | 政治 | - | 魅力 | - | 野望 | - | 教養 | - | ||||
覇王伝 | 采配 | - | 戦闘 | - | 智謀 | - | 政治 | - | 野望 | - | ||||
天翔記 | 戦才 | 144(A) | 智才 | 126(B) | 政才 | 80(B) | 魅力 | 64 | 野望 | 45 | ||||
将星録 | 戦闘 | 70 | 智謀 | 63 | 政治 | 35 | ||||||||
烈風伝 | 采配 | 44 | 戦闘 | 60 | 智謀 | 48 | 政治 | 17 | ||||||
嵐世紀 | 采配 | 40 | 智謀 | 15 | 政治 | 11 | 野望 | 21 | ||||||
蒼天録 | 統率 | 62 | 知略 | 30 | 政治 | 11 | ||||||||
天下創世 | 統率 | 63 | 知略 | 30 | 政治 | 11 | 教養 | 36 | ||||||
革新 | 統率 | 73 | 武勇 | 75 | 知略 | 34 | 政治 | 13 | ||||||
天道 | 統率 | 73 | 武勇 | 75 | 知略 | 34 | 政治 | 13 | ||||||
創造 | 統率 | 70 | 武勇 | 74 | 知略 | 40 | 政治 | 27 |
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