治承三年の政変とは、治承3年(1179年)に平清盛が起こした事件である。
言仁親王(後の安徳天皇)の誕生により皇族の外戚としての権力を手に入れる事が可能になった平清盛が、政治的対立関係にあった後白河法皇とその近臣達の排除を目的として引き起こした軍事クーデターである。
概要
保元の乱・平治の乱、二条天皇の崩御を経て連携関係となった平清盛と後白河法皇であったが、調整役であった平滋子が亡くなるとその関係性は徐々に悪化。『後白河法皇・院近臣』と『高倉天皇・平氏』間での政争となり、鹿ヶ谷の陰謀にて院近臣が清盛の手によって排除される。これをもってその協調体制は完全に崩壊する。
この中で清盛の娘・平徳子が高倉天皇との皇子を懐妊・出産する。この皇子(後の安徳天皇)の誕生で「天皇の外戚」という立場を得ることが出来た清盛は、"治天の君"として君臨する後白河法皇の政治的引退への圧を強めていくようになる。
これに対して法皇は鹿ヶ谷の陰謀の仕返しとばかりに清盛方への対抗人事を行ったため、清盛は武力をもって強制的に法皇と院近臣の排除に動いた。これが当事件である。
受領の大幅な刷新も行われ、平氏の知行国は事件前の17国から32国に倍近く増えており、平家物語では「日本の66国の内半分が平氏が国主」とまで書かれている。
この政変の結果、清盛率いる平氏一門は日本を支配する立場となった。その支配構造そのものは摂関家による支配と相似するものの、平氏一門が朝廷に軍事力を奉仕する立場から軍事力によって皇位継承にまで関与出来るようになった事は紛れもない事実であり、近年では鎌倉幕府に先んじて平氏による『日本史上初の武家政権の樹立』と考えられるようになってきた。
この世の栄華を極めた平氏一門であるが、新しく任ぜられた受領達がそれまでの在地の武士・豪族の既得権益を脅かした事が原因で、全国的に反平氏の火種をバラ撒いてしまう。そして所領を没収された以仁王の挙兵をきっかけに全国的に広がり、治承・寿永の乱に繋がっていく。
経緯
摂関家領の相続問題に介入
保元の乱の敗北で著しく減退した摂関家の勢力だったが、長寛2年(1164年)に藤氏長者・藤原忠通が失意の中で亡くなると息子の近衛基実がその後を継ぐ。すると清盛は摂関家と関係を結ぶために、基実に自身の娘・盛子を嫁がせた。後ろ盾を持たない基実としても清盛の後見が得られる事はメリットが大きかった。
基実は六条天皇の摂政に就任するも、永万2年(1166年)に24歳で病死。基実の子達はまだ幼く、後継は弟・松殿基房と見られたが、摂関家家司・藤原邦綱と清盛の策謀により摂政の位は基房に、そして基房が継ぐ予定であった莫大な摂関家領は基房の子・基通の成長まで妻である盛子が一時的に継承し、その管理を清盛が代理で行うこととなった。
しかしその盛子も治承3年(1179年)に24歳で亡くなってしまう。盛子は高倉天皇の准母であったため、摂関家領は基通の成長まで一時的に高倉天皇が相続することになっていた。…が、この決定に反発したのが基房である。基房は自身にも相続権がある事を法皇に主張した所、法皇は高倉天皇に家長の権利を行使しこの摂関家領を没収してしまった。
さらに基房の子供で8歳の松殿師家が20歳の基通を差し置いて権中納言に任ぜられる。これは近衛家から松殿家へと摂関家の後継者が移動した事を意味しており、上記の摂関家領も今後松殿家が継承する事であることを意味している。
基通に自身の娘・完子を嫁がせており、基実・基通と二代に渡り支援をしていた清盛としては、この決定は到底受け入れる事は出来なかった。
小松家問題に介入
治承3年(1179年)平重盛が亡くなる。一族ぐるみで付き合いのある藤原成親が鹿ヶ谷の陰謀で主犯格とされた事で政治的権威を失墜、失意の中であった。
そして重盛の死後に清盛の後継とされたのは重盛の子達ではなく、宗盛・知盛を始めとする清盛継室・平時子の子供たちであった。
重盛存命中から重盛一族(小松家)は平氏一門ではやや微妙な立場ではあったが、成親が罰せられ重盛も亡くなった事で庇護者を失った長男・維盛を始めとして、小松家は平氏一門において孤立状態に陥っており、清盛は小松家の平氏一門からの離脱回避の必要に迫られていた。
しかし重盛の死後、法皇は維盛が相続していた越前国を没収して院近臣であった藤原季能を越前守に任じてしまう。越前は重盛が長年治めており、小松家の生活基盤にもなっていた。
法皇が唐突に越前を没収した理由としては、重盛が清盛とはまた異なる勢力として院に近い立場であったために「越前は院近臣のものであって、平氏一門のものではない」という認識があったという説がある。
平氏一門内における非常にナーバスな問題に法皇が土足で踏み込んできた事は、清盛の強い怒りを招いたとみられる。
言仁親王の誕生
治承2年(1178年)に清盛の娘で高倉天皇の中宮であった平徳子が懐妊し皇子を出産。清盛は外祖父としての立場を手に入れることが出来るようになったが、このためには"治天の君"を権力の根拠として自らと対立する法皇は邪魔でしか無く、己がままに動く高倉天皇を治天の君にする必要性があった。
このため清盛は法皇に皇子の立太子を迫り、誕生からわずか一ヶ月あまりで親王宣下から立太子にまで至る。そして後見人を始めとした皇太子周辺の人間は親平氏で固められており、清盛が院勢力の排除を企図している事は誰の目から見ても明らかであった。
言仁親王の即位までに治天の君を高倉天皇へと移行させたい清盛にとって、法皇からの丁重なラブレター挑発を繰り返し受けた事は武力での制圧を決意させるには十分だった。
政変
治承3年(1179年)11月14日、数千騎の大軍を引き連れて清盛が福原から上洛すると、兵が町中に溢れた事で京中が騒然・パニックとなる。
これは清盛とはやや距離をおいていた異母弟・平頼盛がまだ態度を決めかねており、「万が一」を懸念した事がここまでの大軍を引き連れる理由になったと見られる。玉葉には「清盛と頼盛が合戦した」とまで伝聞が飛んでいた事が記されている。だが頼盛は清盛への恭順を決めた。清盛を止める事が出来る者はもはや居なくなった。
- 11月14日 - 清盛上洛。
- 11月15日 - 松殿基房、師家親子が解官。近衛基実が正二位に叙され関白・内大臣・藤氏長者に任ぜられる。
- 11月16日 - 天台座主・覚快法親王が罷免され、明雲が座主に復帰。
- 11月17日 - 太政大臣・藤原師長以下39人が解官。受領の大幅交代が行われる。
- 11月18日 - 松殿基房の太宰府への左遷・配流と藤原師長・源資賢(共に院近臣)の追放が決まる。
- 11月20日 - 後白河法皇が鳥羽殿に移動、幽閉状態に置かれたことで院政が停止。
院政の停止を確認した清盛は、後事を宗盛に任せると福原へと帰る。宗盛はその後粛々と院近臣達の逮捕・処罰・所領没収に努めた。
翌治承4年(1180年)、法皇の抵抗が無くなった事で満を持して高倉天皇が譲位し言仁親王が即位、安徳天皇となり天皇の外祖父であった清盛はこの世の栄華の絶頂を極めることになった。
政変の影響とその後
受領の多くが平氏派に交代した事は、現地の武士・豪族勢力との間で摩擦を引き起こした。新しく派遣された国司達がそれまで権益を得ていた既存勢力の力を削いで、自身に近い立場の人間を厚遇する動きを見せたからである。これが原因で受領が平氏派に交代した国を中心に全国的な反平氏の火種が起こる。
この知行国の交代の中で以仁王が自身の領地を奪われており、安徳天皇の即位で自身の即位が絶望的となった事と合わせて挙兵を企図したとされるが、これは事前に露見し滅ぼされている。しかし、反平氏の流れの中で以仁王の存在は積極的に利用され、その『令旨』と合わせて大きな効力を持ったとされる。
また関白である基房の配流に反対する興福寺、法皇から厚遇を受けていた園城寺といった仏教勢力も反平氏に靡く。対抗する天台宗座主に親平氏派である明雲が返り咲いた事も大きいと思われる。両勢力は以仁王の挙兵に積極的に協力をした事が原因で清盛の怒りを買い、興福寺は焼き討ちに合う(南都焼討)。
抵抗勢力への対応に嫌気が差したのか、清盛は安徳天皇を連れ自身の拠点である福原への遷都を強行するも、高倉上皇はこれを拒否。貴族たちの猛反発の中で富士川の戦いでの敗北もあって、わずか半年で京都に戻ってくる事となった。
混迷を極める情勢の中で病気がちであった高倉上皇が治承5年(1181年)1月に21歳で崩御、治天の君が不在となった事で後白河法皇の院政再開が避けられない状況となるものの、ついに清盛が病に倒れてそのままその波乱の生涯を終える。
この難局において治天の君と政治的指導者をほぼ同時に失った事は平氏政権にとっては痛恨の極みであり、以後弱体化と瓦解が進み、養和の大飢饉を経て2年後の寿永2年(1183年)、倶利伽羅峠の戦いで大勝した木曽義仲軍に対して京を支えきる事ができず都を捨て西へと敗走、地方政権へと転落する。
忙しい人のための治承三年の政変
- 平清盛「はよ引退しろ」「そもそもアンタは中継ぎ」「インターネットカラオケマン」
- 後白河法皇「黙れ小童」「ずっと宋と貿易してろ」「なんか大河ドラマの視聴率悪いらしいな」
- 平清盛「💢💢💢💢💢💢💢💢💢💢💢💢💢💢💢💢💢💢💢💢💢」
- 後白河法皇「武士だけど武力を使うのは卑怯じゃん…武士だけど武力使うのは…」
- 平清盛「君主、治天、軍事力…全部ワシの手元…ワシの天下じゃああ!!」
- 高倉上皇「あっ、清盛ごめん…ウーン(崩御)」
- 平清盛「えっ、そんなぁ…ウーン(病死)」
後白河法皇は朕の勝ちと思っていてもおかしくないが、実際のところ勝者と呼ぶべきなのは源頼朝であろう。
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