藤原泰衡単語

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藤原泰衡(ふじわらのやすひら)とは、平安時代末期鎌倉時代初期の武将。
東北一帯を支配していた族、奥州藤原氏第四代にして最後の当である。

概要

生年は定かではなく、久寿2年(1155年)あるいは長寛3年(1165年)、三代当藤原秀衡の次男として生まれる。
長男の子であったために太郎」「他之嫡男」と呼ばれていたのに対し、正室をに持つ泰衡は太郎」「当太郎と称され、生まれながらに嫡子として扱われた。
しかし幼年期の様子については詳しい文献が残っていない。後に奥州藤原氏護を受ける源義経の生年が治元年(1159年)であり、歳はさほど離れていなかった事のみが伺える。

文治3年(1187年)10月29日、秀衡の死去を受けて泰衡が督を相続した所から、その名前が文献に上がる事となる。平家を討伐した義経源頼朝との不和により都を追われ、秀衡の護下に入っていた最中の相続だった。
秀衡は自分の死後に頼朝が対立姿勢を深める事を予見しており、衡・泰衡の兄弟が手を携え、義経を擁立・補佐して大将軍とせよと遺言を残した。またそれぞれに異心がないようにと三人を集め、誓いを立てさせて起請文を書かせている。

しかし文治4年(1188年)、頼朝朝廷に対して義経追討の宣旨を出すよう要。泰衡に対して義経の首を差し出すよう強く迫った。それが出来なければ直接鎌倉方より軍を派遣し、奥州藤原氏ごと義経を征伐しようという強硬な申し入れに対し、泰衡は義経所在不明である為、居所が判明次第出頭させる」と返したが、これに取り合う頼朝ではなかった。

その後も執拗に宣旨を寄越し、4月には遂に泰衡追討の宣旨が出るに至る。追い詰められ、膝を屈せざるを得なくなった泰衡は、4月30日、衣館にあった義経一行を襲撃するに至る。
騎の軍勢に対し、義経方は僅かに十数名。覚悟を決めた義経は妻子を手にかけ、自害するに至った。最期を遂げさせる為に武蔵坊弁慶らは捨て身で抵抗し、ことごとく討ち死にしたと伝えられる。

義経の首級を納めた首桶に浸されて鎌倉に送られ、泰衡はめて頼朝に対して恭順を示す。しかし頼朝「今に至るまで義経を匿ってきた事は反逆以外の何物でもない」とし、奥州藤原氏征伐に乗り出した。
ここに「州合戦」が勃発。8月11日賀志山の戦いにおいて総大将衡が敗死。平泉は炎に包まれ、奥州藤原氏の繁栄を伝える建物も財宝もことごとく燼に帰した。
泰衡はその後も助命嘆願を続けるが、頼朝は最後まで聞き入れる事なく、厳しくその行方を詮議した。最終的に泰衡は郎党・河田次郎を頼って贄柵(現在秋田県大館市)まで落ち延びたが、9月3日、裏切られて殺された。享年25(あるいは35)であった。

河田はその後泰衡の首級を頼朝に届けたが、頼朝はこれを称賛するどころか「譜代の恩を忘れた八虐の罪である」として次郎罪に処した。
その後、泰衡の首級は間に八寸の釘を打ち込まれ、柱に打ち付けられてしものとされた。しかし程なく平泉に戻され、生き残った近者によって漆塗りの首桶に入れられ、・秀衡の眠る中尊寺色堂に納められた。

評価

悲劇的な最期を遂げた義経にとって直接の死因である事、の遺言を裏切った結果一族の滅亡に至った事などから、古くから泰衡の評価は低いものだった。

吾妻鏡』でも

賀志山のが大敗したと聞いてあわてふためきを忘れ」
「一時の命を惜しんで隠れる事のごとく、退くこと貎(※子犬)に似たり」

とケチョンチョンにされている。

だが度重なる頼朝からの圧や時勢の前に膝を屈したのは止むを得ない事であり、単純に泰衡ひとりを責める事は出来ない。また泰衡は秀衡の死後1年半に渡り遺言を守りながら、いずれ来るだろう鎌倉方の軍を迎え撃つ為に軍備を整えている。
そんな中で泰衡が義経を急襲して自害に追い込んだのは不自然であるという摘もあり、そもそも『吾妻鏡』自体が鎌倉方に重きを置いて正当性を訴える史料である以上、その偽には疑問を呈するという研究者さえいる。

この辺りの評価・研究についてはWikipediaexitなどを参照すると面いかも知れない。

その後

中尊寺色堂に納められた泰衡の首級については、長らく・忠衡のものとされていた。しかし1950年昭和25年)大々的な調が行われた際、斬首されたと思しき形跡や、間と後頭部にある貫通が『吾妻鏡』での描写と一致する事などから、泰衡であると確認された。ミイラ化していたが保存状態は良好で、も綺麗に残っていたという。

その首桶には100個ほどのの種が入れられており、彼の最期を哀れんだ何者かによって入れられたと推察されている。
これらの種は後に植物学者・大賀一郎に託されたが発芽は成功しなかった。しかし1995年、大賀の子の手によって発芽が成功、5年後に開が報じられた。泰衡の死から実に800年余の歳え、が咲いた事になる。
この中尊寺蓮exitとして現在も中尊寺内の池で栽培されており、見所となっている。

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藤原泰衡

10 ななしのよっしん
2022/03/08(火) 00:03:11 ID: /4fJrOLLMl
巷で言われてるほど強大な勢でもなくてその実態を一番分かってたのは泰衡自身だったのかもね
だから恭順しようとしたが、それが却って鎌倉側に大した勢ではないなとバレたんじゃないかなあ
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11 ななしのよっしん
2022/05/09(月) 20:58:35 ID: GU5xp2Irc+
義経を置いとけば、少なくとも「最強こけおどし」としてネームバリューによる押さえがきいたとは思う
実際に開戦したらどうなるか以前の部分で義経は必要だった
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12 ななしのよっしん
2022/05/22(日) 20:48:12 ID: itMcczM+UJ
鎌倉殿の13人でも哀れな人物だったな
義経を匿いたくなかったってのは史実でもそう思ってたんじゃないかな
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13 ななしのよっしん
2022/05/29(日) 18:49:31 ID: xsVr1vW81P
鎌倉殿の13人では義経を討った事の結果を突きつけられたナレ死首桶エンドか…。
あの状況では義時とアサシン善児の二人を欺くくらいできないと
どうしようもなかったとはいえ、タッキー義経の時と同様に
芸ができない&先行きが見えない人にされてしまった感じ。
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14 ななしのよっしん
2023/04/23(日) 16:49:24 ID: K0KVck8nSI
古い史観において「ひたすら無能で有だったバカ」として扱われる存在の大体には、いやでもこの人の立場って難しいもので活路もあったか分からないしさ…というような擁護が入りやすい
だが大体は大体であって全部ではなく、この人や源行家平宗盛のように好意的な意見が寄せられない例もある
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15 ななしのよっしん
2023/06/23(金) 06:38:32 ID: I2nT7yN8Ce
秀衡は頼朝に恭順しても色々と因縁つけられて攻め込まれる事は分かってたんだろうなあ...
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16 ななしのよっしん
2023/07/18(火) 15:12:56 ID: Qaxv86z8E7
秀衡がそこまでわかっていたとも思えないけどなあ
そこまで読んでいたなら平氏や義仲と言った対頼朝が残っている内に頼朝かないとダメじゃない?
のんびり傍観しすぎだよ秀衡は
頼朝を強大化させた一因は秀衡にもある

全部泰衡一人の無能のせいというのは違うと思うよ
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17 ななしのよっしん
2023/10/01(日) 02:35:18 ID: 7UB8XWSeiA
泰衡が関わった地域ではことごとく名君扱いされて同情されてるので、ひと昔前のドラマでのバカ扱いはやっぱり不適当なんじゃないか
それに加えて食客としてしんだ義経を殺すほど追い詰められてたわけだ
彼が悲劇の将でなきゃ何だってんだ
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18 ななしのよっしん
2024/02/10(土) 16:30:19 ID: uFyS6xHgVA
>>13
めて見返すと、普段は無表情仕事していく善児が義経に対しては殺意MAXで睨み付けているから逃しようもい状況だったな。
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19 ななしのよっしん
2024/02/10(土) 16:33:23 ID: mHcoXWAjPl
>>17
それは単なる地元びいきであって評価を修正する理由にならないのでは
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