松平定信とは、江戸時代後期の政治家。「寛政の改革」を老中として主導したことで知られる。
近年の研究により、その財政政策は田沼政権との連続面があったとされ、寛政の改革は田沼時代のものを継承したものであると近代日本史の書籍には書かれている。
概要
実家は御三卿筆頭の田安家、徳川吉宗の孫。白河藩へ養子にいった後、実家が跡継ぎがいなくなったため、田安家へ戻ろうとしたが田沼意次の妨害にあい実現しなかったといわれている。田安家が当主不在のまま10代将軍徳川家治が亡くなり、将軍家の後継は弱冠15歳の一橋家の家斉が収まった。当時26歳の定信が田安家にいれば将軍になった可能性は十分にあった。
天明6年(1786年)に家治が死去して家斉の代となり、田沼意次が失脚した後の天明7年(1787年)、徳川御三家の推挙を受けて、少年期の第11代将軍・徳川家斉のもとで老中首座・将軍輔佐となる。そして天明の打ちこわしを期に幕閣から旧田沼系を一掃粛清し、祖父・吉宗の享保の改革を手本に寛政の改革を行い、幕政再建を目指した。
当時、幕府の備蓄金は底を突いており、しかも100万両もの収入不足が見込まれていた。この財政を再建するため、厳しい倹約令による財政緊縮政策がとられ、大名から百姓・町人にいたるまで厳しい倹約が要求された。大奥の経骰を3分の2に減らしたのみならず、朝廷にも経費の節減を求めたほど、徹底したものであった。
その結果、最終的には赤字体質から幾らかの備蓄金が積み上げられるようになったが、その厳しすぎる倹約令は内外の不満をつのらせた。
また天明の飢饉の際、米価の高騰をおさえられなかったことから、江戸の両替商を中心に豪商を幕府の勘定所御用達に任命し、彼らの資金と知識や技術を活用しようとした。定信は、凶作でも飢饉にならないように食糧の備蓄をはかった。諸大名には1万石につき50石を5年間にわたり領内に備蓄させ、さらに各地に社倉・義倉を設けさせた。
ロシア対策としては北国郡代を新設して北方の防備にあたらせる計画が立てられた。またオランダの協力の元洋式軍艦の製造も計画されていたが、松平定信の老中辞職とともに実現しなかった。
寛政の改革の成果については現代では賛否が分かれている。また昨今の田沼意次の再評価の煽りを受け、定信に関しては逆に過小評価がされている傾向が指摘されている。
松平定信についての間違った風説
- 田沼時代の貯金を食いつぶした
- 株仲間をことごとく解散させた
- 田沼政権の通貨政策を否定し、二朱銀を否定しようとした
- ロシア交易や蝦夷地開発を取りやめた
- 身分制ガチガチに凝り固まった
- 寛政異学の禁で「異学」を封じた
- 蘭学に対して冷たかった
- 寛政の改革で田沼時代から幕府は大きく方針転換した
- 田沼意次の積極財政 対 松平定信の緊縮財政 という構図
田沼政権との連続面
過去の通説では松平定信は田沼意次の政策をことごとく覆したとされるが、近年ではむしろ寛政の改革には田沼政権との連続面があったと指摘される。
定信の反田沼キャンペーンは、かなり建前の面が強く、現実の政治は、田沼政治を継承した面が多々みられ、とくに学問・技術・経済・情報等の幕府への集中をはかったことや、富商・富農と連携しながらその改革を実施したことなどは、単なる田沼政治の継承というより、むしろ田沼路線をさらに深化させたと考えられている。寛政の改革において講じた経済政策は、株仲間や冥加金、南鐐二朱判、公金貸付など、実は田沼政権のそれを継承したものが多かったと昨今の歴史書の多くに記載されている。
さらにいうなら、二朱銀や山田羽書などの貨幣製作など、むしろ田沼政権よりも先進的な政策をとっている側面もある。
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関連項目
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