ウインザーノットとは、
種牡馬時代の「2000mで2分を6回切った馬」というキャッチフレーズが知られている快速馬。
挫折だらけの苦労人のおぼっちゃまである。
主な勝ち鞍
1984年:函館記念(GIII)
1985年:函館記念(GIII)
※馬齢表記は当時のものに合わせて旧表記で記載しています。
この馬の血統を語る時、外せないのは母のことであろう。
フランス牝馬三冠の最終戦・ヴェルメイユ賞と世界最高峰のレース・凱旋門賞を勝った名牝・*サンサンを母に持つのである。(ちなみに、勝った凱旋門賞には天皇賞馬メジロムサシが参戦して最下位に沈んでいたりする)
日本競馬に輸入された牝馬の中でも屈指の名牝の1頭だと言えるし、さらに国際的に日本競馬の地位が低かった80年代ということを考えれば、アメリカの名牝・グッバイヘイローの子が日本で走るよりすごいことだと言えるだろう。
さて、そんなサンサンだが、初子のリキサンサン(4勝)と第2子のスピードサンサン(3勝)が共に牝馬ながらもそこそこ走って、さすが凱旋門賞馬と思われた。
とうとう生まれた待望の牡馬、しかも数々の活躍馬を輩出した*パーソロンを父に持つウインザーノットに多大な期待がかかったのは当然のことである。
ところが、競走年齢に達した時点でウインザーノットはその期待に応えるような成長を果たしていなかった。
3歳秋に入厩した時点で脚長でヒョロッとした体つきで、ウインザーノットを見た厩舎スタッフが「姉2頭ぐらいは走るんじゃないかなあ……それ以上? 無理じゃね?」と思うような馬だったという。
そして悪い予感は的中してしまい、明け4歳のデビュー戦で追走するだけでいっぱいいっぱいになり5着。しかも脚部不安が出て一息入れるはめに。
なんとか立て直してレースに出すが、ここでは掲示板すら外す7着に終わる。
じゃあ今度こそ、と思った次走は直線で内ラチ沿いから大外までブッ飛んでいって16着。4ヶ月の休養を挟んでの4歳9月、もう未勝利戦すら無くなるような時期になって函館で復帰するが、今度はゲートで立ち上がって3着、さらにゲート再審査。
気性難、虚弱体質に加えて父母どころか姉2頭にすら鼻で笑われそうな成績に、厩舎スタッフ一同頭を抱えたという。
ゲート再審査と発走調教も終わり、未勝利戦がないからと出た400万以下条件でやっと初勝利を上げるが、世間はミスターシービーの三冠達成が果たされるかどうかに注目をしている時期。
その同期で名牝の産んだ不肖の息子になんて誰も注目をしているわけもなく、本当にひっそりとした勝利だった。
しかし、世間に無視される中で気性難が治りつつあったウインザーノットは、休養を挟んで明け5歳から快進撃を始めるのである。
小倉競馬場に遠征して、初勝利から数えての3連勝を飾る。虚弱体質はまだ治っていなかったため疲労がたまり、温泉治療のためここで一旦戦線離脱。
その後、夏の函館に向かって2000mの900万以下条件戦を勝って4連勝と連勝を伸ばすのだが、2000m戦は重賞でも2分かかるのが当たり前だった時代に、ウインザーノットは2分を切るタイムを叩き出した。
当然、陣営は良血の開花に期待した。次戦は格上挑戦で、重賞初挑戦となる函館記念。ハンデ戦のため53キロで出られるという好条件である。
「ウインザーノット? ああそんなのいたね」という空気の中、ここも2分を切る好タイムで快勝。同じ2000mで行われる秋の天皇賞へ向け、打倒ミスターシービーを目指す有力馬の中にウインザーノットが名を連ねるようになったのだ。
だが、ここで再び虚弱体質が顔を出す。調教中に骨折し、またもや休養に入るはめになった。
ウインザーノットが6歳になり骨折から復帰すると、競馬界の勢力図は大きく変わっていた。日本のトップホースはミスターシービーではなく、1歳年下の"皇帝"シンボリルドルフになっていたのだ。
そんな中、ウインザーノットの復帰戦は宝塚記念に決まった。一応は5連勝中でしかもシンボリルドルフが出てないとはいえ、長期休養明けの初GI挑戦である。惨敗の目すらありえたが、逃げたウインザーノットは勝ち馬のスズカコバンから0.2秒差の3着に粘る。
続く高松宮杯でも3着に入ると、前年に軽ハンデで制した函館記念を今度は58.5キロのハンデ・重馬場という悪条件の中でまたもや2分を切るタイムで連覇達成。
秋初戦の毎日王冠も2着とし、今度こそという思いで天皇賞(秋)に向かった。
そしてこの天皇賞でウインザーノットはシンボリルドルフに次ぐ2番人気、つまり"打倒皇帝"を期待される筆頭格となったのだ。
その期待に応え、ウインザーノットは直線でシンボリルドルフとの叩き合いを展開。ルドルフの前になんかいた気がするけどルドルフからは僅差、そして"マイルの皇帝"ニホンピロウイナーと同着である3着に入る大健闘の結果に終わった。
GI制覇の日も近いと思わせたが、次走のジャパンカップは距離が不向きだったのか15着と惨敗。そしてまた骨折し、休養に入ることになった。
GIじゃちょっと足りなくて距離が伸びるとダメな超良血馬ってどこかで聞いたことがあるかもしれないけど、それには触れてあげない方向で。
7歳になり、ウインザーノットが思い出の函館で復帰すると、勢力図はまたまた大きく変わっていた。シンボリルドルフが海外遠征へ向かい、古馬戦線はミホシンザンを筆頭とした群雄割拠の様相を呈していたのだ。
そんな中に殴り込みをかけるべく、ウインザーノットはまず巴賞をレコード勝ちで復帰戦を飾る。
だが、3連覇を狙った函館記念では60.5キロという前年よりもさらに増えたハンデが響いて"若き快速馬"ニッポーテイオーの4着に敗れ、毎日王冠でも"中距離の鬼"サクラユタカオーの前に4着に敗れてしまう。
もはや同期の馬もほとんど引退し、"快速馬"、"中距離の鬼"というキャラ被りするような馬たちまで現れ、終わった馬と思われたウインザーノットは本番の天皇賞(秋)でも6番人気に甘んじた。
しかし、古豪の風格漂わせ快調に逃げたウインザーノットは直線に入っても失速しない。直線半ばでサクラユタカオーにこそかわされたものの、ミホシンザン以下後続馬はよせつけず2着と前年よりも着順を上げた。
そしてウインザーノットは同レースで引退し、GIこそ勝てなかったものの良血馬の意地を見せることには成功した。
種牡馬入り後はセントライト記念勝ちのウインドフィールズを輩出するなど健闘したが、父の勝てなかったGIを勝つ馬は現れなかった。
ウインザーノットの姉・リキサンサンは父に英二冠馬・サーアイヴァーを持つという弟以上の超良血馬なのだが、その子供が"3億円がドブに捨てられた馬"として知られるサンゼウス(父トウショウボーイ)だったりする。
また、*サンサンの子孫は、孫(ウインザーノットの甥)にネイティヴハート、ひ孫にサクセストレイン、マーブルチーフという重賞勝ち馬を出して活躍しているものの、GIだとちょっと足りない馬が多い。ウインザーノットがGIを勝てなかったのは宿命だったのかもしれない。
*パーソロン 1960 鹿毛 |
Milesian 1953 鹿毛 |
My Babu | Djebel |
Perfume | |||
Oatflake | Coup de Lyon | ||
Avena | |||
Paleo 1953 鹿毛 |
Pharis | Pharos | |
Carissima | |||
Calonice | Abjer | ||
Colonis | |||
*サンサン 1969 黒栗毛 FNo.7-c |
Bald Eagle 1955 鹿毛 |
Nasrullah | Nearco |
Mumtaz Begum | |||
Siama | Tiger | ||
China Face | |||
Sail Navy 1958 鹿毛 |
Princequillo | Prince Rose | |
Cosquilla | |||
Anchors Aweigh | Devil Diver | ||
True Bearing | |||
競走馬の4代血統表 |
クロス:Pharos 4×5(9.38%)、Bull Dog=Sir Gallahad 5×5(6.25%)、Tourbillion 5×5(6.25%)
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最終更新:2024/12/22(日) 01:00
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