コンテ・ディ・カブール級戦艦とは、イタリア海軍が運用していた戦艦である。
1910年代にイタリア海軍初の量産型ド級戦艦として以下の3隻が建造された。
とイタリアを代表する偉人を艦名に起用している事からも本級にイタリア海軍が期待を寄せていた事が伺えるが2隻が事故で沈没、1隻が戦闘による損傷から回復できないまま解体されて生涯を終えた。
1906年にイギリスで戦艦『ドレットノート』が就役して以降、世界の列強国は競ってド級戦艦の開発・建造を進めていた。
それはイタリアも例外ではなかったが当時は西のフランスより東のオーストリア・ハンガリー二重帝国を意識した建艦計画を進め、1913年にイタリア初のド級戦艦『ダンテ・アリギエーリ』を就役させた。
『ダンテ』は艦橋と艦尾楼の前後に30㎝砲を備えた主砲塔を配置する事で両舷へ最大火力を発揮する事を重視した戦艦だったが主砲塔は世界初の3連装式を採用しており4基=12門を装備していた。
しかし建造中にオーストリアが同数の主砲を備えた『デゲトフ』級を建造するとの情報を掴んだ事から『ダンテ』は1隻の建造に留め、本級の建造へ移行した。
基本的に本級は『ダンテ』の改良拡大型であり、機関は重油専焼と石炭混焼式ボイラーを併用して稼働する蒸気タービン+4軸推進、主砲を艦首側、中央、艦尾側へ配置を踏襲しているが大幅に改良されている。
船体は全長176m、幅28m、満載排水量は24,000tに達した反面、艦首をクリッパー式に改良したものの機関出力が31,000馬力に下がって速力は21㏏に留まったが航続距離は10㏏で4800海里と変わらなかった。
因みに建造当初はマストを煙突後方に寄せて1本づつ配置していたが前方マストが排煙で燻されてしまうことから後に煙突前方に再配置+3脚式から4脚式マストに変更している。
兵装面では30㎝主砲は5基=13門に増やされている。これは艦首と艦尾の主砲群を3連装(下)+連装(上)の構成で背負い式に配置し中央部に3連装砲塔を1基配置する構成にしたからである。
主砲の最大射程は仰角20度で24㎞に達している。
副兵装としては船体両舷に12㎝単装砲を総計12門、7.6㎝速射砲を主砲塔上部を中心に20門程度を備え、艦尾には固定式45㎝魚雷発射管3門を仕込んでいた。
一方で装甲は司令塔・主砲共に最大28㎝、舷側は最大25㎝と主砲に対して薄目である。
なお、1920年代に『カブール』は艦首左舷にカタパルトを追加して水上偵察機1機を運用した。
1932年になって当時残存していた『カブール』と『ジュリオ』は大改装を受ける事になった。
これはワイマール時代のドイツが建造したドイッチュラント級装甲艦に刺激を受けたフランスがダンケルク級戦艦の新造を決定した事により伊仏のシーパワーバランスが崩れる事が決定的になった事から新鋭戦艦=ヴィットリオ・ヴェネト級戦艦の建造が決定したものの戦力化までに時間がかかる事と新技術の実証を兼ねて以下の大改装が4年掛かりで実施された。
戦力化された3隻が揃ったのは1915年4月の事で1ヶ月後に第1次世界大戦が勃発、程なくイタリアは戦前の三国同盟を破棄して連合国側に付いた。
だがオーストリアは前述の『デゲトフ』級を含む戦艦部隊を敢えて港に留め置く事で敵国に心理的圧力をかける『現存艦隊主義』をとった事に加え連合国側がアドリア海の入り口であるオトラント海峡に機雷堰と防潜網を張って封鎖した事から本級を含むイタリア戦艦部隊も出番が無くなってしまったのである。
そうした中で1916年8月、タラントに寄港していた『ダ・ヴィンチ』の艦内で爆発が発生、『ダ・ヴィンチ』は転覆沈没してしまった。
当初イタリアはオーストリアの破壊工作を主張したものの最終的には不適切な弾薬の取り扱いに由来する事故と結論付けられ最終的に解体された。
そして残る2隻は『ダンテ』や戦時中に就役した後輩の『カイオ・ドゥイリオ』級共々本格的な戦闘を行う事無く休戦を迎えた。
戦間期、特に1920年代はイタリアが経済不調、政治的に混乱していた事もあって前述のマスト改良程度の変化しかなかったが『カブール』は1923年にアルバニア、ギリシャ、ユーゴスラビアの国境紛争調停に国際連盟の枠組みで調査に参加していたテッリーニイタリア陸軍大将暗殺[5]への制裁としてムッソリーニ政権が実施したギリシャ・コルフ島を武力占領した『コルフ島事件』に参加して艦砲射撃を行い死傷者を出す事態を起こしている。
そして前述の大改装を経て1940年6月、ドイツ側に立って英仏を中心とする連合国陣営に宣戦布告となったがこの時点で実質フランスは敗北しており、相手はイギリスとなっていた。
更にこの頃のイタリアは石油を植民地のリビアで発見していない=輸入しかなかった上に備蓄も全艦艇を賄えるのは1年に満たない事から前大戦のオーストリア同様、『現存艦隊主義』を主軸に据えて燃料を喰う戦艦部隊の出動を控えめにするしか無かったのである。
そんな矢先、開戦1か月後の7月9日、リビアへの増援兵力を送り届ける船団護衛任務を終えて本国に帰投した『カブール』、『ジュリオ』は『ウォースパイト』、『マレーヤ』、『ロイヤル・サブリン』の戦艦3隻を擁するイギリス地中海艦隊と交戦=『カラブリア沖海戦』に臨んた。
この戦闘で『ジュリオ』は『ウォースパイト』と砲撃戦になったが『ジュリオ』は後部甲板に被弾し駆逐艦の煙幕による援護で後退して難を逃れ、『カブール』は残る2隻を牽制する形になったものの直接戦闘には至らず2隻とも帰還する事が出来た。
しかしこの4か月後の11月11日深夜、タラントに停泊していた『カブール』はイギリスの『ジャッジメント作戦』による空襲を受け魚雷により着底=戦闘不能になってしまい8か月後に引き上げられたもののタラントからトリエステへ移動して修理・改装を受ける事になったがこれが『カブール』の運命を決めることになった。
残された『ジュリオ』はリビアへの船団護衛を後輩達と共に散発的に続け、時にはイギリス艦隊と対峙する事もあったが直接的な戦果は挙げられず開戦2年目の1942年冬、ポーラ(現クロアチア領)において練習艦に変更された。
そして1943年7月25日、ムッソリーニは失脚・拘束されてバドリオ政権が発足したものの表向きは戦争を続けつつ連合国との交渉を続けて9月8日に休戦・降伏となったがこの情報は直前までイタリア軍前線部隊に知らされなかった反面、ドイツには察知されており休戦直後にすぐさま首都ローマを含む北部やフランス、バルカン地域が占領され、トリエステに居た『カブール』はドイツの手に落ちたがポーラに居た『ジュリオ』は脱出に成功して連合国に投降した。
実のところ『カブール』の修理は戦況悪化に伴う資材不足で1943年初頭に断念されており戦力的価値は失われていたものの1945年に空爆により沈没、再起不能となって戦後解体された。
残されたのは『ジュリオ』のみとなったが終戦から3年後、ソビエト連邦に引き渡される事になった。
これはイタリア降伏直後からソビエトが連合国側の権利としてイタリア残存艦艇の3分の1を引き渡す事を主張していたのを前年に締結した『パリ条約』によって確定させたためであった[6]。
こうして『ジュリオ』はソビエト黒海艦隊戦艦『ノヴォロシースク』となったが1955年10月29日、その生涯を終える事になる。
その日の早朝、黒海の要所であるセヴァストポリに停泊していた『ノヴォロシースク』の右舷側で突如爆発が起こり一度は持ち直したが再度の爆発と対処の不手際の為に転覆沈没した。
なお、二度の爆発に関しては公式には『戦後の掃海作業から漏れたドイツの機雷によるもの』とされている。
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