アルジャーノン・バートラム・フリーマン・ミットフォード(Algernon Bertram Freeman-Mitford 1st Balon Redesdale)とは、19世紀英国の外交官・貴族である。通称リーズデイル卿。
1837年2月24日、ロンドンで誕生。フランク王国のカール大帝を遠い先祖に持つ名門貴族の家に生まれる。
3歳の頃父母とともに欧州に渡り、ドイツやフランスで生活を送る。
1855年、オックスフォード大学に入学。1858年卒業後、英国外務省に入る。
1866年10月、清での勤務中日本への転勤を命じられ、維新前夜の日本に赴き、英国公使ハリー・パークスや、盟友アーネスト・サトウと共に明治維新の立会者となる。
英本国においては自身の業績よりも、6人の孫娘達の素行によってその名を知られている。
1866年10月16日、横浜に到着し、英国公使館書記官として着任。
着任後、驚異的な早さで日本語を習得し、外交交渉や当時の難解な文章を英訳するなど、持ち前の語学の才を生かして活躍する。
1867年4月末から5月上旬にかけて、パークス、サトウらとともに江戸幕府15代将軍・徳川慶喜と大阪城にて会見する。
「最後の将軍徳川慶喜は、確かに傑出した個性を備えた人物であった。(中略)
端正な容貌をして、眼光は爛々と鋭く、顔色は明るい健康的なオリーブ色をしていた。口はきつく結ばれていたが、彼が微笑むと、その表情は優しくなり、極めて愛嬌に飛んだものとなった。(中略)
もし、貴族というものがあるとすれば、彼こそ本当の偉大な貴族であった。惜しむらくは、彼は時代錯誤の人だったのである」
(A.B.ミットフォード『英国外交官の見た幕末維新』)
8月、当時日本国内で最も裕福といわれていた加賀藩の擁する七尾湾開港交渉のため、パークス、サトウらと共に船で加賀藩に入った後、パークスから内陸部調査の指示を受け、サトウと陸路で大阪に向かう。
大阪に向かう途上、大津を通るか草津を通るかで役人と揉めた結果草津を通ることになったが、この時大津ルートで攘夷派の武士たちが待ち伏せしていたため、運良く難を逃れる形となる。
大阪到着後、英国人水兵殺害事件(イカルス号事件)の調査を行っていた際、容疑者の出身藩と疑われた土佐藩の参政・後藤象二郎と面識を得、友好を深める。
9月に一旦江戸へ戻り、11月に翌年に控えた兵庫開港の準備のため、再度大阪に向かう。ちょうど同じ頃、徳川慶喜が大政奉還の上表文を朝廷に提出し、世情は革命前夜のような狂騒を呈し始めていた。
「我々が13日に大阪へ戻ると、町中が喜びと興奮で大騒ぎだった。これは伊勢神宮と書かれた紙のお札が最近、空から雨のように降ってきたという奇跡を称えるためで、伊勢神宮は古くから日本に先祖代々伝えられた神道の最大の社であった。何千人もの人々が幸せそうに、赤や青の縮緬の晴れ着を着、赤いちょうちんを頭上に掲げ、声を限りに「ええじゃないか!ええじゃないか!」と叫びながら踊っているのであった。どの家も色とりどりの菓子、蜜柑、絹の袋、神社の前にかけてあるような注連縄、それにたくさんの花で飾り立てられていた。それは不思議な驚くべき光景で、おそらく二度と見ることはできないだろう」
1868年1月3日、王政復古の大号令により天皇を頂点とする新政府の発足が宣言されると、新政府との衝突を避けるため、会津・桑名両藩兵の他旧幕府軍を率いた徳川慶喜が二条城から大阪城に退去した。この時の行列を見たミットフォードはその様子を以下のように書き残している。
「これ以上、途方もなく不思議な光景は考えられないだろう。ヨーロッパ式ライフル銃を持った歩兵も何人かいたが、それと同時に日本古来の鎧兜に身を固めて槍や弓矢や奇妙な形の湾曲刀をもち、大小の刀を差して、中世の源平の戦いの絵巻物から抜け出したような武士たちがいた。彼らの陣羽織は伝令官の紋章入りの官服とは違って、ヨセフの着物のように色とりどりであった。見るも恐ろしい仮面は漆塗りの鉄で、物凄い頬髭と口髭で縁どられ。頭上の兜につけた鬘からは長い馬の毛が腰まで垂れていた。それはどんな敵でも脅かすに十分だった。まるで悪夢の妖怪にそっくりの格好だった」
1月27日、京都方面の空が燃えるように赤くなるのが見えると、間もなく武力衝突の知らせが届き、旧幕府からこれ以上身柄の安全が確保できなくなったと通告を受ける。
旧幕府軍の敗退と徳川慶喜の脱走により、新政府を日本の公式政府と認める見解が英国公使パークスを中心に纏められ、旧幕府に代わり新政府との外交交渉が始まった。
3月、新政府から議定・山内容堂の診察の依頼を受けたパークスは、医師のウイリアム・ウィリスの他、偵察役としてミットフォードを京都に派遣。容堂の他、後藤象二郎、伊藤俊輔(博文)、木戸孝允と今後の見通しについて意見交換を行う。
明治天皇との謁見の日程が23日に決まり、当日御所に参内中に襲撃を受けるが、同行していた後藤象二郎や中井弘蔵に救出されている。
「天蓋の下には若い天皇が高い椅子に座るというよりむしろもたれていた。(中略)
天蓋の近くに位置し、高価な緑色の絹地で飾られた一段と高くなった床の上に、パークス公使と私が立ち、先導役の肥前候が、その側に跪いた。片側には通訳を務める外国事務局の伊藤俊輔が、同じく跪いていた。天蓋の両側には、二列か三列になって広間のほうまでずっとつながって薩摩、長州、宇和島、加賀、その他の大名が並んでいた。その時まで、我々が名前しか知らなかった大名たちの生き姿を初めて、この目で見たのである。それは我々にとって、極めて印象的な光景であった。(中略)
我々が部屋に入ると、天子は立ち上がって、我々の敬礼に対して礼を返された。彼は当時、輝く目と明るい顔色をした背の高い若者であった。彼の動作には非常に威厳があり、世界中のどの王国よりも何世紀も古い王家の世継ぎにふさわしいものであった」
1886年、従兄弟の貴族であるリーズデイル伯爵の死去に伴い、その遺産を受け継ぐ。
1902年、男爵の称号を授与され、リーズデイル男爵家を興す。
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