ミットフォード 単語

1件

ミットフォード

2.7千文字の記事
  • twitter
  • facebook
  • はてな
  • LINE

アルジャーノンバートラム・フリーマン・ミットフォード(Algernon Bertram Freeman-Mitford 1st Balon Redesdale)とは、19世紀英国外交官・貴族である。通称リーズイル卿。

概要

1837年2月24日ロンドンで誕生。フランク王国カール大帝を遠い先祖に持つ名門貴族に生まれる。

3歳の頃とともに欧州に渡り、ドイツフランス生活を送る。

1855年、オックスフォード大学入学1858年卒業後、英国外務省に入る。

1863年以降、書記官としてロシア、清に赴任。

1866年10月、清での勤務中日本への転勤を命じられ、維新日本に赴き、英国使ハリーパークスや、盟友アーネスト・サトウと共に明治維新の立会者となる。

英本においては自身の業績よりも、6人の孫達の素行によってその名を知られている。

この記事では日本滞在時の彼の足跡について扱う。

維新の前夜

1866年10月16日横浜に到着し、英国使館書記官として着任。

着任後、驚異的なさで日本語を習得し、外交交渉や当時の難解な文章を英訳するなど、持ち前の語学の才を生かして活躍する。

1867年4月末から5月上旬にかけて、パークス、サトウらとともに江戸幕府15代将軍・徳川慶喜大阪城にて会見する。

「最後の将軍徳川慶喜は、確かに傑出した個性を備えた人物であった。(中略)
端正な容貌をして、眼は爛々と鋭く、顔色は明るい健康的なオリーブ色をしていた。口はきつく結ばれていたが、彼が微笑むと、その表情は優しくなり、極めて嬌に飛んだものとなった。(中略)
もし、貴族というものがあるとすれば、彼こそ本当の偉大な貴族であった。惜しむらくは、彼は時代錯誤の人だったのである」
(A.B.ミットフォード『英国外交官の見た幕末維新』)

8月、当時日本国内で最も裕福といわれていた加賀の擁する七尾湾開港交渉のため、パークス、サトウらと共に加賀に入った後、パークスから内陸部調示を受け、サトウと陸路で大阪に向かう。

大阪に向かう途上、大津を通るか草津を通るかで役人と揉めた結果草津を通ることになったが、この時大津ルートで攘夷武士たちが待ちせしていたため、運良く難を逃れる形となる。

大阪到着後、英国兵殺事件(イカルス号事件)の調を行っていた際、容疑者の出身と疑われた土佐の参政・後藤象二郎と面識を得、友好を深める。

9月に一旦江戸へ戻り、11月に翌年に控えた兵庫開港の準備のため、再度大阪に向かう。ちょうど同じ頃、徳川慶喜が大政奉還の上表文を朝廷に提出し、世情革命のような狂騒を呈し始めていた。

々が13日に大阪へ戻ると、町中が喜びと奮で大騒ぎだった。これは伊勢神宮と書かれたのお札が最近、からのように降ってきたという奇跡を称えるためで、伊勢神宮は古くから日本に先祖代々伝えられた神道の最大の社であった。何千人もの人々が幸せそうに、の縮緬の晴れ着を着、いちょうちんを頭上に掲げ、を限りに「ええじゃないか!ええじゃないか!」と叫びながら踊っているのであった。どのも色とりどりの菓子蜜柑の袋、神社の前にかけてあるような注連縄、それにたくさんので飾り立てられていた。それは不思議な驚くべき光景で、おそらく二度と見ることはできないだろう」

Closing Days of the Tokugawa Shogunate

1868年1月3日王政復古の大号令により天皇を頂点とする新政府の発足が宣言されると、新政府との衝突を避けるため、会津・桑名両兵の他旧幕府軍を率いた徳川慶喜二条から大阪城に退去した。この時の行列を見たミットフォードはその様子を以下のように書き残している。

「これ以上、途方もなく不思議光景は考えられないだろう。ヨーロッパライフルを持った歩兵も何人かいたが、それと同時に日本古来のに身を固めて矢や奇妙な形の湾曲をもち、大小のを差して、中世源平の戦いの絵巻物から抜け出したような武士たちがいた。彼らの羽織は伝官の紋章入りの官とは違って、ヨセフの着物のように色とりどりであった。見るも恐ろしい仮面は漆塗りので、物凄いと口で縁どられ。頭上のにつけた鬘からは長いの毛がまで垂れていた。それはどんな敵でも脅かすに十分だった。まるで悪夢妖怪にそっくりの格好だった」

1月27日京都方面のが燃えるようにくなるのが見えると、間もなく武力衝突の知らせが届き、旧幕府からこれ以上身柄の安全が確保できなくなったと通告を受ける。

旧幕府軍の敗退と徳川慶喜の脱走により、新政府日本公式政府と認める見解が英国使パークスを中心にめられ、旧幕府に代わり新政府との外交交渉が始まった。

新政府との交渉

3月、新政府から議定・山内容堂の診察の依頼を受けたパークスは、医師ウイリアム・ウィリスの他、偵察役としてミットフォードを京都派遣。容堂の他、後藤象二郎伊藤俊輔(博文)、木戸孝允と今後の見通しについて意見交換を行う。

明治天皇との謁見の日程が23日に決まり、当日御所に参内中に襲撃を受けるが、同行していた後藤象二郎中井蔵に救出されている。

26日、再度御所に参内し、パークスと共に明治天皇に謁見。

天蓋の下には若い天皇が高い椅子に座るというよりむしろもたれていた。(中略)
天蓋の近くに位置し、高価な緑色地で飾られた一段と高くなった床の上に、パーク使と私が立ち、先導役の肥前が、その側に跪いた。片側には通訳を務める外事務局の伊藤俊輔が、同じく跪いていた。天蓋の両側には、二列か三列になって広間のほうまでずっとつながって薩摩長州加賀、その他の大名が並んでいた。その時まで、々が名前しか知らなかった大名たちの生き姿を初めて、こので見たのである。それは々にとって、極めて印的な光景であった。(中略)
々が部屋に入ると、天子は立ち上がって、々の敬礼に対して礼を返された。彼は当時、と明るい顔色をした背の高い若者であった。彼の動作には非常に威厳があり、世界中のどの王よりも何世紀も古い王の世継ぎにふさわしいものであった」

帰国・その後

1870年1月、3年間の勤務を終えて英本に帰

1873年に外務省を辞め、1874年に建設相に就任。

1886年、従兄弟貴族であるリーズイル伯爵の死去に伴い、その遺産を受け継ぐ。

1892年から1895年まで下院議員を勤める。

1902年、男爵称号を授与され、リーズイル男爵す。

1916年8月17日、自宅にて死去。享年79歳。

関連項目

この記事を編集する

掲示板

おすすめトレンド

ニコニ広告で宣伝された記事

記事と一緒に動画もおすすめ!
もっと見る

急上昇ワード改

最終更新:2024/12/27(金) 06:00

ほめられた記事

最終更新:2024/12/27(金) 06:00

ウォッチリストに追加しました!

すでにウォッチリストに
入っています。

OK

追加に失敗しました。

OK

追加にはログインが必要です。

           

ほめた!

すでにほめています。

すでにほめています。

ほめるを取消しました。

OK

ほめるに失敗しました。

OK

ほめるの取消しに失敗しました。

OK

ほめるにはログインが必要です。

タグ編集にはログインが必要です。

タグ編集には利用規約の同意が必要です。

TOP