「内史騰」とは、中国の春秋戦国時代の秦の国の武将であり、戦国七雄のひとつ韓の国を滅ぼして秦王・嬴政(えいせい、後の始皇帝)の天下統一に貢献した人物である。
「内史騰」の「内史」は官名であり、姓や氏は不明な為、「騰」または官名をあわせた「内史騰」と呼ばれている。
なお、内史騰の姓については、「辛(しん)」とする説があり、この説についても説明する。
内史騰については、姓が不明とされているが、『新唐書』の「表」である「宰相世系三上」に
辛氏出自姒姓。夏后啟封支子於莘,「莘」「辛」聲相近,遂為辛氏。周太史辛甲為文王臣,封於長子。秦有將軍辛騰,家于中山苦陘。曾孫蒲,漢初以豪族徙隴西狄道。
とあり、ここに記された「秦の将軍」である「辛騰(シントウ)」が内史騰のことであるという説がある。
また、秦の武将として、唐突に「辛勝(シンショウ)」という人物の名が一度だけ史書にあらわれるため、この人物もまた、「内史騰」のことであるという説がある(名が違うが、「騰」の字と「勝」の字の転記ミスは起きやすく、この説ではどちらか一方が正しかったことになる)。
この『新唐書』の「宰相世系三上」は、後世からつくられたものが多いと言われやすいが、とにかく、この記述が正しいとすると、
内史騰は、本当の姓名は「辛騰」といい、周の文王(ぶんおう)に仕えた辛甲(シンコウ)の子孫にあたり、家は中山(ちゅうざん)国の苦径(クケイ)の地にあったが、秦に仕え、秦の将軍に任じられている。ひ孫の代には、すでに漢代に入ってはいるが、隴西(ロウセイ)郡狄道(テキドウ)県の豪族となっていた。
ようである。
十五年,大興兵,一軍至鄴,一軍至太原,取狼孟。地動。十六年九月,發卒受地韓南陽假守騰。初令男子書年。魏獻地於秦。秦置麗邑。十七年,内史騰攻韓,得韓王安,盡納其地,以其地為郡,命曰潁川。地動。華陽太后卒。民大饑。
と記されているのみである。
紀元前231年9月に韓の国王「韓王安(韓安、カンアン)」が(秦に脅迫されて)南陽(ナンヨウ)の地を秦の国に割譲した際、内史騰は、秦王・嬴政により、南陽郡の仮の郡守に任命されている。
秦の国では、秦王が治める直轄地として、「郡」と「県」が存在する。「県」は一つの都市をあらわし、郡は、それをいくつか束ねて統治を行う機関としておかれた。
内史騰の命じられた「郡守」とは、その郡の長官であり、秦王の代理として、郡の統治にあたった。地方官としてはかなり重要な役割であった。
紀元前230年には、「内史(ないし)」に任じられた内史騰は、秦軍を率いて韓の国に攻め込み、韓王安を捕虜にして韓の国を滅亡させた。韓の国は秦王の直轄地となり、また、潁川(エイセン)郡とされた。
「内史」とは、秦の国の本拠地である「関中」の重要地域にあたる「京師(けいし)」を治める長官の「役職名」である(京師地域そのものを「内史」と呼ぶことがある)。朝廷の大臣以上に重要な役職であった。
その後の内史騰については、『史記』には記されず、長い間、不明であった。
しかし、近年、発掘された睡虎(スイコ)地秦簡『語書(ごしょ)』によると、
とあるため、その存在を確認できる(もちろん、同一人物という確証はないが、秦の高官の数は限定されている)。
これと同じく、近年、発掘された睡虎地秦簡『編年記(へんねんき)』の
紀元前228年のことにあたる記事、
と、
「楚王は青陽(セイヨウ)より西の土地を献じてきたのに、約定に反して、秦の「南郡」を攻めてきた。そこで、軍を出して、誅して、楚王を捕らえて、楚の土地を平定した」
をあわせて考えると、
内史騰が韓を滅ぼした二年後にあたる紀元前228年に、秦の「南郡」は楚からの侵攻にあい(楚軍ではなく、反乱とする説もある)、
翌年、紀元前227年には、内史騰は、「南郡」の郡守に任じられていたようである。
「南郡」とは、秦の将軍であった「秦の白い悪魔」白起(ハクキ)が、紀元前278年に楚の都である「郢(エイ、三国志の「江陵」の地)」を占領した時に、秦の直轄地として置かれた郡であった。
楚の国の攻略や侵攻に対するための最前地であり、ここの統治を、内史騰は秦から任されていたようである。これは、「内史」より上位かどうかは定かではないが、「南陽郡の仮の郡守」よりは確実に昇進しており、内史騰が依然として秦の軍事や統治の重要人物であったことは間違いないであろう。
また、紀元前226年には、かつて秦の「相邦(しょうほう、秦の宰相)」であった、楚の公子(王族)であった昌平君(しょうへいくん)が郢にまで移ってきている。
この時、内史騰はどういった立場だったかは分からないが、
紀元前227年に、秦王・嬴政の命令で、燕の国討伐を、王翦(オウセン)とともに命じられた辛勝(シンショウ)は、内史騰のことであるという説がある。
これが正しければ、内史騰は燕の国の討伐を命じられ、「南郡郡守」から異動し、その後任として昌平君が命じられたものと考えられる。
なお、紀元前221年に、秦が斉の国を滅ぼして天下統一した時に、斉を滅ぼすことに功績をあげた蒙恬(モウテン)が「内史」に任じられているため、この頃には、内史騰は少なくとも「内史」ではなく、あるいは死去していたものと考えられる。
上記の内史騰の事績について、「辛勝」とあるものも内史騰の事績であるとして、年表として整理すると、
紀元前230年 「内史」に任じられ、韓の国を攻め、滅亡させる。
紀元前227年 秦の南郡の「郡守」に任じられる。王翦とともに、燕の国の討伐を行う。
となる。
原泰久の漫画「キングダム」に秦の六将の一人で秦の怪鳥と呼ばれる「王騎」の副将として登場する。
ィ笊三三三竺ュ、
,斗三二リVリィ二三竺ぇ
ィ爪ミア‐=ヾY = ¬ ヾ弐竺ヽ
. ハ川ソ -―- ヾミミミ、
レ'ソリ _ Yミミリl
彡Yイ二ニュ、 ,ィアニ¬ヽ }ミミハ
メ刈 f´ Qヽ i i r' Q ヽ トミソハ
. ハY´ `冖′ `ニ ´ l 弋リソ
リl|l l l l〉 /爪、
犾 ヽ ` 、_ , ′ イ_r'リ川ハ〉
ノハリ「| `ーニ竺_ _竺ニ‐′ l |ィ彡リ八
//从 | l  ̄ l |彡少リソ〉
匕イ仆| ヽ  ̄ / l爪川リ厶
. イリ イ| ト、. ∧ _,.イ ト┐ソリハ八
ソΤ 爪 `弌ソ川爪リア' l〉 `T¬冖廴_
ー┤ | | 下リア´ / ト、 リ `ー
| l l l ∨ / / l /
l ` \ | / / /
l| >ー=‐- 、 / /
l r彳イ_ -―- ヽ ′
ー / / t ' \ / /
/./` 、 ィ ¬=く ∨ ./
r' / ノ l ィ' ∨
常に王騎の傍らに控えてぱっちりお目目のポーカーフェイスを崩さないが、王騎の命令に返事を返しながらも実行しなかったり、実行の仕方がひねくれていたりする。もちろんその際もポーカーフェイスは崩さない。
王騎からはその能力を高く評価されており、趙の龐煖(ホウ煖)と王騎が激突した際は、趙軍の本陣に突撃し、全軍の指揮を担当していた趙荘将軍を討ちとり、王騎が致命傷を負うと退路をつくる為に再度敵本陣に突撃を敢行し、王騎の離脱が成功した後は、自らも離脱に成功して王騎においつき、死期を悟った王騎より王騎軍の全権を委任された。
得意技は「受け流し」。
武器をふるうと「ファル」と言う不思議な斬撃音が鳴る事から、一部では「ファルファル」と呼ばれている。
上で述べた、近年、発掘された睡虎地秦簡『語書』とは、正確に書くと、
1975年に、中国の湖北省雲夢(うんぼう)県睡虎地において、紀元前210年ごろの秦時代の墓が発見された。その時に、墓の中に千枚以上にものぼる竹簡(ちくかん、竹を切ったものに文字がかかれたもの)が発見された。『語書』は、その竹簡の一部に書かれた文書の一つである。
その内容は、紀元前227年に、南郡の郡守である内史騰が配下の官吏に対して、「法律の意義と悪い官吏を告発することについて、啓発する通告文書」である。元々は、法律文に添付する文書か、前文として書かれたものと思われる。
『語書』は、前半については、「法律の意義について啓発」し、述べている。
その具体的な内容は、
「地方には独自の風習がそれぞれ存在するが、民や国のためにならないものもある。法律は民を教え導くもので、間違った風習をやめさせ、良い方向に行くようにするものである。しかし、(地元採用)の下級役人や民は相変わらず、そのような風習を行い、法に反するものがいなくならない。だから、この(内史)騰は、法律を、役人や民に守るように命じる。官吏たちは、法律の意義を明らかにして、(地元採用の)下級役人や民が罪を犯さないようするように」
とするものであり、「法律を守ることの大切さ」を伝えている。
後半は「悪い官吏について告発すべきこと」について、述べている。
具体的な内容は、
「良い官吏とは、法律に明るく、事務が滞(とどこお)ることがない人物である。これに対し、悪い官吏は、法律に詳しくなく、事務を知らず、清廉ではなく、上司を補佐せず、怠けて、おしゃべりで恥を知らない人物である。また、他人の悪口ばかり話し、人を心配にさせ、公正ではなく、やたらと人を訴え、他人と争うことを喜ぶ人物でもある」
などと、悪い官吏の醜態について、かなりしつこくのべている。
秦が南郡を支配してから、楚人を統治し、次第に法律になれさせていったが、約50年経っても、楚人は風習を優先し、余り法律にしたがわなかったため、内史騰は、このような通告文書を発したものと思われる。秦と楚とは文化が大きく違い、秦の統治は困難だったことが想像できる。
なお、『語書』の内容は具体例がなく、象徴的で分かりにくい。さすがに、あの内史騰が書いたものだと思わせられる。
』 【東洋学叢書】(創元社) 町田三郎内容は難しいが、第二章の「統一の思想」において、書籍は出版された当時は、出土してそれほどの期間が経過していない雲夢県睡虎地から出土した秦簡について、細かく調べ上げられ、特に、『編年記』、『語書』、『吏たるの道』について、詳しく述べられている。この中で、内史騰のことについても言及されている。
その主だった研究や内容解釈は、その後も他の研究者にも「范雎(ハンショ)」や「昌平君(しょうへいくん)」について、同様の解釈をとられていることが多く、すぐれたものである。
この著者は秦や始皇帝の統治について、好意的で高く評価しており、始皇帝が好きな人には是非とも、探してよんでもらいたい。
掲示板
8 ななしのよっしん
2020/12/26(土) 23:33:14 ID: iokV05vpBt
9 ななしのよっしん
2021/12/03(金) 05:46:03 ID: VdAOJT3YJD
内史騰については、近年、出土した文献(睡虎地秦簡)で、事績が少し追加して確認できることと、ここのコメント欄で述べられていた内史騰の「辛」姓説(内史騰=辛勝 説)について、追加で記載した。
「辛」姓説は、「新唐書」からも来ていることは意外だった。ご意見あったら、お願いしたい。
10 ななしのよっしん
2023/06/22(木) 22:41:05 ID: AkzIhaaXvZ
史記・秦始皇本紀第六
「秦王覺之,體解軻以徇,而使王翦、辛勝攻燕。(秦王は暗殺未遂が発覚すると、荊軻を切り刻んだ後、王翦、辛勝に燕を攻めさせた)」
これと新唐書の詳記からやはり騰の姓は「辛」としてもおかしくはないかな
秦将筆頭の王翦についであげられてるのにこれ以外どこにも名がでてこないのは変だし
急上昇ワード改
最終更新:2025/12/21(日) 10:00
最終更新:2025/12/21(日) 10:00
ウォッチリストに追加しました!
すでにウォッチリストに
入っています。
追加に失敗しました。
ほめた!
ほめるを取消しました。
ほめるに失敗しました。
ほめるの取消しに失敗しました。