幕末京都の○○屋事件の一覧 単語

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幕末京都の○○屋事件の一覧とは、寺田屋事件・池田屋事件・近江屋事件などの一覧である。

概要

江戸時代の終わりごろに起こった「○○屋事件」という、発生地点の店の名前から取られた事件の一覧

知名度の高さで見ると「寺田屋事件」「池田屋事件」「近江屋事件」があり、ほかに「天満屋事件」がある。ちなみに「○○屋」という名前ではないが「明保野あけぼの亭事件」もあるため、加えて取り上げる。

当時の京都幕末の志士が密会・隠遁した場所として、旅館や商店が選ばれており、そこが襲撃されたためにそれぞれの屋号をとって「○○屋事件」という名前になってしまった。

特に寺田池田は1字違いであるほか、寺田屋(2回)近江はどちらも坂本龍馬が襲撃され、後者は殺された場所であるため勘違いしやすい。

池田跡と近江跡は京都の繁である「四条河原町」の辺りにあり、徒歩で行き来できる。寺田8kmほど離れた伏見にあるので、四条河原町から行く場合は京阪電車に乗る必要がある。

なお、当時の建物は全て現存していない。

ざっくり言うと

いつ どこの何 を襲撃 今(2024年)どうなってる
寺田屋事件
(寺田屋騒動)
1862年 京都伏見宿 薩摩
(藩島津久光示)
有馬新七ら
(薩摩などの尊攘志士)
再建
(正確にはその右隣の敷地が跡)
寺田屋事件
(寺田遭難)
1866年 幕府伏見奉行 坂本龍馬
三吉慎蔵(護衛)
池田屋事件 1864年 京都三条の旅籠
(旅籠:はたご、旅館)
新選組 宮部鼎蔵など
尊攘志士
居酒屋の「旅籠池田屋 はなの舞」
近江屋事件 1867年 京都河原町の醤油 京都見廻組説が通説 坂本龍馬
中岡慎太郎
山田吉(護衛)
石碑:ジャンカラ 京都近江屋店
実際の場所?:星乃珈琲河原町店
(石碑の南隣が近江屋跡とされる)
天満屋事件 1868年 京都小路の旅籠 援隊・陸援隊 三浦太郎
新選組
6階建てマンション
明保野亭事件 1864年 京都清水の料亭・旅籠 新選組会津 麻田時太郎
(または時次郎)
抹茶カフェ京都 茶の湯 明保野亭」
(ただし正確にはやや北東)

もう少し詳しく

寺田屋事件(1862年、寺田屋騒動)

薩摩粛清事件」として扱われる方。1回寺田屋での事件については坂本龍馬は全く関係がなく、薩摩の身内を中心に起こった事件だが、こちらも「寺田屋事件」と呼ばれる。

薩摩の一部の尊攘過激派関白京都代を襲撃する計画を立てていた。この時点では倒幕を考えておらず合体を進めていた島津久光は、側近を送って説得を命じたものの失敗し、ついには従わない場合には上意討ち(君の命によって討伐すること)を認める「鎮撫使」を送った。

鎮撫使は伏見にある宿の寺田屋を訪れ、説得に応じなかったためり合いが起こってしまう。この襲撃によって鎮撫使側は1名、襲撃された側は6名が亡くなっている。ちなみに他武士も参加していたが投降・逃亡している。

寺田屋事件(1866年、寺田屋遭難)

2回の方。坂本龍馬が襲撃されたが脱出し生還している。

京都小松帯刀の屋敷で薩摩長州の盟約(長同盟)が結ばれた後、寺田屋に坂本龍馬と護衛の三吉慎蔵が宿泊していた。

しかし幕府の伏見奉行に寺田屋の周囲を囲まれ、いちく気付いた入浴中の妻のお危機を知らせる。坂本高杉晋作からもらった拳銃で、三吉は長で応戦し、後に裏木戸から脱出する。その後はに乗せられ伏見薩摩屋敷に匿われた。

なお、寺田屋は戊辰戦争鳥羽伏見の戦いで焼失しており、後に敷地の西側に再建されている。現在の「史 寺田屋」の碑は、塀に囲まれた庭のような敷地の前に建っている。現在寺田屋は部分的に当時の部材を使って再建されたと言われるが、どの程度かは不明。

池田屋事件

新選組の方。上の寺田屋事件の2年前である1864年に発生。

表向きは商人、裏では長州の間者として情報活動や武器調達にあたっていた古高俊太郎(枡屋喜右衛門)が新選組に捕縛される。そこで長州との書簡が発見され、さらに古高の自により(※自に関しては有そのもの、また有った場合の内容に諸説あり)近々会合が行われるとを察知した新選組京都中を捜索し、20数名の尊攘志士が京都三条大橋西、旅籠の「池田屋」にいると突き止めた。

近藤勇沖田総司永倉新八藤堂平助の4名が中に入って襲撃を始め、後に土方歳三隊も合流し、最終的には9名を討ち取り4名を捕縛した。新選組の名が知られる事件となったが、挙兵した長州京都で起こした武力衝突である「禁門の変」のきっかけともなった。

その後、池田屋の人は捕縛され獄死している。池田屋は類によって近隣で営業を再開したものの、これも現存していない。

池田屋の敷地の跡は別業者による旅館を経て、1973年に4階建ての食堂ビルになってケンタッキーフライドチキンが入ったり、1995年からパチンコ店(サンジョウ・デ・アール等)になったりした。そのため「」の旗と「新台」の幕が一緒に写真に写ってしまう時期もあった。

2000年代末ごろから居酒屋の「旅籠池田屋 はなの舞」になっており、全体的に新選組アピールしたつくりになっている。現在三条通は繁の大通りなので人につきやすい。

近江屋事件

坂本龍馬暗殺の方。この事件については大百科記事「近江屋事件」があるので、事件そのものの詳細や実行犯の説についてはそちらを参照。

大政奉還が行われたものの、まだ徳川慶喜征夷大将軍を辞職しておらず幕府も止されていなかった(辞職が承認され、実際に幕府が止されるのは坂本龍馬暗殺後の「王政復古の大号令」)ため、新選組京都見廻組は活動を続けていた。

近江屋は京都河原町通薬師下ル河原町通と薬師通との交差点を南に行ったところ)にあった。由緒ある醤油商で幕末に土佐御用達となり、土佐の志士の拠点となっていた。その近江屋には裏にあった誓願寺に逃亡できる土蔵があったことから、土蔵に坂本龍馬が隠れていた。

しかし事件当時の坂本風邪を引いていたようで、近江屋の2階に移っていた。その時に中岡慎太郎も訪問していたところ、襲撃事件に巻き込まれて坂本中岡、そして護衛の山田吉の3名が死亡してしまう。実行犯は京都見廻組佐々木只三郎らとするものが通説となっている。

その後、近江屋は業している。池田屋と同様に類が「近新商店」を経営していた時期もあったが現存しない。

現在河原町通薬師下ルには「坂本龍馬中岡慎太郎遭難の地」とする石碑があり、この場所は旅行会社「京阪交通社」→(2000年代末ごろ)コンビニサークルK」→(2013年)かっぱ寿司系列の回転寿司とんぼ 近江本店」→「かっぱ寿司 とんぼ四条河原町店」を経て、2024年8月下旬からは「ジャンカラ 京都近江屋店」になっている。現在は繁の中心にあるため店の入れ替わりしい。

ジャンカラ側はかなり近江屋跡をアピールしており、オープンカウンターとして「からおけ処 」や個室「囲炉裏ルーム」があるようだ。極めつけに「幕末歴史に浸りながら、カラオケぜよ!」「シルエットで討ち入りの様子が…!」と説明されている「近江ルー」もある。

ただし、中村武生京都の江戸時代をあるくexit』(文理閣, 2008, p.171)によると、実際の近江屋跡は石碑がある場所の南とされる。当時の近江屋跡の地権者の了承が得られなかったため、1つ北隣の「井筒屋(水島具店)」に石碑が置かれたようだ。一応、中岡が井筒屋の水島屋根の上に逃れたとするエピソードがあったらしく、これによって水島の敷地も関係地として見なされた側面もあるらしい。

ただこれにも異説があり、道路工事の際、近江屋が井筒屋に土地を一部売却しており、かつての近江屋で井筒屋に替わった土地に碑が立っているとするものもある。

どちらにしても、これに従うとジャンカラの1つ南にある星乃珈琲河原町店近江屋跡(に一番近いところ)とみなせることになる。実際2階には坂本中岡家紋を配したパーテーションで区切られた窓際の席があり、上に亡くなった3人をるとも言われる神棚がある。

天満屋事件

1868年の元日に発生。近江屋事件黒幕が紀州であるとする噂話と、紀州士の三浦太郎京都で不穏な動きをしていることを聞き、陸奥援隊・陸援隊が三浦を襲撃する。

当時紀州依頼で、会津を通して三浦には新選組の警護がつけられていた。しかし、西本願寺の東にあった旅籠の天満屋の2階で宴をしていたところを襲撃されてしまった。京都での新選組最後の戦い、かつ援隊と新選組一の戦いとされる。

援隊等とは関係はなかったが、坂本龍馬と交流があった中井五郎が討ち死にしており、それを示す石碑天満屋の跡に建っている。現在西本願寺東の小路通沿いの跡地は、お地蔵様が前にある6階建てのマンションになっている。

なお、三浦太郎戊辰戦争の際に一時捕縛されるが釈放され、後に「三浦安」を名乗って明治政府に入り、東京府知事にも就任している。

明保野亭事件

1864年に発生。「○○屋」ではないが店名なので掲載する。当時は料亭・旅籠であった明保野亭で発生。時系列としては池田屋事件の後。

池田屋事件の残党を探すため、密議が多く行われていた京都清水寺付近の明保野亭に新選組会津士が踏み込む。

すると中にいた逃げたため、会津しばつかさが背後をで突いた。しかしその武士は土佐の麻田時太郎(または時次郎)と名乗ったため、解放された。

会津側が取り調べの上、の行為は正当なものとしたが、土佐は麻田が後ろ傷を負ったことについて「士覚悟」として責め、麻田を切腹に追い込む。土佐内の一部ではこの処分を不当とし、新選組会津への報復をする者も現れた。

会津で、かつ新選組も支配下に置く京都守護職だった松平容保はいったんの行為を正当としてしまったため対応に苦慮するが、その様子を聞いたと相談し、自的に切腹した。会津と土佐の衝突はこの時点では回避された。

明保野亭はしばらく料亭として残っていたが、恐らく2020年代コロナ禍で休業し、2024年4月から抹茶カフェ京都 茶の湯 明保野亭」として営業再開している。ただ、当時の明保野亭の場所は今の石碑がある場所より北東にあったとされる。

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