第130号海防艦とは、大東亜戦争中に大日本帝國海軍が建造・運用した丁型海防艦(第二号型海防艦)の1隻である。1944年8月12日竣工。本土・台湾・シンガポール間で船団護衛に従事した。1945年3月30日、ヒ88J船団を護衛中にインドシナ沖でB-25から爆撃を受けて沈没。
第130号海防艦とは、143隻の建造が計画され、このうち67隻が就役した丁型海防艦の1隻。
元々船団を守るための護衛艦艇が不足していた帝國海軍は御蔵型、日振型、鵜来型といった戦時急造に適した海防艦を量産するが連合軍の猛攻によって喪失艦は増加の一途を辿り、より量産性に優れた海防艦が求められるようになってきた。ここで登場したのが小型化・単純化を更に突き詰めた丙型海防艦である。丙型では燃料節約のためディーゼル機関を採用していたものの、機関の生産能力が不足した時に備えて蒸気タービンを搭載した予備の案も用意しており、それが丁型海防艦だった。
設計は米潜水艦の被害が増大し始めた1943年6月より開始され、7月に完了。とにかく生産性を高めて数を揃える事を目的としており、前級の鵜来型より200トンほど小型化、建造速度を底上げするため電気溶接やブロック工法を駆使し、曲線部分を極力廃して直線状に置き換え、1軸推進方式に大転換するなど涙ぐましい努力を重ねた結果、ネームシップの第2号海防艦は僅か147日で起工から就役まで駆け抜けた。ちなみに第130号は172日である。
先述の通り丁型海防艦には2A型戦時標準船向けに製造していた単式蒸気タービンを使用。蒸気タービンはディーゼル機関より高い出力をもたらして速力上昇に繋がったが、逆に燃費が悪化したり、航続距離の低下を招いてしまっている。様々な性能低下を甘受して量産性を高めた丁型は計67隻という海防艦最多の生産数となり、このうち25隻が戦没した。
タレントとして活躍する櫻井翔の祖父の兄、櫻井次男(つぎお)少佐は主計科として第130号海防艦に乗り組んでおり、本艦が撃沈された時に戦死されている。享年26歳。このような縁から、2023年4月14日に彼が個人初の展覧会「未来への言葉展」を開いた時には第130号の写真2枚を展示していた。
要目は排水量740トン、全長69.5m、全幅8.6m、喫水3.05m、機関出力2500馬力、重油積載量240トン、最大速力17.5ノット、乗員141名。兵装は45口径12cm単装高角砲E型2門、九六式25mm三連装機銃2基、三式単装迫撃砲1基、三式爆雷投射機12基、爆雷投下軌条1基、爆雷120個。
1944年2月22日、播磨造船所(兵庫県相生市)にて第2765号艦の仮称で起工。5月10日に第130号海防艦と命名され、内令第661号により艦種を海防艦、艦型を第二号型に定め、5月24日に進水式を迎える。7月24日に播磨造船所内に艤装員事務所を設置し、7月31日に鈴木康吉少佐が艤装員長に就任。そして8月12日に竣工を果たした。艦長には艤装員長の鈴木少佐が着任して艤装員事務所を撤去。呉鎮守府に部署するとともに海防艦の訓練を担当する呉鎮守府部隊呉防備戦隊へと編入された。
1944年9月20日、慣熟訓練を終えて基礎力を錬成した第130号海防艦は、実戦部隊である海上護衛総司令部第1海上護衛隊に転属。翌日より呉工廠へ入渠して出撃に向けた整備を行う。9月26日18時に呉を出港し、翌27日23時に福岡県大牟田市の三池港で投錨して待機する。
9月29日15時に三池を出発。外洋にて門司発高雄行きのモタ27船団と合流して水雷艇鳩とともに護衛に就く。南シナ海でも既に米潜水艦の跳梁が始まっていたが、幸い雷撃を受ける事無く10月5日に目的地の台湾南西部高雄へ入港。
10月5日午前6時、駆逐艦蓮や第151号、第163号特設駆潜艇と輸送船10隻からなるタ02船団を護衛して出港、10月8日13時59分に香港へ寄港するが、台湾東方で米機動部隊が確認されて空襲の予兆があったため、翌9日正午に慌てて香港を出発。米機動部隊は沖縄及び南西諸島へ空襲を仕掛け(十・十空襲)、香港には襲来しなかったので10月10日午前11時に反転し、10月11日正午に香港到着。10月16日午前2時15分、香港東南東130海里沖で米機動部隊の空襲を受けた水雷艇鳩が航行不能に陥り、救援のため16時に香港を出撃。鳩を曳航して何とか香港まで連れ帰ろうとするも20時10分に力尽きて沈没。翌日午前8時30分に第130号は香港へ帰投した。
10月18日午前8時、シンガポールから内地へ向けて帰投中のヒ76船団の護衛に加わるべく香港を出発。10月20日午前0時に商船改造空母神鷹、干珠、倉橋、第8号、第25号、第32号海防艦が護衛するヒ76船団と合流。一緒に内地を目指す。神鷹は対潜哨戒用の九七式艦攻を持っていたため日中は艦攻を飛ばして上空より対潜監視を行ってくれた。艦載機を飛ばせなくなる夜間は最も雷撃を受けやすい危険な時間帯であったが、此度の航海も何事も無く終わり、10月27日午前6時45分に六連へ帰投。10月28日午前8時に呉へと入港して31日まで艦体や機関の整備を行う。
11月3日午前10時、第23号、第33号、第51号、第52号海防艦とともにミ25船団を護衛して門司を出港。船団に所属する輸送船は19隻、これをたった5隻の海防艦で守り抜かなければならない。
11月8日、4隻の輸送船が基隆に、2隻の輸送船が高雄に向かうため離脱。残り13隻はミリを目指してインドシナ沿岸冲を南下していく。しかし遂に恐れていた事が起きてしまうのだった。
11月15日午前1時、パダラン岬南東沖18kmで米潜水艦ジャックから雷撃を受け、日永丸と第二雄山丸が被雷。日永丸は轟沈し、第二雄山丸は沈没を避けるため自ら座礁したものの全損となって放棄。一気に2隻の輸送船を失ったミ25船団は翌16日午前8時にサンジャックへ寄港。ここで船団の再編制が行われ、優秀な高速船舶はシンガポールを目指して出発。第130号、第33号、第52号、低速の輸送船2隻はサンジャックに残留した。
11月20日に第130号は第11海防隊へ異動。翌21日17時に第130号、第33号、第52号はサンジャックを出発するが、23時30分に反転帰投する。11月22日17時、第33号、第52号、輸送船2隻とともにサンジャックを出港し、11月26日13時30分に目的地ミリへ到着。護衛任務を完了させた。
11月29日19時、輸送船3隻からなるミ26船団を第33号、第52号海防艦と護衛してミリを出発。12月4日にサンジャックへ寄港した時に砲艦暁征丸が分離、代わりに海防艦4隻と第21号掃海艇が護衛するサワ14船団がミ26船団と合流した。12月19日午前8時2分にサンジャックを出港。米潜水艦の雷撃を回避するため、サワ14船団は敵潜が待ち伏せしにくく、なおかつ味方の援護を受けやすいインドシナの沿岸ぎりぎりを沿って北上。毎晩仮泊地に投錨して目視による対潜監視が難しくなる夜間の航行を避けた。
インドシナ沿岸を抜けた後、12月27日15時58分から19時1分まで海南島楡林へ寄港。12月30日午前11時4分より20分間、サワ14船団はB-24による爆撃を受けたが幸い被害皆無であった。
1945年1月1日に高雄近海の左栄泊地へ到着。ところが現在台湾は敵の激しい空襲下にあるため高雄警備府から退避を命じられ、14時37分に第21号掃海艇が横付けして急ぎ燃料補給を行う。いつ敵の空襲が始まるか分からない緊迫した雰囲気の中、1月3日午前11時35分に船団と左栄を出発し、西方の南澳島へと退避した。ここで第41号、第60号、第201号海防艦が護衛に加入する。ひとまず空襲の危険が去った1月5日16時に南澳島を出発。護衛艦艇が増えた事で第130号は別の船団護衛に駆り出され、台湾方面へ向かう途中で第130号はサワ14船団と別れて1月7日午前11時に香港へ到着。
1月8日17時10分、輸送船2隻からなるホタ02船団を第1号、第134号海防艦と護衛して香港を発ち、1月11日午前11時30分に馬公へ護送した。1月14日午前11時、次は大光丸を護衛して馬公を出港し、1月16日18時に高雄から門司へ向かっていたタモ37船団と合流して一緒に内地を目指す。第130号が台湾から脱出した直後に米機動部隊が高雄と香港に大規模空襲を仕掛け、在泊艦艇に大きな被害が発生。まさに間一髪のところで虎口から脱する事に成功した。
1月19日19時から翌20日午前7時8分まで泗礁山で仮泊。1月23日15時50分、本土を目前にして第130号のソナーが敵潜を探知し、タモ37船団に緊張が走る。船団を守るべく16時10分より爆雷を投射、17時50分からは第134号海防艦も加勢して爆雷を投下している。虚探だったのか撃退に成功したのか。魚雷が飛んで来る事は無く20時15分に船団は無事六連へ到着して護衛を終了。
1月25日15時に呉へ帰投し、2月4日まで呉工廠で入渠整備を受ける。この間に櫻井次男少佐が第130号に乗り組んだとされる。間もなく彼には呉鎮守府付への転属命令(2月15日)が出るのだが、紙一重の差で第130号が先に出港する事になった。これが彼の生死を分けてしまう。
2月5日、第1号や第134号海防艦とともに呉を出港、翌6日に門司へと入港した。2月7日午前6時、良栄丸とパレンバン丸で構成されたヒ97船団を海防艦2隻と護衛して門司を出発。2月16日22時から翌17日午前7時までインドシナのクインサン湾で仮泊する。制海権・制空権無き危険な航海であったが、幸い損害ゼロのまま2月20日午後12時30分、ヒ97船団はシンガポールへ到着した。
2月23日、ヒ97船団同様シンガポールを目指していた後続のヒ88G船団と護衛の第35号駆潜艇がB-25爆撃機9機とP-24戦闘機10機の空襲を受け、大損害が発生。海軍上層部はヒ94船団及びヒ96船団の現編成ではカムラン湾沖の強行突破は極めて困難と判断。そこでシンガポール進出中の第11海防隊と第18号海防艦にヒ94船団をキノン湾まで護送させ、完了後はヒ98船団と合流して内地帰投するよう命じた。
2月24日16時、出港準備を整えた2月26第1号海防艦とともにシンガポールを出港し、2月26日午前8時にタイランド湾オビ島に避泊中のヒ94船団と合流。船団はタンカー東亜丸、給油艦針尾、第67号、第207号海防艦で編制されていた。ヒ94船団をシンガポールの勢力圏まで無事送り届けた翌27日、今度はヒ98船団の護衛を行うべくサンジャックへ寄港。船団が到着するまで待機する。
3月3日午前7時30分、シンガポールから出発してきたヒ98船団が入港したため、第1号と第130号が護衛に加わって午前9時30分にサンジャック出発。ところが翌4日午前9時30分、バレラ岬500m沖で米潜水艦バヤが良栄丸とパレンバン丸を狙って6本の魚雷を発射、このうち2本がパレンバン丸の船体中央に直撃して轟沈させられてしまう。第69号と第134号が決死の爆雷投下を行う中、第130号は他の輸送船を先導して離脱。23時にトゥーランへ逃げ込んだ。
3月5日午前7時、ヒ98船団はトゥーランを出発して次の寄港地である海南島を目指すが、今度は米潜水艦バッショーの雷撃を受けて良栄丸が1時間以内に沈没。20時に何とか楡林まで辿り着いた。翌6日正午に第134号とともに楡林を出港、3月9日午前9時に香港へ到着する。
1945年1月より、帝國海軍は生き残っていたタンカーをかき集めてシンガポールから燃料を「特攻輸送」する南号作戦を断続的に行っていたが、連合軍の沖縄上陸が間近に迫った事で南方航路の閉鎖が秒読み段階に突入したため、南号作戦を中止。そして最後の燃料輸送を行うべくシンガポール方面に残る輸送船を集めてヒ88J船団を編制。南方発の最終便となる事から使える船は根こそぎ投入され、戦争末期にしては比較的大規模な船団となった。
このヒ88J船団を護衛するため内地帰投中だったはずの第130号と第134号が急遽呼び戻され、3月9日19時30分に香港を出発。3月14日18時30分にシンガポールへと入港した。
3月19日午前7時30分、海防艦5隻(第130号、第18号、第84号、第134号、満珠)と駆逐艦天津風が護衛するヒ88J船団7隻がシンガポールを出港。しかし、出港から僅か6時間後の13時10分に海峡東口でアメリカ軍が敷設した機雷に接触して1TM型戦時標準船さらわく丸が大破。沈没を避けるため自ら擱座し、船団から脱落した。船団は二列縦隊を組んで敵潜が活動しにくい沿岸ぎりぎりを7ノットで航行。船団の外周を第130号ら護衛艦艇が囲んで雷撃に備える。3月22日にカモウ岬で仮泊。翌日サンジャックに到着したヒ88J船団は、サンジャック止まりの荒尾山丸、天長丸、北上丸を残留し、新たに第26号海防艦と第20号駆潜艇が護衛に加入。3月26日にサンジャックを出港、B-24の触接を受けながら翌27日午前10時にニャチャン湾へ到達する。ここで先行していたヒ88I船団と合流するが小破状態の第9号駆潜艇1隻を残して他は全滅していた。
3月28日午前8時、輸送船3隻、護衛艦艇9隻に陣容を変えたヒ88J船団はニャチャン湾を出発。そして午前10時40分、恐れていた敵の空襲がとうとう始まってしまった。まず最初に2AT戦時標準タンカー阿蘇川丸が機関室に命中弾を受けて沈没。第84号と満珠が生存者の救助に当たる。午後12時20分、次の刺客である米潜ブルーギルが鳳南丸を雷撃・撃破し、船尾を切断されて漂流。第130号は第18号海防艦とともに鳳南丸の乗組員を救助したのち船団の後を追った。この時点で生き残っているタンカーは海興丸ただ1隻のみとなり、護衛艦艇は海興丸を取り囲むように北上を続ける。
翌29日午前7時10分、忍び寄ってきた米潜ハンマーヘッドが第84号海防艦に魚雷を撃ち込み、弾薬庫が誘爆して瞬時に沈没。満珠が乗組員の救助を試みたが191名全員が戦死していた。午前11時30分、アメリカ軍は航空機と潜水艦による同時攻撃を仕掛け、第18号海防艦と海興丸が撃沈される。そして次は第130号の番だった。
1945年3月29日22時30分、PBM飛行艇からレーダー爆撃を受けて第130号は沈没。乗組員178名全員が戦死した。ヒ88J船団は護衛艦艇も含めてほぼ全滅という最悪の結末となり、本船団の運航を最後にヒ船団は終焉を迎える。5月10日除籍。
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最終更新:2025/12/17(水) 06:00
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