香港の戦いとは、大東亜戦争開戦劈頭の1941年12月8日から25日にかけて行われた、大日本帝國陸軍vsイギリス軍守備隊の戦闘である。開戦劈頭に行われた一連の軍事作戦の中で唯一中国大陸での戦闘であり、また唯一支那派遣軍が投入された。このため南方作戦と平行して行われたものの大東亜戦争ではなく、支那事変中の作戦とされる。
1841年のアヘン戦争の際、香港はイギリス軍によって占領。翌年の南京条約によって領有を宣言し、統治を開始した。1860年のアロー号事件をきっかけに対岸の九龍半島とストーンカッター島をも我が物とし、
1898年の北京条約で残っていた部分を99年の租借でイギリスが領有。こうして香港はイギリスの物となり、極東政策によって莫大な資金が投じられて国際的一大要港が整備された。ワシントン条約が締結された後も密かに要塞を建造し、強化を続けた。1935年には九龍半島に半永久築城陣地を作り、ジン・ドリンカーズ・ラインと呼ばれる東西20km、縦陣6kmの範囲に287個のトーチカを設置した。
1937年に支那事変が勃発し、日本と中華民国が武力衝突を開始すると香港はより重要性を増した。強大な海軍を持つ日本によって上海と制海権を奪われた中国国民党軍は物資不足に陥った。米英は国民党を支援すべく物資を送ったのだが、イギリス領有の香港が国民党軍の命を繋いだ。香港は国民党軍が使える唯一の港であり、ここで陸揚げされた物資が臨時首都の重慶に届けられ、飢える将兵を癒した訳である。しかもイギリスは中立国だったため、帝國海軍も手出しが出来なかった。支那方面艦隊の封鎖をかいくぐり、次々に重慶へと物資が密輸された。同時に香港は宣伝や謀略の策源地にもなっており、日本にとっては頭の痛い存在だったのは間違いない。このため、1938年秋頃から香港攻略に必要な情報を収集し始めた。広東省方面に第21軍が展開していたので、香港方面の諜報は比較的容易だった。諜報機関からスパイを派遣したり、在留邦人から情報を収集するなど、ありとあらゆる手を尽くして情報をかき集めた。集まった情報を第38師団が調べたところ、香港と九龍半島には強固な要塞とトーチカ群がある事を突き止めた。
1940年、同盟国ドイツの快進撃を受けて南支派遣軍主力の第38師団に第1砲兵隊を増派。イギリスが降伏した時に香港を一気に攻略する作戦が立案されたが、米英を刺激して戦争になりかねないとして却下された。逆を言えば、それだけ香港の存在は鬱陶しかった。
だが時代の流れは、対米英戦争不可避へと持っていった。1941年8月12日、砲兵の権威とされる北島中将が率いる第23軍が支那派遣軍に編入。これは強固な要塞とトーチカ群に守られた香港の攻略を見越した配置であった。9月15日、大本営は支那方面の作戦を担当する支那派遣軍の総参謀長・後宮淳中将を招致。
「10月末までに戦備を完了し、11月頃から対南方作戦を実施する」との意図を示した。攻略目標には香港も含まれていた。9月18日には第23軍の指揮下に第51師団と鉄道第5連隊の第4大隊が編入。11月6日、大陸命第557号が発令され、香港の攻略が正式に決定した。陸海軍の協同作戦であり陸軍は第23軍を、海軍は第2遣支艦隊の大部分を使用する事になっていた。攻略予定日数は九龍半島制圧に10日、香港島制圧に3日であり、攻略後の第23軍は蘭印作戦に転用する予定だった。11月初旬、南支那における日本軍の活発化をイギリス軍も察知していた。11月29日、香港基地のマルトビイ少将は「多くの上陸用舟艇はあるものの、国境近くへの移動は全く行われていない」と本国の陸軍省に報告している。12月4日、偵察用と思われる日本軍機が三度に渡って侵犯、更に翌5日には帝國陸軍の三個師団が国境付近に接近したにも関わらず、マルトビイ少将は危機感を抱いていなかった。
1941年12月8日午前1時、南方軍のコタバル上陸が始まった。午前3時、第23軍第38師団1万5000名が九龍半島に突入。しかし付近にイギリス軍はおらず、先鋒部隊は軽微な抵抗を排除して夜までに10kmほど進出した。午前5時30分、マルトビイ少将はシンガポール基地から日本軍のマレー上陸を伝えられ、日本軍の侵攻は間違いではないと確信に至った。これに伴い、香港の全守備隊が戦闘態勢に入った。午前7時20分、第23軍飛行隊が宝安飛行場から離陸。九龍半島目指して南下を始めた。しかし九龍半島全域に雲が出ていたため、香港島に針路を変更。雲が途切れ途切れになったので、4200mの上空から啓徳飛行場上空に突入した。ところが飛行場には1機しか駐機していなかったので逃げられたと判断。矛先を飛行場南方の海上に浮かぶ敵艦艇に移したが、直撃弾は得られず。その後、軽爆撃隊の護衛任務を終えた戦闘機隊が低空に急降下。地上に14機のイギリス軍機を確認し、午前8時30分に猛烈な機銃掃射を加えて12機が炎上。2機を大破させた。イギリス軍の航空機は全て使用不能になり、制空権は日本が奪取する事となった。第23軍飛行隊は午後にも出撃し、敵艦艇を求めて哨戒したが、高射砲陣地から反撃を受けて2機が小破する被害をこうむった。その夜、重慶から大型輸送機が多数飛来し、啓徳飛行場に着陸。香港にいた国民党の要人を乗せ、足早に引き揚げていった。20時には英駆逐艦サネットとスコットがシンガポールに避難すべく出港した。英国境警備隊は進軍路となりうる鉄道、橋梁、道路を爆破して九龍半島へと後退。
12月9日未明、第38師団の各部隊は師団命令を受領。九龍半島攻撃のため新配置への移動を開始した。同日夜、最前線の部隊から斥候群が派遣され、闇夜に紛れてイギリス軍の主陣地線の捜索に務めた。翌10日午前3時20分、師団戦闘指揮所に土井部隊からの電報が届いた。土井部隊は斥候任務を逸脱し、独断で敵陣地に突っ込んだのである。青天の霹靂のような突然の電報に佐野師団長は顔面蒼白。他の幕僚も愕然とし、戦闘指揮所は騒然となった。土井部隊は進軍を続け、第2大隊を以って夜襲すると再び電報を打ってきた。とりあえず第38師団は、午前6時5分に重ねて後退を命令。現状確認のため阿部参謀長と登坂参謀を第一線に派遣するなど混乱した。土井部隊の独断専行は続き、イギリス軍のトーチカ陣地を白兵戦で次々に占領。一部は司令壕に突入し、中隊長のジェームス大尉を捕虜にしてしまった。255高地から341高地の一帯を占領。341高地はジン・ドリンカーズ・ラインの最重要高地であり、皮肉にも防衛ラインの一角が崩れた。佐野師団長と第23軍司令は激怒し、土井大佐を軍法会議にかけろとまで発言したが、参謀長の取り成しで回避された。この日の夕方、イギリス軍はジン・ドリンカーズ・ラインから退却を開始。これを追撃するため第38師団は隷下部隊に夜襲を命じ、366高地と256高地の占領に成功。イギリス軍の退路が遮断されかけた。日本軍の電撃的な侵攻により、12月11日午後12時30分にイギリス軍は九龍半島からの撤退を決定。潮が引くかのようにイギリス兵が引き揚げていった。代わりに第38師団が突入し、翌12日午前9時までに九龍市を完全掌握。13日には逃げ遅れたイギリス兵の掃討も完了し、残るは香港島に立てこもるイギリス軍だけとなった。第23軍は香港守備隊に降伏勧告の軍使を送ったが、拒否された。香港島からは盛んに砲撃が飛んできており、戦意旺盛である事は火を見るより明らかだった。
第23軍は香港島攻略の準備のため、12月14日に第1砲兵隊の重砲で反撃。香港島の沿岸砲を無力化させた。同時に第二遣支艦隊の軽巡洋艦五十鈴と駆逐艦電、雷が香港島を砲撃して陸軍を援護。しかし残っていた沿岸砲から反撃を受け、あわや撃沈されるところだった。続いて17日にヴィクトリア市街に砲爆撃を行い、再度降伏勧告の軍使を送ったものの拒否された。もはや力ずくで屈服させるしかない。香港島へ上陸するため九五式折畳舟200隻、操舟機15基、大発19隻、小発15隻を集めた。12月18日20時40分、秘密裏に第一陣が九龍半島を出発。ヴィクトリア市街東方4kmに上陸し、21時40分に上陸成功を伝える信号弾が上げられた。ただちに第二陣が出発したが、未明にイギリス軍の反撃を受けて30名以上が死傷してしまった。さらに19日午前10時には英魚雷艇が出現し、上陸部隊を攻撃してきたが逆に猛烈な反撃を受けて1隻が撃沈、1隻が拿捕された。何とか香港島に上陸したものの、敵の本丸だけあってイギリス軍の砲火は激しかった。銃座、トーチカ、装甲車からの攻撃を受け、日本側は身動きが取れなくなってしまった。12月23日になってようやく戦線整理や補給が行われ、体勢を立て直した。翌24日、第23軍は攻撃を再開。激しい戦闘のすえ、12月25日未明にベンネッツ山を制圧。イギリス軍陣地を見下ろせる高所を奪取した。大本営は第38師団の蘭印作戦転用を急いだため、同日朝に三度目の降伏勧告を行ったが、これも拒否された。午後に重砲弾300発を撃ちこみ、香港守備隊を締め上げた。だが立てこもるイギリス軍は頑強に抵抗、戦況は膠着状態に陥った。
12月25日17時、膠着状態は突然打ち破られた。マーク・アイチソン・ヤング香港総督とマルトビイ少将が降伏を申し入れてきたのである。日本軍にニコルソン山貯水池を押さえられた事で、水不足になったのが降伏の理由だった。また香港市民が続々と対岸の九龍半島に脱出していた事もイギリス軍の戦意を削いだ。この日の19時、ペニンシュラ・ホテルで降伏文書が調印され、香港の戦いは終結した。イギリス軍約1万1000名(内訳はイギリス兵5000名、インド兵4000名、カナダ兵2000名)が捕虜となり、約1500名が戦死。日本側は約700名が戦死し、1400名が負傷した。香港は日本の占領下に置かれ、終戦まで軍政が敷かれていた。
物資の受け入れ港だった香港が陥落し、また1942年にビルマ方面の援蒋ルートも遮断された事で国民党軍は物資不足に苛まれるようになる。
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