バイエルン航空機製造(後のメッサーシュミット社)が開発した単発単座戦闘機であり、1935年にドイツ空軍の次期主力戦闘機として採用され、以降改良を加えながら第二次世界大戦末期までドイツ空軍の主力戦闘機として活躍した。(全型合わせると3万機以上と単発単座戦闘機としては世界最大の生産機数を記録した事でも知られている)
なお機関砲が積めなかったA~D型までは実験的性格が強く、ダイムラー・ベンツの液冷エンジンDB601積んだE型(エミール)が登場すると第二次大戦初期の主力戦闘機として使用された。
1935年、ドイツ空軍はアラド、フォッケウルフ、ハインケル、メッサーシュミット4つのメーカーに新しい戦闘機を開発するように指示を出した。
指示を受けたヴィリー・メッサ―シュミット博士とそのチームはこう考えた。
「Bf108で成功したように、最も軽く、最も小さい機体に、最も強いエンジンを乗せれば、複葉機よりも高性能な機体ができるはずだ」
同時に、当時航空省技術局長であったエルンスト・ウーデットもこう考えた。
「速度と上昇力、それに旋回半径が小さければ敵戦闘機の背後を取れる。なら武装は軽くてもよいのではないか?」
そして評議会当日、メッサ―シュミットが作り上げた戦闘機はウーデットの望み通りの物だった。メッサ―シュミットとハインケルは最後まで制式採用の座を争ったが、最終的に生産基盤が整っていたメッサ―シュミットに軍配が上がった。
そして1935年5月28日にBf109はドイツの大空へと旅立った。
1937年に7.9mm機関銃3丁を装備したbf109B-1が配備される。この戦闘機はそれまでの主力だったHe51より高性能だと前線の兵士たちに喜ばれた。そしてオーストリアとズデーテンラントを占領し、1939年初めにデビューしたE型(エミール)はスペイン内乱を皮切りに、そしてポーランド侵攻で本格投入された。
1940年4月にノルウェーに進出し、次いでフランス空軍を壊滅させて1940年5月に連合軍をダンケルクから追い落としたBf109E-3の武装は7.92mmMG17×2(各1000発装填)と20mmMGFF×2(各60発装填)であった。これより前のE-1型までの武装はMG17機銃×4であった。
1940年8月に起きた「英国本土防空戦」において、これまで補給が容易に受けられる地上で戦っていたBf109に大きな障害として立ちはだかったのはドーバー海峡であった。これまで地続きであったポーランド、オランダ、フランス、スペインと違い英国は海によって守られていたため、行動半径が200kmしかなかったBf109はこれまでのように活躍できなかったのだ。
奇しくも同じ時期に300リットル入りの補助燃料タンクを装備できるようになったE型の後期型であるE-7型が引き渡され始めたが、肝心の燃料タンクからの燃料漏れがひどく、十分に活用されなかったようだ。
そして爆撃機He111や同じ戦闘機であるBf110を護衛するBf109はイギリスの繰り出してきた戦闘機、スピットファイアMK.1,Mk.2に対しても苦戦を強いられた。地上用レーダーと組み合わされたスピットファイアは109と比べると防衛向きの機体であり、Bf109パイロットの一人であるハインツ・クノッケはこうぼやいている。「奴らは忌々しいくらい小回りで旋回するので、追撃しようがない」
そして英国戦開始から9か月後の1941年5月、ヒトラーは英国戦の中止を宣言した。
F型(フリッツ、またはフリードリッヒ)は、1941年6月から始まった対ソ連戦からそれまでのE型に代わって主力を務めた。F型は胴体下部に増槽を装備できるようになったため、それまでの弱点であった航続距離の短さをある程度解消した。
機体面は翼や機首を含めた多くの部分を改良し、武装面においては、それまで翼に2丁搭載されていたスイスエリコン社製20mmMGFF(570m/秒、350発/分)を廃し、代わりに待望のドイツラインメタル社製MG150/20mm(790m/秒、780発/分)機関砲を胴体中央に装備。武装の弱化と引き換えに機銃の命中率を高めた機種となった。主翼とプロペラスピナーが丸っこくなっていたら大体こいつ。
このときカウリングをスライド方式から両開き方式へと全面的に改めたため、それまで点検整備のために全部取り外していたカウリングを取り外さなくてもいいようになった。
北アフリカに行った機体の多くは黄色で塗られ、同じDB601エンジンを搭載したイタリアのM.C.202と共にP-40やスピットファイア、変わった相手ではF4F(英国F4F:マートレット)と戦った。エンジン部分から長く伸びた防塵フィルターが特徴。
ソビエトで戦ったBf109とM.C.202の主な相手はYakの名前で知られるヤコブレフ戦闘機の他、ラヴォチキンやIL-2、英国の救世主スピットファイア、P-39.P-40など。機体色は緑やグレイが多い。
この時のBf109は開発時に要求された性能を全て兼ね備えた機体だったが、IL-2やボーファイター等に徐々に押されていく。
1942年春に生産が始まったG型の外見上の大きな特徴は、敵戦闘機の防弾に対して威力が低くなりすぎていた機首装備7.92mmのMG17を、13mmのMG131に強化したことによる大きな"こぶ"である。エンジンも1100馬力だったDB601から1500馬力のDB605へと換装、より早く、より高高度へ登れる戦闘機となった。
武装の強化されたG型だったが、それとと引き換えに増加した重量は脆弱だった脚部への負担をさらに高めることとなった。この時点で技師の多くはハリケーンや96式艦上戦闘機と同じ、1935年にデビューしたBf109は設計が限界に達していると結論付け、新しい飛行機を設計したほうがいいとさえ考え始めてたが、戦況がそれを許さなかった。B-17とかランカスターとかP-47とか
なぜならBf109と同じく1941年夏に生産が始まり、大量生産されたフォッケウルフFw190は零戦と同じ空冷エンジンを搭載していた型が主力であり、空気が希薄になる高度6000m以上では急激に性能が落ちてしまう問題を抱えていたためだ。
爆撃機迎撃のために火力を増強すれば、運動性能が低下してP-47やP-51をはじめとした護衛戦闘機に落とされ、かといって武装を強化しなければ爆撃機に有効な打撃を与えることができない。
そのジレンマを抱えたままBf109は苦しい戦いを続け、1943年8月に1800馬力のエンジンと13mm機銃2丁、30mm機関砲を装備し、さらに最高速度を時速700キロにまで押し上げたK型が開発される。だがK型が部隊に配備された1944年10月には燃料もなく、パイロットの質も決定的に低下していた。
華々しいデビューの後その時その時の需要に合わせて発展し、設計の限界を迎えてもなお戦い続け、結果として第2次世界大戦を戦い抜いたその姿は、ドイツ空軍を支えた偉大な戦闘機といっても過言ではないだろう。
そして1951年、大戦中にBf109を運用していたスペインで、HA-1112と呼ばれる戦闘機がデビューする。
機首にイスパノ・スイザ HS.40420mm機関銃を2丁装備したそれは、Bf109G-2の胴体にイギリスのロールス・ロイス”マーリン”エンジンを組み合わせた機体であった。ユメノコラボ
この飛行機のうちライセンス生産されたG-6型の機体にマーリンエンジンを搭載した製造ナンバー195は映画「バトル・オブ・ブリテン」の撮影で活躍した後、アメリカに売却された。その後1975年に西ドイツ国防軍の輸送機によって再びヨーロッパへと戻ったこの機体はスウェーデン製のDB605エンジン、牛小屋の換気装置に使われていたエアインテークなど、ヨーロッパ中からかき集められた部品によって1982年、飛行機としてFMBBのラジオコードを与えられる。
そして老いた荒鷲は4機の西ドイツ国防軍Fー4Fに見守られながら再びドイツの大空へと舞い上がった。
また大戦中、ドイツ向けにBf109を製造していたチェコのアヴィア社は、戦後ダイムラーベンツエンジンの代わりに、在庫のあった爆撃機用のプロペラとJumo211エンジンを搭載したS-199を生産する。しかしそれらは機体にマッチせず、大きなトルクのため操縦が難しい失敗作となった。にもかかわらず、各国の武器禁輸措置で困っていた建国時のイスラエル軍はこれを25機入手、低性能や稼働率の低さに苦しみながらも運用された。
設計思想は一撃離脱戦法の申し子のようなもので、速度・スピン・ダイブ性能に優れていた。エンジンも機首武装が楽な倒立V字型に燃料噴射装置を組み合わせ、あらゆる状況でも攻撃可能である。
エンジンは初期のJumo210(680馬力)からDB601A(1100馬力)、DB605A(1435馬力)、DB605D(1800馬力)と徐々に進化している。過給機をエンジン横に取り付けたせいで大きくできず、過給機を後方に配置できたマーリンに後れを取ったのはナイショ。
一方簡素化のために主脚構造がヤワで安定性に欠け離着陸時の事故が多発した。また胴体内にしかタンクを積めないことに起因する航続距離の短さも致命的であり、外付け燃料タンクである増槽を積むことができなかったE-3型が多かったことが1940年のバトル・オブ・ブリテンと呼ばれたイギリス上空での戦いでの敗因の一つとされている。
重量も欧州機の中ではかなり軽量で、燃料や弾薬を積み込んだ状態の重さで比較するとスピットファイアMk.Ⅴで3.5t、Yak-9で3,0t,マスタングD型で最大4.5tのところ、bf109はE-4で2.5t,最終型のK-4でも3.4tとかなり軽い。ちなみに零戦は21型で2.4t、重い重いと言われた52型で2.7t。
モーターカノンの装備に手間取って主翼下面に膨らみを追加して無理やり火力を強化したら速度が落ちたりと、割と泥沼な強化もしているが胴体下に爆弾、主翼にロケットランチャー、胴体内にカメラも装備できたりとなかなかに拡張性も高い。
主翼はスピットファイアと同じように根元から取り外し可能。これによって製作や整備、輸送が容易になる利点もあったが翼の付け根に応力が集中する欠点もできてしまった。
名称の"Bf" "Me"は、それぞれバイエルン社、後身のメッサーシュミット社の略称である。大戦中の公式文書ではMeで統一されていたようだが、戦後「バイエルン社時代の設計なのでBfにすべき」という意見からBfと呼ばれることが多くなったらしい。
いずれも誤りではないが、E型以降は設計者のメッサーシュミット博士がバイエルン社の実権を握ったことから、E型以降の名称をMeで呼ぶことが多い。
掲示板
79 ななしのよっしん
2022/11/08(火) 18:58:13 ID: KqarU+593N
80 ななしのよっしん
2022/12/16(金) 03:47:58 ID: F7I+tDsIfk
>>75
G型以降は世界的に見ても数少ない20mm防弾板を有する機体だから防弾が特徴なのはあってるぞ
81 ななしのよっしん
2023/02/07(火) 23:20:59 ID: 3dfYcv0Mjq
そもそも神話だの贔屓だの何のギャグやねん
数と投入期間(約36000機、6年)っていう大戦兵器の重大事項満たせてんだしそら評価されて当たり前やん
真の神話贔屓はそれら全然満たせてない(500未満、半年余り)ティーガーⅡや紫電改辺りやろ
急上昇ワード改
最終更新:2024/04/26(金) 02:00
最終更新:2024/04/26(金) 02:00
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