F-14とは、アメリカのグラマン社(現ノースロップ・グラマン)が開発した艦上戦闘機である。
愛称は「トムキャット(オス猫)」。(グラマンは基本的に艦上戦闘機にはネコ科の名前を付ける。ウィキペディアには可変翼がネコの耳に見えるからトムキャットとなった、とあるがソース不明)
それまでアメリカ海軍で主力だったマグドネル・ダグラス社(現ボーイング)製のF-4ファントムを置き換える目的で開発された。主眼はソ連の長距離爆撃機とそこから放たれる大量の対艦ミサイルによる飽和攻撃からの防衛が目的であり、1950年代から海軍で計画されるたびに頓挫しつづけたミサイル・キャリアーとしての艦載機の側面が多分に強い。
F-14はヒューズ製のAWG-9レーダーによって空中目標を距離315kmで探知することができる。さらに24の目標を同時に追尾しつつ、そのうち6目標に対してミサイルを発射、誘導する能力を持っている。AIM-54フェニックスミサイルは4発をパレットに取り付けて胴体下面に装備し、さらに主翼下のパイロンにも1発ずつ装備可能。[1](ウィキペディアではAIM-54を6発搭載すると着艦重量を超えるため2発を投棄しないと着艦できない、とあるがこれもソース不明である)。
その他の武装としてはセミアクティブレーダー誘導式中距離空対空ミサイルAIM-7スパロー、赤外線誘導式短距離空対空ミサイルAIM-9サイドワインダー、接近戦用にM61 20ミリバルカン砲を1門装備する。
泣き所は繊細すぎるP&W・TF30エンジンで推力不足・サージング(エンジン内失速)に悩まされ、当初予定のB型GE・F401エンジンを搭載する予定が技術的・予算の問題で流れ、しばらくしてのちF110が選ばれるまで扱いづらさが強調されてしまった。
1973年の運用開始から数々の戦争に投入されて活躍して来たが、可変翼故に整備コストが嵩む事等が災いし、性能が劣るとは言えマグドネル・ダグラス社のF/A-18ホーネットが導入されたのと、その発展型であるE/F型スーパーホーネットと入れ替わる形で2006年9月に勇退した。ほかの理由としてはAIM-54フェニックスによる艦隊防空がイージス艦+スタンダードミサイルによる方法で代替が成立してしまったというのもある。
因みにかつて日本の航空自衛隊にも売り込みを掛けていた事があり、航空ショーではF-14、F-15のパフォーマンスを見せ付けることまであったという。結果的に滑走路の補強が必要ということもあり結局現在のF-15Cを原型としたF-15Jが採用された経緯がある。
当時からソ連が米空母艦隊攻撃に使用する大型対艦ミサイルには核弾頭が付いていた。ソ連の米艦隊攻撃プランは、ミサイルをできるだけ米空母の全周から弾着が同時になるように調整して発射、ミサイルは米空母から1/4浬に達したところで海中に突入して核爆発を起こし、空母と随伴艦の水線下を小中破させることで艦隊の機能を奪う、というものだった。[2]したがって、新しく開発する艦上戦闘機は飛来する巡航ミサイルをすべて撃墜できなければならなかった。撃ち漏らしは許されなかったのである。
まず1958年より、XAAM-N-10 イーグルと呼ばれる長射程AAMの開発が始まった。核弾頭を搭載し、最大速度マッハ3.4以上を出す2段AAMで、射程160km以上、前半は発射母機の無線誘導、後半はアクティブレーダーホーミングで誘導する。次にこれを搭載する戦闘機として、ダグラス社の設計がF6Dミサイリアーの名で採用された。機体はF3Dに似た直線翼の亜音速機で、イーグルAAMを最大8発搭載し、APQ-81レーダーで16目標を追跡しつつ8目標の攻撃が可能というプランだった。しかし攻撃部隊の援護や対地・対艦攻撃のできない防空専門の単能機を、搭載機数に限りがある空母で運用するのは費用対効果が悪いなどの理由で1961年にF6Dの開発はキャンセルされ、イーグルAAMの開発も中止された。ただ、多目標追跡・攻撃可能なレーダーと長射程AAMを組み合わせるという思想はそのまま次の計画に生かされた。
F6Dはキャンセルされたが、艦隊防空戦闘機が不要になったわけではなく、米海軍は新たにFADF(Fleet Air Defence Fighter)の計画を立てた。一方米空軍はF-105の後継機としてTFX(Tactical Fighter Experimental)を計画していたが、当時の国防長官マクナマラの命令で両者は統合されることとなった。空軍型のTFXはF-111A、海軍型のTFXをF-111Bとして開発が始まったが、F-111Bは重量増加の問題を解決できず、1968年に開発が中止された。この時開発されたVG翼技術、TF30ターボファンエンジン、AN/AW-9レーダ、AIM-54フェニックスがF-14に流用された。
F-111Bの量産計画が1968年8月にキャンセルされた後、米海軍は新しいVFX(空母搭載戦闘機)コンセプトを推進することにした。この時の要求ではTF30エンジン双発で複座、AWG-9/AIM-54をメイン武器、AIM-7やAIM-9の運用も可能、フェニックスは6発搭載すること、20mm機関砲の搭載、艦隊防空では艦隊から100~200nm進出して2時間以上滞空できることなどが求められた。
VFXの提案要求には5社が応じ、1968年10月に提案が行われ、12月にグラマンとマクダネル・ダグラスの提案を選択、翌1969年の1月にはグラマンに開発契約を与えることが、制式名称F-14とともに発表された。グラマンはVG(可変)主翼を高翼に配置、垂直尾翼は1枚、エンジンはポッド式のモデルG.303-60をベースに7種類のコンフィギュレーション(形態)を作り比較検討を行い、最終的にVG高翼、双尾翼、ポッド式エンジンのコンセプトを採用、1号機は1970年12月に初飛行した。
最初の飛行隊(VF-1/VF-2)の訓練は1973年6月に完了、CVN-65エンタープライズに搭載され、1974年-75年に最初の海外展開を行っている。
F-14には3つの型が存在する。なおCが飛ばされているのは、計画上は全天候型偵察能力付で作られていたもののボツになったからである。
80年代末期にF-14全機をB型に改修するか、一部の機体だけをD型やB型に改修するプランがあったが、さまざまな観点から検討された結果、後者が選択された。
RA-5CやRF-8Gなどの艦載戦術偵察機の退役を補うためにF-14Aに搭載された。正式名称はLA-610で、フレーム・カメラ、低中高度用パノラミック・カメラ、赤外線カメラなどを内蔵する。[5]
1960年代から1970年代にかけて、イランのパフラヴィー王朝の国王パーレビはオイルマネーによって軍事力を強化しつつあったが、ソ連のMiG-25Rの領空侵犯への対処が出来ずにいた。1972年にリチャード・ニクソン大統領がイランを訪問した際パーレビはF-14かF-15いずれかの購入を申し入れ、米側は承諾、1973年にパーレビがアメリカを訪問してデモフライトを見た上でF-14に決定、1974年に合計80機の購入契約を結んだ。最終的に79機がイランに送られ、AIM-54Aフェニックスも売却された。しかしイランで革命が起こり、国王は1979年に国外に脱出、新しくできたイラン・イスラム共和国はパーレビ時代の兵器注文をキャンセルしたため、フェニックスは最終的に700発発注されたうちの284発が引き渡された。[6]
2016年に刊行された「イラン空軍のF-14トムキャット飛行隊」で、公にならなかったイラン空軍でのF-14導入からイラン・イラク戦争までの戦いの様子が(イラン空軍側から)描かれている。
これによると、当初からイランの現状を踏まえて強力なレーダーを搭載しているF-14導入をイラン空軍が考えていたこと、「シャーのパイロット」と呼ばれたF-14パイロット達はアメリカ国内で充実した訓練を受けた完全な米国仕込みではあった。このパイロット達の幾人かは革命後亡命したものの、大多数は残留した。が、彼ら(パイロットおよび整備員たち)は革命後の投獄、拷問、死刑判決など少なからぬ過酷な扱いをされたものの、イラクとの戦争勃発により前線へ復帰することになる。
開戦劈頭からAIM-54Aフェニックスを用いてイラク空軍戦闘機、爆撃機などに対しての要撃任務についた。ペルシャ湾にあるハールク島石油備蓄・積出港は開戦当初よりイラク軍による重要な攻撃対象とされていたが、イラン空軍F-14飛行隊はこの島のCAP(戦闘空中哨戒)任務を行い、多数のイラク空軍機(中には非公式にエジプト空軍から参戦したと言われるミラージュ5SDEまで!)を撃墜した。これらの記録はF-14パイロットたちの証言によると撃墜確実130機・未確実23機といわれるが、イラン空軍の公式?的な発表では撃墜確実16機・未確実14機の30機とされている。F-14パイロット(特に部隊設立時からの歴戦者)達の状況を考えると低い見積もりをされているのかもしれない。これらの数値はイラク軍側の公式発表と照らし合わせないと正確なところはでないだろう。
いずれにしてもイラン空軍F-14のパイロット、および整備員達は、その優秀さを発揮して過酷な状況の中でも戦い続けたという。F-14AのTF30は導入以来の泣き所で、革命騒ぎによるエンジン換装案も流れ、そのパワー不足と不安定さに悩まされつつもAN/AWG-9レーダーなどのアヴィオニクスによる簡易AWACS任務をこなすだけでなく、AIM-54フェニックスミサイル、AIM-7スパロー、AIM-9サイドワインダーなどのミサイルを使ってイラク空軍機を戦争全域にわたって圧倒した。この中にはソ連軍事顧問団パイロットが操るMig25もあった。
もっとも稼働率は低調を極めたようで、1986年あたりには稼働率は20機を大きく割り込んだようだ。イランはあの手この手でブラックマーケットでの部品調達を行うだけでなく、イスラエル、米国からの秘密支援を受けてF-14の稼働率を維持し続ける努力を行ったらしい(合わせてAIM-54の部品も調達が行われたという)。イラン空軍内の「自給自足ジハード」隊、イランの各大学の支援を受け、F-14のタイヤ、ブレーキディスクなどの再生産から始まり、現在はかなりの整備能力が向上しておりF-14Aのリビルドファクトリーもあるようだ。上記の本では長らく西側軍事関係者が伝えていた「F-14に対するソ連(ロシア)製エンジン、電子機器の換装」はまったくの事実無根であり、「MIM-23ホークの改良搭載」は開発が行われたものの実用化にはならなかったことが述べられている。またAIM-54の自国生産も少なからず行われており、AIM-54C相当の能力向上が行われているとされている。
彼らイラン空軍のパイロット達はF-14を(米海軍よりも厳しい状況下で)操って母国のために戦い続けたのは確かである。イラン=イラク戦争中のF-14喪失機は16機。内訳は事故による喪失7機、戦闘・その他の理由による喪失が9機とされている。また、戦争中、アメリカ(CIA)の手引きによりF-14のパイロットが機体毎亡命したとされているが、これも真偽のほどは明らかになっていない(が、確実視されている)。
そして2010年代においてもなおイラン空軍のF-14はイラン国内の支援を受け電子機器のアップデートを行い、かの空軍の中核として運用されているのだという。
F-14は1973年より米国海軍での運用を開始した。そのためベトナム戦争には参加していない(75年のサイゴン撤退時の支援任務で参加している)。80年代にはリビアのシドラ湾で二度、リビア空軍の航空機を二機ずつ撃墜しているほかは偵察任務、上空支援任務がつづいた。
1991年の湾岸戦争ではあまり活躍らしい活躍は行えなかった。運用エリアがペルシャ湾上空に限られてしまったことが一因だったが、その理由は海軍航空機の電子機器やセンサー系の問題…画像・映像の送受信などできず…運用が限られてしまったことだった。
A-6イントルーダーの早期運用停止に伴い浮いた予算でF-14Dへの改修案が始まり、F-14は皮肉にも当初考えられていた艦隊防空任務ではなく、RIOもいる複座型であること、データリンク能力、燃料搭載量が多いことなどから、航空機偵察、前線における前線航空管制(FAC)任務につくことになり、もっぱらLGB(レーザー誘導爆弾)を使った地上攻撃任務などへと比重が大きくなった。
アフガニスタンの航空支援作戦などを皮切りにイラク南部の飛行哨戒任務などF-14を擁する航空隊の任務はその有様を大きく変えていくことになる一方、懸案だった自律誘導爆弾であるJDAMの運用も突貫作業で可能になり、アフガン、イラク戦争で前線部隊への航空支援作戦において欠かせない機体となっていった。
地上部隊のFACと連携をとり、FAC(A)と呼ばれる機上航空管制を行うだけではなく、JADMやLGBによる爆撃任務を行っていた(場合により、20mmバルカンでの地上掃射も行ったという証言がある)。
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