U-1062 単語

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U-1062とは、第二次世界大戦中にドイツ海軍が建造・運用したVIIFUボートの1隻である。1943年6月19日工。対空砲火で敵機2機を撃墜し、ペナンモンスーン戦隊魚雷の輸送に成功する戦果を挙げた。1944年9月30日中部大西洋で護衛駆逐艦フェッセンの対潜攻撃を受けて沈没

概要

VIIFとは、魚雷の輸送に眼を置いて建造されたタイプである。1941年まではUボートは補給から物資を受け取る事が出来たが、ライン演習作戦後にイギリス海軍の猛攻撃を受けてタンカーや補給が軒並み撃沈されてしまい、上での補給が困難になってしまう。そこで考案されたのが補給用潜水艦ことVIIFだった。ただ構想自体は戦前1936年頃からあったようだ。

VIIDの設計をベースにしており、戦闘揮所の後方に全長11.13mのブロックを挿入して長さ10.5mの魚雷格納庫を作り、作戦中のUボートに供給するための補給用魚雷25本を収容可。それとは別に自身が使う魚雷14本を持つため通商破壊任務も行える。他にも燃料の送も可で、XIVに匹敵する潜補給艦と言えた。しかし上で僚艦に魚雷を補給すると潜航退避が封じられて大変危険なので基地間の魚雷輸送に使われる事が多かった。搭載量を上げるため88mmを装備せず、魚雷発射管も5門(艦首に4門、艦尾に1門)に減らされるなど攻撃自体はVIICに劣るが、後方にある2段の対火器プラットフォームに対機関を装備し、右舷には起倒式シュノーケルマストを持つ。計画では130隻量産される予定だったが実際の建造総数は僅か4隻のみ。

排水量1084トン、全長77.63m、全幅7.3m、喫4.01m、最大速16.9ノット(水上)/7.9ノット(水中)、燃料搭載量198.8ノット、安全潜航深度100m、急速潜航時30、乗員46名。兵装は533mm魚雷発射管5門、魚雷35本、37mm単装機関1門、20mm連装機関1基。

艦歴

ペナンを訪れた彼方からの旅人

1941年8月25日ゲルマニアヴェルフト社に発注1942年8月12日にヤード番号696の仮称を与えられてキール所で起工、1943年5月8日に進し、6月19日工を果たした。初代艦長にカールアルブレヒト中尉が着任するとともに第5潜隊群へ編入されて慣熟訓練に従事する。

6月19日から7月15日までキールで試運転と各種試験を行い、7月17日から20日にかけてシュヴィーネミュンデの対学校高射砲の訓練を実施、それから7月24日から8月19日までヘラ半島前線を想定した実践的な訓練を行い、8月20日から22日にかけてピラウで第26潜隊群と射撃訓練を行った。8月23日より東プロイセン首都ケーニヒスベルクのF・シッハウ造所で簡単な整備を受け、8月26日から9月3日まで再びピラウで第26潜隊群との射撃訓練に従事、9月14日からはリバウにて第25潜隊群と、9月21日からはゴーテンハーフェンで第17潜隊群と戦術訓練を、10月3日と翌4日にゾンダバーグで聴音装置のテストを実施した。それが終わると10月7日から11月15日にかけてキールのクルップ・ゲルマニア所にて残工事に着手。11月19日から26日にかけてシュヴィーネミュンデで対教練を、11月28日から30日までヘラで訓練を行い、12月3日キールへ入港して最終調整と武装化を行う。12月17日出撃準備了。

モンスーン戦隊への補給任務

1943年12月18日アルブレヒト艦長揮のもとキールを出港。カデカット峡とスカゲラク峡を通って12月21日ノルウェー南部クリスチャンサンに寄港して燃料、食糧、の補給を受ける。

そして12月22日に味方の掃海艇M-489に護衛されながらベルゲンに向けて出港するが、午前11時34分、イギリス空軍の双発戦闘機ブリストル・ボーファイター8機に襲撃される。敵機は対空砲火を分散させるため第404飛行隊所属の4機が囮となり、その間に魚雷を搭載した第144飛行隊所属の4機が突入する戦法を取っていた。U-1062とM-489は機掃射を浴びて軽微な損傷を負うも必殺の魚雷は全て外れ、反撃に転じたU-1062の対空砲火によりボーファイター2機を撃墜、パイロット4名全員を戦死させた。また陸地が近かった事から味方の沿台も援護してくれている。一連の攻撃でU-1062は3名の重傷者を、M-489は1名の重傷者を出し、このうちU-1062の乗組員オーバーファンクマート・ルドルフポルツフバーは緊急寄港先のエーゲルスンへ到着する前に亡くなった。同日中にエーゲルスンに寄港して遺体を陸揚げし、スタヴァンゲル護衛艦艇の交代を行い、12月24日に寄港したベルゲンで応急修理を行う。修理後、遠く離れたペナン拠点とするモンスーン戦隊向けの新音響魚雷41本(39本とも)と予備部品を積載。

1944年1月1日に第12潜隊群へ転属し、続く1月3日ベルゲンを出港して東南アジアへの長い長い旅路の一歩を踏み出す。まず1月13日頃にアイスランドフェロー諸島間を通過して北大西洋に進出し、そこから南下して喜望峰方面へと向かう。しかし大西洋は連合軍の対潜警網が非常に厳重で、それを裏付けるかのように1月20日、U-1062は4隻と6隻の駆逐艦で形成された対潜掃討部隊を発見・報告している。2月26日を南下。

3月12日頃に喜望峰南西へ到達。この辺りはローリングフォーティーズと呼ばれる1年中気が荒れており、更にイギリスの舎こと南アフリカ空軍圏という極めて危険な場所だった。3月17日姉妹U-1059は突然U-1062からの線報告が途絶えたため遭難したと推測している。不利な状況下で四苦八苦しながら喜望峰の南東へ抜けたのが3月20日前後で、難所を抜けると穏やかなインド洋が出迎えてくれたが、ここから先は英東洋艦隊の縄張りである。その頃、帰するU-532U-188はレーダー装置ナクソスとボルクム、新しい暗号表をめており、ちょうど近くにいたU-1062がU-188への補給任務が命じられる。U-1062がインド洋へ来た時には、既にモンスーン戦隊の補給を担う給油ブラーケ(3月12日)とシャルロッテ・シュリーマン(2月12日)が撃沈されており、こういった補給任務は新たにドイツ方面から来訪したUボートに一任するしかなかったのである。3月22日に両艦は合流し、洋上で物資の引き渡しを行った後、U-188はドイツへと向かって去っていった。同日中にU-1062は「4月18日にペナン到着予定」と発している。3月29日、同じくペナンに向かっているU-510が燃料補給しでペナンに行けると報告、これを受けてVIICで最も大とはいえ燃料に不安があったU-1062に余った分を補給する事になり、4月8日に合流して補給を受ける。

そして4月18日事ペナンへ入港。大切に持ってきた魚雷や予備部品を揚陸した他、Uボートの整備に役立つ図面付き取扱説明書や操作説明書、新しいエニグマ暗号表も手渡している。ちなみにペナンへは姉妹艦のU-1059も向かっていたが、3月19日大西洋上で撃沈されていて辿り着く事は出来なかった。


6月19日ヨーロッパに戻るためペナンを出港。翌日午前11時30分、マラッカ峡にていきなり英潜水艦ストームから5本の魚雷攻撃を受けるも不成功に終わる。敵潜の襲撃を掻い潜ったのも束の間、今度はJuコンプレッサーに故障が生じて帰困難となり、やむなく7月2日にペナンへ戻っている。

7月15日修理を終えたU-1062はアヘン天然ゴム35トン、錫45トンタングステン50トンなど東南アジア原産の天然を満載してペナンを出港。翌16日17時、再び敵潜テンプラーから6本の魚雷攻撃を受けたが損傷はかった。敵の厳重な警網を突破するべく日中は潜航、間のみ水上航行を行う。8月9日にダーバン南東部に差し掛かった時、入港先をビスケー湾からノルウェーに変更される。フランスではノルマンディー上陸に端を発する連合軍の侵攻作戦が行われており、沿部の出撃基地の維持が困難になりつつあったためである。またなるべく燃料を節約するように部から言われる。8月25日にはボルドーを放棄する形で所属先の第12潜隊群が解隊。

9月19日BdUは北大西洋に適切な気観測かった事から復路のU-170、U-541、U-1062に1日1回天の報告をするよう命じ、また対潜攻撃を受けた時は報告を打ち切っても良いとも命じた。その後、東南アジアして航行中のU-219と合流を命じられて大西中部で待機していたが、この通信をアメリカ軍に傍受されてしまう。そうとは知らずに9月28日22時カーボベルデ西南西600里の合流地点で浮上。U-219とU-1062をまとめて撃沈してやろうと、護衛空母トリポリを旗艦とする第47.7任務群とミッション・ベイを旗艦とする第22.1任務群が派遣された。

最期

1944年9月30日カーボベルデ南西にて第22.1任務群の襲撃を受ける。護衛駆逐艦ブレイクリー、ハワード、フェッセンが一列に並んでジリジリと迫る中、U-1062は音響魚雷を放って抵抗を試みたが、魚雷発射音を聴音されて敵艦が一斉に妨装置フィクサーを起動・命中せず。3分後、彼距離が約1000mまで縮まったところでフェッセンのソナーに探知され、対潜兵器の射程圏内である550mまで詰められる。既にU-1062は潜航していたがこれで身動きが取れなくなった。上からは敵の哨戒機がU-1062の予想地点に発煙筒を投下し、護衛駆逐艦群を誘導。

敵の聴音手は艦の左側に推進音らしき音を探知。範囲を1500mに広げてヘッジホッグ攻撃を行ったところ、14後に4回の水中爆発が生じた。続いてフェッセンはヘッジホッグの投下地点に17発の爆雷を投下。その後、護衛空母ミッション・ベイの艦載機も加わって捜索活動が行われ、18時30分に艦載機が大きな膜を発見。上とからソノブイを使った立体的な捜索と、250発の爆雷投下を6日間に渡って行うも、レーダー及びソノブイに何ら反応も見られなかったため何かしらの潜水艦を撃沈したと判断。これがU-1062の最期だった。乗組員55名全員死亡10月28日ベルリンからU-1062の安否を確認する通信が発せられたのを連合軍が傍受した。

総戦果はボーファイター2機撃墜。モンスーン戦隊への補給を成功させた事、VIIF一の戦果を持つ事から姉妹艦の中では最も活躍したとする見方がある。

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