ジネディーヌ・ジダン(Zinedine Yazid Zidane, 1972年6月23日 - )とは、フランスの元サッカー選手、現サッカー指導者である。現役時代のポジションはMF。愛称はジズー(Zizou)。
現在、レアル・マドリードの監督。
フランスのマルセイユ出身。アルジェリア移民の子であり、フランスとアルジェリアの国籍を持っている。プロとして1989年から2006年まで現役を続け、世界最高の攻撃的MFとして一時代を築いている。1998年には、地元開催のワールドカップにおいて母国フランスを初の優勝に導き、この年のバロンドールも受賞している。
クラブレベルでは、ユヴェントス、レアル・マドリードという名門クラブの司令塔として活躍。2001-02シーズンのUEFAチャンピオンズリーグ決勝で決めたボレーシュートは伝説となっている。現役時代に取得できるタイトルを全て獲得しており、歴史に残るスター選手の一人で認識されている。現役引退後は指導者の道へ進み、レアル・マドリードの監督として前人未到のチャンピオンズリーグ三連覇を成し遂げている。
普段は内気で寡黙な人物として知られているが、試合中に突然激昂することがあり、現役最後の試合となった2006 FIFAワールドカップ決勝では、イタリアのマルコ・マテラッツィに頭突きを見舞って退場となっている。
両親はアルジェリア独立戦争が起きる少し前の1953年にパリに移住し、マルセイユの北アフリカ移民が集まるカステラン地区で暮らすようになったときに7人兄弟の末っ子として生まれた。住んでいた地域は犯罪率が高く、失業率も高いいわゆる貧民街だったが、ジダンの家族はその中では比較的快適に暮らせており、5歳の頃から兄や近所の子供とサッカーを始める。
9歳で地元のクラブであるASフォレスタに入団すると、高い才能が発揮されるようになり、チームのキャプテンを任される。10歳のときに隣の地域のクラブであるUSサン=タンリに移籍し、11歳になるとSOセプテーム・レ・ヴァロンに加入する。
14歳のときに参加したプロヴァンス地方の選抜チームでのトレーニングキャンプで、ASカンヌのスカウトの目にとまり、入団オファーを受ける。こうしてジダンはマルセイユを離れることとなる。
1986年にカンヌのユースに入団。1988年にトップチームとプロ契約を交わし、1989年に17歳でプロデビューを果たす。カンヌではレギュラーが確約されていたわけではなく、1988-89シーズンの出場は2試合だけにとどまり、1989-90シーズンはリザーブチーム行きが命じられ、4部チームでプレーすることになる。
1990-91シーズンはトップチームに帯同することができるが、スタメン出場した第3節のAJオーゼール戦でパスミスを犯し、サポーターからのブーイングを受け、その後のスタメンを4試合連続で外れることとなる。第8節のオリンピック・マルセイユ戦でスタメンに返り咲くと、幼い頃からのファンであるクラブを相手に活躍を見せ、この試合をきっかけに輝きを取り戻す。1991年2月10日のFCナント戦でプロ初ゴールを決め、シーズン中に14連勝を記録したチームの中心として高いポテンシャルを見せつける。
1991-92シーズンは、兵役をこなしながらプレーしていたこともあり疲労が蓄積していたが、それでも31試合に出場し5得点を記録。チームはUEFAカップで躓いたことをきっかけに低迷する。
1992年にはリーグ・アンの名門であるFCジロンダン・ボルドーへ移籍。加入1年目となった1992-93シーズンは、守備的MFでの起用が中心となったが、後にフランス代表で共に黄金時代を築いたクリストフ・デュガリー、ビセンテ・リザラズと共に「ボルドーの三銃士」と呼ばれ、魅力的な攻撃陣を構築。このシーズンのゴール数は10ゴールを記録し、後のキャリアでも最多得点を記録したシーズンとなった。
以降もボルドーの攻撃の中心として君臨。1994年には、リーグ・アンの最優秀若手選手に選ばれる。ボルドー時代でもっとも輝きを放ったのが4シーズン目となった1995-96シーズン。リーグ戦では33試合6得点という成績を残し、UEFAインタートトカップを勝ち抜いてUEFAカップ本戦に進出。3回戦のレアル・ベティス戦では、35mほどの位置からのロングシュートを叩き込む。準々決勝では、強豪ACミランと対戦。0-2と初戦を落とした後の2nd legでデュガリー、リザラズと共にワールドクラスの名手を揃えたミランの守備陣を攻略し、3-0での完勝を飾り、大逆転でのベスト4進出を決める。このミラン戦でジダンの注目度はますます増し、出世試合と言っていい試合となった。チームは決勝まで進出し、準優勝という成績を残し、後に移籍することとなるユヴェントスの首脳陣に「ミシェル・プラティニ(現UEFA会長)の後継者をみつけた」と言わしめた。リーグでも33試合6得点という成績を残し、この年のリーグ・アン年間最優秀選手に選出される。
1996年にイタリア・セリエAの名門ユヴェントスへ移籍。背番号は「21」。世界的にも知られるビッグクラブに加わったことでジダンの知名度はさらに増すこととなる。移籍当初はチームにフィットできず、メディアやサポーターからの批判を受けていたが、辛抱強く起用を続けていたマルチェロ・リッピ監督が最適なポジションは2トップの下のトレクァルティスタ(TREQUARTISTA)であるという答えを導き出すと、鮮烈な輝きを放つようになる。11月26日には、初めて日本を訪れ、トヨタカップ1996でリーベル・プレートを破ってのクラブ世界一獲得に貢献。キャリア初のメジャータイトルは日本で獲得することとなった。シーズン後半戦になると、もはやチームに欠かせない存在となり、1996-97シーズンのスクデット獲得をもたらす。また、初出場となったUEFAチャンピオンズリーグでも決勝進出の立役者となるが、決勝でボルシア・ドルトムントに敗れ、ビッグイヤー獲得を逃す。
1997-98シーズンはアレッサンドロ・デル・ピエロとフィリッポ・インザーギの2トップ(通称デルピッポ)の下でプレーする役割を与えられ、強力なトライアングルを形成。ブラジルの怪物ロナウドを擁するインテルと激しいスクデット争いを展開するが、第31節の直接対決を制したことで2年連続でのスクデット獲得を達成。CLでも質の高いゲームメイクを披露し、チームの3年連続での決勝進出に貢献。しかし、決勝でレアル・マドリードに敗れ、自身初のビッグイヤーはまたも目前で夢に終わる。1998年は、ワールドカップ優勝をもたらしたこともあり、バロンドロールを受賞とFIFA世界最優秀選手賞を受賞。
1998-99シーズンは、ワールドカップで決勝まで戦った疲労が開幕後も残り、前半戦は精彩を欠いたプレーが続く。加えてデル・ピエロがシーズンの大半を棒に振る大怪我を負ったことでチームは慢性的な得点力不足に陥ってしまう。自身も怪我で離脱するなど25試合の出場にとどまり、セリエAでは6位に終わるという不本意なシーズンとなってしまう。
1999-00シーズンは、開幕から好調を維持し、怪我の後遺症に苦しむデル・ピエロが極度のスランプに陥る中でチームを牽引。カルロ・アンチェロッティ監督も中盤の形をフランス代表に近いものに形成し、よりジダン中心のチーム作りを進めていた。首位でシーズン終盤を迎えていたが、最後の8試合でチームは4敗を喫するほど調子を落とし、最終節でSSラツィオに抜かれてスクデットを逃す。このときジダンは、悔しさを強く滲ませたコメントを残している。
2000-01シーズンは、フランス代表のチームメイトであるダビド・トレゼゲが加わり、自身もチームも上々のスタートを切る。ところが、2000年10月25日、CLグループリーグのハンブルガーSV戦で相手のファウルに対して頭突きによる報復行為をおこない退場になる。この試合エドガー・ダーヴィッツも退場していたためユヴェントスは9人での戦いを強いられ、敗北。この行為にイタリア国内はもちろん、各国メディアから強い批判を受ける。UEFAからは5試合の出場停止処分が科せられ、ジダンを失ったチームはグループリーグ敗退となる。この行動が原因で2000年のバロンドールを逃すこととなった。また、この頃自身の気持ちはスペインへの移籍に傾いており、フロントに対して何度も移籍の希望を訴えていた。
2001年7月当時の史上最高額の金額である9500万ユーロでスペイン・リーガ・エスパニョーラのレアル・マドリードへの移籍が決定。背番号は「5」。当時のレアルはフロレンティーノ・ペレス会長のもと莫大な金額をかけた大型補強による銀河系軍団を作り上げており、その一因に加わることとなった。また、2000年にモナコで行われたUEFAのレセプションでレアル・マドリーの会長であるフロレンティーノ・ペレスと同席になり、ペレスはジダンに向けて「レアル・マドリーへ来たいか?」と書いた紙を見せ、それを見たジダンは殴り書きで「Yes」と答えた。有名なエピソードである。
加入1年目となった2001-02シーズンのチームは、スター選手とカンテラ出身の生え抜きが共存するような構成となった。当初はメディアからのプレッシャーに悩んでいたが、スペインでの生活に慣れてくると、銀河系軍団の中心として活躍。CLでは、準決勝でFCバルセロナを破り、自身3度目となる決勝へと駒を進める。2002年5月15日におこなわれた決勝のバイヤー・レバークーゼン戦では、1-1の同点で迎えた前半終了間際にロベルト・カルロスが放った大きなクロスを左足のダイレクトボレーで合わせたスーパーゴールを叩き込み、これが決勝点となり、自身3度目の正直で悲願であったチャンピオンズリーグ優勝を達成。この試合でのジダンのゴールは「サッカー史上最も素晴らしいゴールの1つ」として伝説となり、今日に至るまで語り継がれている。
2002-03シーズンも高いゲームメイク能力を発揮し、銀河系軍団の名にふさわしいスペクタクルなフットボールを演出。この年加入したロナウドを含め、バロンドール経験者が3人名を連ねるスター軍団の中でも別格の輝くを放っていた。2002年12月3日には、パラグアイのオリンピアを下し、トヨタカップ優勝。リーガ・エスパニョーラでもリーグで断トツ1位の得点数を記録し、優勝。栄華を極めていた銀河系軍だったが、このオフのシーズンのペレス会長の独断ともいえる補強戦略によってその時代は終わりを告げようとしていた。
2003-04シーズンは、最初にスペール・コパ・デ・エスパーニャのタイトルを獲得するが、これがジダンにとっての最後のタイトルとなった。これまでスター揃いの攻撃陣の分まで中盤の守備を担っていたクロード・マケレレを放出してしまったことでチームはバランスが崩壊。2004-05シーズンは、シーズン中に二度も監督が交代する混乱のシーズンとなってしまい、2シーズン連続で無冠に終わってしまう。
2005-06シーズンも選手間の軋轢や規律の欠如という様々なピッチ内外の問題を抱えていたチームの中、自身は変わらず、ファンを魅了するプレーを披露し続けていた。2006年1月6日のセビージャ戦では、自身キャリア初となるハットトリックを達成する。そして、2006年4月25日にこの年の6月に開催されるワールドカップを最後に現役を引退することを正式に発表。この発表は世界中に衝撃を与え、サンャゴ・ベルナベウでの最後の試合となったビジャレアル戦では8万人がスタジアム駆けつけた。ラストシーズンの成績は29試合出場9得点で、まだまだトップレベルの力を残しながら引退することを物語っていた。
1994年8月7日、負傷したユーリ・ジョルカエフに代わる追加招集して初めてフランス代表に呼ばれ、チェコとの親善試合で後半18分から出場し、デビューを果たす。その試合で2ゴールをあげる活躍を見せると、エメ・ジャケ監督に才能を買われ、代表に定着する。
EURO96予選では、当初は出場機会が少なかったが、1995年に入ってからチームの中心として起用されるようになる。当時のフランス代表は、98年ワールドカップの開催国に決まっていたが、2大会連続で予選敗退という低迷期に差し掛かっていた。ジャケ監督は、これまでチームの主力だったエリック・カントナ、ダビド・ジノラ、ジャン=ピエール・パパンを外し、ジダンを軸にした若い世代中心のチーム作りを進め、EURO96は彼らに経験を積ませるための場と位置付けていた。ジャケ監督の期待に応え、4月26日のスロバキア戦ではチームの4ゴール全てに絡む活躍を見せ、10月11日のルーマニア戦ではハーフボレーによるゴールを決め、EURO本大会出場権を獲得する。
1996年6月自身初の国際舞台でのビッグトーナメントとなるUEFA EURO96に背番号「10」を背負って出場。大会の直前に自動車事故を起こし、怪我を抱えながらプレーすることとなるが、スペイン、ルーマニア、ブルガリアという2年前のワールドカップでベスト8以上に入ったチームに囲まれたグループを首位で通過。準々決勝と準決勝は共にPK戦までもつれこむことになるが、そのどちらの試合にもフル出場。準決勝でチェコに敗れるが、ベスト4という合格点の成績を残す。
自国開催のワールドカップとなるため、予選は免除となるが、その間のテストマッチでチームは得点力不足に悩まされ、チームは勝ち切れない試合が続いていた。ユヴェントスで見せるようなプレーを代表で発揮しきれないジダンやジャケ監督にフランス国民やメディアから批判が集まり、カントナたちを復帰させることを求める声も多くなっていた。それでも、1998年1月28日ワールドカップのメインスタジアムとなるスタッド・ドゥ・フランスのこけら落としとなるスペイン戦でゴールを決めている。
1998年6月から地元フランスで開催された1998 FIFAワールドカップに背番号10を付けて出場。グループリーグ初戦の南アフリカ戦を難なく制するが、第2戦のサウジアラビア戦で事件が起きる。3-0とリードしていた後半25分相手チームのキャプテンを踏みつけてしまい、退場となる。FIFAからは2試合の出場停止処分が科されてしまう。攻撃の全権を握るジダンを失ったフランスだったが、窮地に立たされたことで結束を強め、持ち前の堅守をベースにベスト16までを勝ち抜き、準々決勝のイタリア戦から復帰することとなる。7月13日におこなわれたブラジルでの決勝では、前半27分エマニュエル・プティの右コーナーキックにニアサイドで反応し、先制ゴールとなるヘディングシュートを決める。さらに、前半終了間際今度はジョルカエフの右コーナーキックに反応し、またしてもヘディングシュートを決め、試合を決定づけ、フランスの初優勝に大きく貢献する。この活躍でフランスの英雄となったジダンの顔が大会後、エッフェル塔に掲げられ、凱旋門にも顔が映し出された。さらに、この年のバロンドールとFIFA世界最優秀選手賞を受賞し、一気に世界的なスーパースターへと昇り詰める。
ワールドカップ後にジャケ監督が退任し、ロジェ・ルメール監督のもとで再スタートを切るが、ワールドカップでエネルギーを使い果たしたこともあり、EURO2000予選では苦戦。予選敗退の危機に立たされていた最終節のアイスランド戦に辛くも勝利し、本大会出場を決める。
2000年6月に開催されたUEFA EURO2000では、コンディションもすっかり回復し、攻撃の中心としてティエリ・アンリやダビド・トレゼゲ、パトリック・ヴィエラといった若手が加わったチームを牽引。グループリーグを2連勝し、決勝トーナメント進出を決める。準々決勝のスペイン戦では、フリーキックから直接ゴールを決める先制ゴールによって勝利に貢献。準決勝のポルトガル戦では延長戦に入って得たPKをきっちりと決め、決勝進出へと導く。決勝のイタリア戦では、1点を先制されてからのチームの猛攻を演出し、延長戦でのトレゼゲのゴールによって逆転での優勝を飾る。大会を通して素晴らしいパフォーマンスを見せたジダンは、大会の最優秀選手に選ばれ、2度目となるFIFA世界最優秀選手にも選ばれる。ジダンを中心としたフランス代表は黄金時代を迎えていた。
この当時のフランスは、次々と有望な若手が台頭し、彼らが欧州各国の主要リーグで活躍していたことで、2002年 FIFAワールドカップでは世界最強のチームと称されていた。ところが、大会直前の韓国との親善試合で左膝を負傷してしまい、本番に入っても回復はしなかった。ジダン不在のチームは、グループリーグの2試合で1分1敗となってしまう。崖っぷちに立たされた第3戦のデンマーク戦に包帯を巻いて強行出場するが本来の出来には程遠く、0-2で敗れ、1勝もできず、ノーゴールのままグループリーグ敗退となるまさかの結末を迎える。
失意の日韓ワールドカップ後、EURO2004予選を全勝で勝ち抜き、自身3度目となるUEFA EURO2004に出場。グループリーグ初戦のイングランド戦では、1点ビハインドで迎えた試合終了間際の後半45分にフリーキックから直接ゴールを決め決め、同点に追いつく。さらに2分後アンリが得たPKを自ら決め、劇的な逆転勝利をもたらす。チーム全体が低調の中で獅子奮迅の活躍を続け、第3戦のスイス戦でも先制ゴールを決め、グループリーグ突破に貢献。しかし、準々決勝ではこの大会で台風の目となっていたギリシャに敗れ、ベスト8で敗退。大会後、若手に道を譲るために代表引退を表明する。
2005年に入り、ドイツW杯欧州予選を戦うフランス代表は、レイモン・ドメネク監督の不可解なチーム作りもあって迷走。予選敗退の危機にドメネク監督やキャプテンのヴィエラから代表復帰の要請を受け、ジャック・シラク大統領までが復帰のために動くという大事になった中、8月3日リリアン・テュラムとクロード・マケレレと共に代表復帰を表明。復帰後は、ヴィエラからキャプテンを譲られ、予選敗退の危機にあったチームの救世主となり、本大会出場権を勝ち取る。
2006年の4月に大会後の引退を公言して臨んだ2006 FIFAワールドカップでは、グループリーグを1勝2分で辛うじて通過し、ベテラン主体のチームへの評価は高くない状況だった。しかし、ラウンド16のスペイン戦で”ジダンの魔法”が発動し、低調だったチームが躍動。試合終了間際には、引退を間近にした選手とは思えないキレのあるドリブルから自らゴールを決め、下馬評を覆してのベスト8進出に導く。準々決勝のブラジル戦ではフリーキックからアンリのゴールをアシストする。ちなみに、このゴールが長年代表でコンビを組みながら1度も実現していなかったジダンがアンリのゴールをアシストする場面だった。準決勝のポルトガル戦でも、前半33分にPKによるゴールを決め、ついに決勝進出を果たす。
2006年7月9日、現役最後の試合となったイタリアとの決勝では、前半7分に得たPKのチャンスにパネンカを決め、先制ゴールをもたらす。その後、1-1の同点となったまま試合は延長後半に突入。そして、延長後半6分マルコ・マテラッツィの挑発に激昂して頭突きを見舞い、一発退場となる。レッドカードと同時にジダンの華々しい現役生活は終了。フランスはPK戦の末に敗れ、準優勝となる。現役最後の大会でフランスを決勝に導いた功績が評価され、大会の最優秀選手に選ばれる。
決勝での”頭突き騒動”は、大会が終わった後も多くの論争を呼ぶこととなった。頭突きを受けたマテラッツィがジダンの家族を侮辱する発言をしたことから、マテラッツィのほうがむしろ批判を多く集め、2人の確執は今日に至るまで完全には終わっていない。
2009年、レアル・マドリードのアドバイザーに就任。2010年からはジョゼ・モウリーニョからの要請でチームに同行。2011年にスポーツディレクターに就任したが、2012-2013シーズンに辞した。2013-2014シーズンからは現レアル・マドリー監督のカルロ・アンチェロッティのアシスタント・コーチに就任した。
スペイン・セグンダ・ディビシオンB(実質3部)のレアル・マドリー・カスティージャの監督を務めていたが、
2016年1月、レアル・マドリードの監督に就任した。
▶もっと見る
急上昇ワード改
最終更新:2025/12/13(土) 22:00
最終更新:2025/12/13(土) 22:00
ウォッチリストに追加しました!
すでにウォッチリストに
入っています。
追加に失敗しました。
ほめた!
ほめるを取消しました。
ほめるに失敗しました。
ほめるの取消しに失敗しました。