オーストリア継承戦争(1740〜1748年)とはオーストリアの継承問題をきっかけにヨーロッパで発生した戦争である。
概要
近世以来ヨーロッパで多大な影響力を誇ったオーストリア・ハプスブルク帝国と、当時台頭していたプロイセンがシュレジエンを巡り争った戦争。シュレジエンをかけた二国間の争いはこの戦争に収まらず、マリア・テレジアとフリードリヒ2世のは生涯をかけてこの地を奪い合うことになった。
戦争の勃発
当時のハプスブルク家はヨーロッパで広大な領土を保有していた。しかし当主カール6世には男子がおらず、後継者に悩んでいた。慣習的にヨーロッパでは当主は男子が継ぐものであったので、このままではカールの死後、彼の遺す遺産を巡って戦争が起こることは必至であった。近くにはスペイン継承戦争が発生していたし、そもそも他家の継承に口を出して領土を併合するのはむしろハプスブルク家の十八番であったのだ。だが今度はその不運が我が家に転がり込み、カール6世は頭をかかえることになる。
そこで彼は長女のマリア・テレジアに自らの帝国を継がせることを決めた。カール6世は女性継承を認める国内法を制定し、他国には領土をエサに娘の継承を承認させようとした。部下の中にはそんな口約束より、むしろテレジアのために強力な軍隊を遺すべきだと言う者もあったが、カール6世は耳を貸さなかった。
他国の約束を得て心安らかにあの世に旅立ったカール6世であるが、当時のヨーロッパ諸国はそれほど甘くなかった。彼の死後にフランスやスペイン、バイエルンが女性のマリア・テレジアの継承権を否定しだしたのである。にわかに暗雲が立ち込めるなか、わずか23歳の新女帝にはなす術もなかった。彼女は本来皇帝ならば身につけているべき帝王学をまるで父から習っていなかったのである。カール6世は彼女の夫のフランツに政治を任せる気でいた。だがフランツは優秀な行政官ではあったが、軍事家としては無能であった。
マリア・テレジアは父の老臣から謙虚に政治を学ぼうとしていたのだが、弱肉強食の近世ヨーロッパで彼女の成長を待つものはいなかった。不意に彼女の耳に衝撃的な報告が届く。北の領邦プロイセン王フリードリヒ2世がシュレジエンに向けて軍を進めているというのだ。シュレジエンはハプスブルク家の収入の1/4を占めるほどの豊かな都市である。これを奪われることは帝国の終わりに等しい。シュレジエンを巡る大王フリードリヒ2世と女帝マリア・テレジアの長い戦いの始まりであった。
マリア・テレジアの決断
フリードリヒ2世の侵略はマリア・テレジアにとって青天の霹靂であった。プロイセンは小国で、ハプスブルク帝国に向かってくること自体が想定外なのだが、フリードリヒ2世という個人がハプスブルクに向かってくることはありえないことと思われていた。というのはフリードリヒが若い頃父王の怒りを被り処刑されそうになった時、助命嘆願をしたのがテレジアの父カール6世だったからである。フリードリヒ2世はどちらかといえば文官気質で、カール6世からも可愛がられていた。また『反マキアヴェッリ主義』という本を著し、弱肉強食のヨーロッパ社会を批判していた人物であったのだ。そして奇しくもフリードリヒ2世はマリア・テレジアの夫候補の一人でもあった。
そんな男が即位した直後にカール6世の死に乗じてハプスブルク家に攻撃を仕掛けてきたのである。オスマン帝国との戦いに力を注いでいたオーストリアにそれを迎え撃つ力はなかった。瞬く間にシュレジエンは占領され、更にプロイセン軍はフランス&バイエルン軍と連携して首都ウィーンに歩を進めたのである。この国家存亡の危機にオーストリア宮廷は揺れに揺れた。しかしカール6世時代の老臣たちの頭にあるのは諦観と保身のみであり「この際、フリードリヒ2世の要求を飲んでシュレジエンを放棄すべきである」と言い出した。夫のフランツもこれの同調する始末である。
ここで23歳の政治も戦争も知らない箱入り娘が易きに流れ首を縦に振っていたら、ヨーロッパの歴史は大きく変わったであろう。だが、政治的無知さにも関わらず、あるいは無知さ故に、マリア・テレジアは断固としてシュレジエンを、父や先祖から受け継いだ土地を守ることを決意したのである。
大王の進撃
だが状況は依然プロイセンに傾いていた。そもそも女であるテレジアも、入り婿で元は余所者であったフランツも帝国内からの支持はそれほど強くなかったのだ。途中、バイエルンがプロイセンの意向に背いてウィーンではなく同じくハプスブルク領有のプラハのベーメンに侵攻したのだが、ベーメン市民は街を死守するどころか、無血開城でバイエルン軍を迎え入れてしまったのである。それほどまでに若きマリア・テレジアとフランツは信頼されていなかった(後にテレジアはこの行為を厳しく咎めている)。他方、バイエルンがウィーンから手を引いたことで首都陥落の危機はなくなった。
マリア・テレジアは一刻を争うシュレジエンへ軍隊を送り込んだ。しかし、豊富な軍資金を背景とする近代軍を持つプロイセンと比べて、オーストリア軍はイタリア人やチェコ人など多人種の傭兵中心の混成軍であり古い型式の軍隊であった。またオーストリア軍はそれを指揮する将官が、経験や能力ではなく家格によって決められていたのであった。これでは勝てるはずもない。
奇襲によってあと一歩のところまでプロイセンを追い詰めるものの、結局オーストリア軍は惜敗してしまう。勝敗自体は紙一重の差であったが、フリードリヒ2世は世に稀に見るプロパガンダの天才であった。彼はこの小さな勝利を「小国プロイセンが超大国ハプスブルク帝国を完全撃破!」と宣伝したのである。これによってヨーロッパ諸国は一斉にプロイセンに靡いた。プロイセンをはじめフランス、バイエルン、ザクセンが四国同盟を結び、オーストリアを包囲する。
ハプスブルク帝国は次々と蚕食され、フランツの手に渡るはずだった神聖ローマの皇帝位も300年ぶりに他家に奪われることとなった。皇帝位自体は形骸化したものであり、2年後にはフランツの頭の上に帰ってきたものの、マリア・テレジアはいいようのない屈辱を覚えていた。
一進一退
東の天敵であるオスマン帝国が中立を保ってくれていたことがマリア・テレジアをわずかに慰めたものの、事態は一向にオーストリアに好転しなかった。
そこで彼女はハンガリーに援助を頼もうと試みた。しかしハンガリーは歴史的にオーストリアと不和が多い土地であった。マリア・テレジアは名目上ハンガリー国王でもあったので、その戴冠式に乗じてハンガリー貴族たちに軍資金の提出を願った。生まれたばかりのヨーゼフ(後のヨーゼフ2世)を抱擁しながらの懸命な説得は数ヶ月にもわたり、ついに彼女はハンガリー貴族の援助を得ることに成功した。たかが小娘と侮っていたフリードリヒ2世もこの件で彼女の評価を見直すこととなる。そして事実ここからオーストリアの反撃が始まったのである。
まずマリア・テレジアが最も信頼するケーフェンラー将軍がバイエルンの首都ミュンヘンを陥落させた。バイエルン王カール・アルベルトは先述した通りプラハでベーメンの王になっており、しかも今ではカール7世として神聖ローマ皇帝の位まで手に入れていた。しかしミュンヘンが陥落し帰る場所もフランスの後援も失ったカールは、戦争で荒廃する国土を横目に放浪生活を送り、まもなく病死してしまった。
一方で、もともと同盟関係にあったイギリスがオーストリアに手を貸してくれることになった。イギリスの力を得たオーストリアはフランツの弟カール・ロートリンゲンを大将にホトゥジッツの地で再び連合軍と干戈を交えることとなった。だが総大将がマリア・テレジアの義弟という身内人事は、そのままオーストリア軍の弱さを意味していた。オーストリア軍はここでもプロイセンをあと一歩まで追い詰めるものの、やはり敗北してしまう。
マリア・テレジアはついにシュレジエンを放棄するベルリンの和約を交わし、オーストリア継承戦争の前半(第一次シュレジエン戦争)は終結した。別戦線ではハプスブルク軍はバイエルンやフランスを打ち破りプラハを奪還する。ここで双方一息つくことになるのだが、この平和が一時的なものであることは誰の目にも明らかであった。
第二次シュレジエン戦争
ベルリンの和約から4年後、オーストリアはイギリス、オランダと同盟し、これに対してプロイセンはフランス、スペインらと反ハプスブルク同盟を結び戦争が再開される。
両者はデッティンゲンで激突し、今度はオーストリアが勝利を収めた。オーストリア軍はそのままフランツの生まれ故郷のロートリンゲンに侵攻しようとした。ロートリンゲンはフランツがマリア・テレジアに婿入りするときにフランスに奪われたもので奪還は悲願であったが、その直前でフリードリヒ2世の本隊がザクセンを侵略し、次いでプラハを攻撃しているとの報が入った。オーストリア軍は断腸の思いでウィーンに帰陣したのだが、プロイセン軍は既に侵攻を断念し引き返していた。
その後、間も無くオーストリアを盟主にしたイギリス、オランダ、さらに前回プロイセン側だったザクセンも含んだ四国同盟がワルシャワで結ばれた。またバイエルン王カール(皇帝カール7世)が崩御し、バイエルンもハプスブルク家と和解していた。一方のプロイセンは利己的なフリードリヒ2世にフランスが愛想を尽かし始め、逆に孤立を深めていた。しかしそんな苦境の時こそ前にでるのがフリードリヒ2世が大王と呼ばれる所以である。彼はシュレジエンからベーメンに向けて兵を進めた。第二次シュレジエン戦争の最大の山場となるホーエンフリードベルクの戦いは、夜中の2時にフリードリヒが奇襲を仕掛ける。オーストリア軍は潰走し、プロイセンが勝利した。
その後もハプスブルクとプロイセンは何度も戦ったが決定的な勝敗はつかなかった。イギリスが停戦を促してもマリア・テレジアはシュレジエンを取り戻すまでは戦争を終わらせる気はなかった。一方のフリードリヒ2世もシュレジエンのためならその他の土地はどうなってもいいというほどの覚悟で戦争を続けていた。
最終的にマリア・テレジアが自軍の不利をさとり、ついに膝を折ることとなった。フリードリヒ2世はこの報告に諸手を挙げて歓喜したと言われる。この頃にはフリードリヒは戦争前に持っていたマリア・テレジア評を一変させ、彼女を非常に優秀な君主と賞賛していた。ドレースデンの和約によってプロイセンと和解した後に、オーストリアは西部のフランス・スペイン連合軍と戦い、1748年にはアーヘンの和約が結ばれた。この和約では、マリア・テレジアの継承権が正式に認められる一方で、シュレジエンはプロイセンのものとして認められた。こうしてカール6世の死を端に発し、都合8年にも亘ったオーストリア継承戦争は終わりを迎えたのである。
だがマリア・テレジアはシュレジエンを諦めたわけではなかった。彼女とフリードリヒ大王のシュレジエンを巡る第二ラウンドは1754年から始まる。世に言う七年戦争である。
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