コンバートとは、
である。ここでは後者の、特に野球におけるコンバートについて説明する。
概要
野球というスポーツは同時に9人(と指名打者)までしか参加できない。その為ポジションが被ると優秀な選手が出場できない事も多々ある。それを解決するためにポジションの転換を行うのがコンバートである。
基本的には秋・春のキャンプや二軍戦などでみっちり新ポジションでの動きを学ぶことになるが、怪我人が続出して緊急・臨時コンバートが行われることもある。無理矢理強行することもあるが(例:セカンド中村紀洋)こういう時しわ寄せがくるのは大抵二軍である(動ける選手を一軍に昇格させまくった結果、人数不足で二軍の試合が出来なくなり、現役引退していた打撃投手等を育成選手として復帰させて野手をやらせるという悲惨な事態になる事も。特にヤ戦病院)。
他ポジションの練習を行ったり、コンバートを繰り返したりした結果、どこでも守れるようになった選手はユーティリティープレイヤーと呼ばれる。
投手からのコンバート
「アマチュア(学生・社会人)では投手だったが、プロ入りの際に野手として入団」というパターンと「投手として数年プレーしたが見切りを付けられて野手に転向」という2パターンが存在する。
そもそも投手というポジションは高い野球センスが要求され、チーム1の野球センスの持ち主だったため投手を務めていたが、プロでの世界では投手として通用しないので野手になる、というケースが多い。また、打撃力を買われて野手転向することも多い。投手をやっていただけあって肩が強い選手が多いので、遊撃手や外野手に転向する事が多いが、純粋に打撃力を買われて一塁手となった選手も多い。
アマ時代は投手で、プロ入り時に野手として入団した選手は数えきれないほどいるが、もっとも有名な人物は王貞治とイチローであろう。
プロで投手として数年過ごしてから野手転向した人物も多い。打撃の神様こと川上哲治も当初は投手として入団し、最初の4年ほどは投打兼任(今で言うなら二刀流)でプレーしていた。古い例は関根潤三が有名と思われ、投手として8年間で65勝を挙げた後に野手転向、投手と野手の両方でオールスターに選出された経験を持つ(長らくプロ野球史上唯一の記録であったが、大谷翔平が2人目を達成した)。初代ミスタードラゴンズ・西沢道夫は戦前は投手として活躍し、伝説の延長28回を完投したりノーヒットノーランを達成したりしたが、戦争で肩を痛め打者転向、一塁手となってシーズン46本塁打を放つなど活躍、背番号15は永久欠番である。その延長28回の相手である野口二郎も戦前はシーズン40勝を挙げるなど投手として活躍(プロ通算237勝)、こちらも戦争で肩を痛め、戦後は阪急で打者として活躍した。「権藤権藤雨権藤」で知られる権藤博は酷使がたたって4年で野手転向、三塁手となってリーグ最多犠打を記録したりもしたが、若くして引退した。
近年の選手では、石井琢朗が投手としては3年で1勝しかできなかったが、三塁手を経て遊撃手にコンバートされ、2432安打を記録するなど名高い。高井雄平は典型的なノーコン速球の暴投王でプロ通算18勝を記録していたが、一方で強打の投手としても知られており、プロ8年目に遂に野手転向してレギュラーとして活躍した。嶋重宣は投手としては故障に悩まされ2試合の登板に終わり、5年目に野手転向するが芽が出ず、一時は戦力外通告されそうになるが、翌年9年目で遂に覚醒し赤ゴジラの異名で長く活躍した。糸井嘉男は一軍登板機会がなく、3年目に野手転向すると走攻守に優れた名選手となった。
投手へのコンバート
投手は他のポジションと大きく異なり、特別な能力が必要とされるので、このコンバートは極めて少ない。ただ、アマチュア時代に投手を務めていた人物が投手復帰するというケースが多い。
古い時代では中日の服部受弘が有名で、元々捕手であったが戦後投手に転向、捕手・三塁手としても活躍し、代打逆転満塁本塁打→リリーフ登板→勝利投手というマンガのような試合をやってのけたこともある。彼の背番号10は永久欠番。
遠山奬志は投手から一塁手へ転向していたが成績を残せず、古巣阪神の入団テストを受けると投手に再コンバートした上で採用され、松井秀喜キラーとして名を馳せたり、苦肉の策「遠山・葛西スペシャル」として起用されたりした。萩原淳は打者としては9年間でたったの1安打という戦力外になってもおかしくない惨状だったが、仰木彬監督の決断でアマ時代含め投手経験が一切無かったにも関わらず投手にコンバートされたという珍しいケースで、そこから9年間、速球派の中継ぎとして活躍した。
奇特な例としては広島のフェリックス・ペルドモが挙げられる。彼は二塁手・遊撃手を守っていたが後に投手転向して中継ぎとなり(登録上は内野手)、二刀流で活躍した。が、当時の外国人枠は投手2人野手2人の合計4人であったが、野手の枠に入れたペルドモを「3人目」の外国人投手として使ったので物議をかもすことになった。
捕手からのコンバート
捕手はポジションとしては激戦区ということもあり、捕球やリードが下手だったりして弾き出された選手がコンバートされることが多い。投手同様肩を求められるポジションなので、もっぱら外野手への転向が多い。一方、晩年守備能力が衰えたり、肩を痛めたり、足が遅かったりして、比較的守備の負担が少ない一塁手に転向するケースも見られる。
外野転向の代表例としては和田一浩、関川浩一、礒部公一あたりが有名。飯田哲也は足が速かったこともあって捕手→二塁手→中堅手と転向し長く活躍した。近藤健介は捕手・三塁手・右翼手と頻繁にコンバートを繰り返している。
一塁手転向の代表例としては田淵幸一、小笠原道大(三塁手も守った)、現役晩年の阿部慎之助あたりが有名。
木村拓也は捕手として日本ハムに入団したが出番がなく外野手に転向、広島移籍後に二塁手・遊撃手・中堅手・三塁手もこなすようになり、巨人移籍後は一塁手も守った上、負傷退場で捕手がいなくなると捕手として出場。球界屈指のユーティリティープレイヤーと名高い上に両打という器用な選手だった。
捕手へのコンバート
投手同様特殊なポジションのため、例は極めて少なく、レギュラーに定着した者はおそらくいない。
数少ない例としてはダイエーの内之倉隆志が強肩を買われて、三塁手から捕手に転向している。
内野手のコンバート
二塁手と遊撃手は役割が似ているので、この2ポジション間でのコンバートは比較的頻繁に見られ、兼任している選手も多い。一方、守備力が要求されるのでそれ以外のポジションから二遊にコンバートされることは少ない。
全ポジションの中でも遊撃手は広い守備範囲と優れた打球反応、更に強い肩を求められるポジションであるため、野球センスに特に長けた人物がついている事が多く、途中から遊撃手にコンバートされて成功したのは前述の石井琢朗くらいかと思われる(なお石井は野手転向当初は三塁手だった)。
二塁手も同様に高い守備力が求められるので、有名なのは前述の木村拓也くらいである。
五十嵐章人は外野手として入団したが二塁手・遊撃手にコンバートされた比較的珍しい例であり、その後三塁手や外野手としても活躍、仰木彬監督の計らいもあって投手・捕手も含めた全ポジションでの出場を成し遂げている。
三塁手は強肩と打球反応が求められるが二塁手や遊撃手ほどではない。そのため二・遊から三塁手にコンバートされるケースはかなり多い。代表例は落合博満(二塁手)、小久保裕紀(二塁手)。
珍しいケースでは、ダイヤモンドグラブ賞を受賞するほどの守備の名手でありながら、張本勲が加入したため左翼手から三塁手にコンバートされた高田繁がおり、三塁手1年目でも見事ダイヤモンドグラブ賞を受賞している。同様に真弓明信も、当初遊撃手だったがチーム編成の関係で二塁手に、翌年は右翼手にコンバートされたが、この3ポジション全てでベストナインに選ばれている。3ポジションでベストナインに選ばれた選手には他に落合博満もいる。
また、遊撃手のレギュラーだったが年齢を重ねて守備力が衰えたため、三塁手にコンバートされるケースも見られる。鳥谷敬 、田中幸雄、石毛宏典、中島宏之など。倉本寿彦のように守備難で、守備力補強のために前田大和が加入した結果、二塁手や三塁手に押し出されるというパターンもある。
一塁手は内野の中では守備負担が少ない方だが、ゴロからの送球を正確にキャッチする守備力が必要である。とはいえ足の遅い選手など(左翼手では不安)がコンバートされることが多い。前述の田淵や阿部、落合、中島、小久保、田中幸雄といった選手も現役後半~晩年は一塁手として出場していた。外野手からは山崎武司や稲葉篤紀、佐伯貴弘などの打力のある選手が一塁手にコンバートされている。
外野手のコンバート
守備範囲は広いが、内野のような打球反応や素早い判断が求められることが少ない為、守備に不安を抱える選手が外野にコンバートされることは多い。一方、出場機会を求めて外野に挑戦する選手や、新戦力の加入で追い出されるように外野手となった選手も多い。俊足や強肩の持ち主なら中堅手や右翼手、守備難であれば最も負担が少ないと言われる左翼手にコンバートされるケースが一般的である。
例えば遊撃手だった福留孝介は井端弘和にその座を奪われて右翼手に転向、遊撃手だがイップスに悩まされた田口壮や内川聖一も遊撃手から外野に転向して成功している。守備力の不安から左翼手に転向した選手としては筒香嘉智や松中信彦、前述の和田一浩あたりが有名。現役晩年に左翼手となったのは松井稼頭央や立浪和義などが挙げられる。
関連項目
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