三職推任問題(さんしょく/さんしき すいにんもんだい)とは、日本史、安土桃山時代(戦国時代)の出来事である。織田信長に残された謎のひとつ。
概要
織田信長は1578年に右大臣を辞任してから、何の官職にも就いていなかった(散位)。
1582年、織田家臣・村井貞勝と公家・勧修寺晴豊の間で話し合いが行われ、信長を「太政大臣」「関白」「征夷大将軍」のどれか希望するものに任じようという事になった。たぶん日本史上で最も豪華な三択ではなかろうか。
信長はこれに何らかの返答をしたらしい。が、その1ヶ月後に本能寺の変が起こり、それに巻き込まれて信長も村井も死去。以後この話に触れられる事はなく、詳細は永遠の謎となってしまった。
名称
正確には上記の三択の件が「三職推任」で、それについて不明な部分が多い事が「問題」として議論されているという話である。が、あまり厳密に区別せずに一連の出来事を「三職推任問題」と呼んでいることも多い。
歴史用語としては比較的新しく、1991年に歴史学者の立花京子氏が勧修寺の残した日記を解読し、それによって判明した三択を「三職推任」と名付けた事に始まった。以来様々な議論がなされている。
背景
散位の信長
織田信長は1573年に足利義昭を京都から追放し、室町幕府に代わる天下人として武家政治のトップに立った。この後、参議→権大納言→内大臣→右大臣、と毎年のように官位を登っていったが、1578年、信長は右大臣を辞任した。この時点で既に、織田家の家督も息子の織田信忠に譲っていた(1575年)。
右大臣を辞した理由については諸説ある。「未完成の統一事業に専念する為には、大臣として朝廷の職務も兼ねるのは負担が大きい」「元右大臣という肩書でも十分に権威がある」「自身ではなく信忠に官位を授けさせることで後継路線を盤石に」といったものから「朝廷と距離を置きたがっていた」という不仲説まで解釈は幅広い。
しかし当主が信忠とはいえ、織田政権のトップは明らかに信長である。日本の政治の頂点に立っている人物が何の官職にもついていないというのは、朝廷としてはちょっと困惑させられる事態だった。
なお信長自身、将軍就任をこれ以前にも勧められていたとも言われる。しかし、天下の平定が完成していないという理由で断ったとされる。右大臣辞任の際にも「天下を平定したら改めて登用に応じたい、官位官職は信忠の方にやってください」とコメントしている。
義昭の衰退
信長自身は当初、信忠を征夷大将軍に任官させようと考えていたようだが、まだその頃は追放された足利義昭の力も無視できず、義昭が辞任を拒否したため頓挫していた。(信忠は秋田城介となるが、鎮守府将軍[1]を目指していたとも考えられている)
だが、時間が経つにつれて亡命した義昭の影響力は衰えていった。本人は征夷大将軍として京都に復帰する野望を諦めていなかったようだが、朝廷の方は日に日に義昭より信長に傾いていった。三職推任の話の時点では義昭追放から10年近くが経っており、三択に将軍が入っている辺りからしても、必要とあらば義昭の将軍職を取り上げて良いだろうという雰囲気だった模様。
幻の左大臣
既に武田信玄も上杉謙信も死去し、織田家の敵は徐々に減っていった。そして1580年、長年抗争を続けてきた大坂の本願寺と和睦が成立する。この影響もあってか、翌1581年に信長を左大臣に就けようという話が持ち上がった。
これに対して信長は、朝廷の長年の悲願[2]だった正親町天皇から皇太子誠仁親王への譲位を行うことを提案、儀式をやり遂げてから左大臣就任を受けると回答した。ところがこの年の譲位は縁起が悪いという事が分かり、譲位も左大臣の話も立ち消えになってしまった。
天下の掌握
信長は1582年3月に武田氏を滅ぼして、東国にまで大きな影響力を及ぼした。北条氏や島津氏など、各地の大大名も恭順の意を示しており、天下統一事業の完成は目前に迫っていた。本能寺の変さえ起こらなければ・・・。
経過
(※日付は旧暦)
3月11日に武田氏が滅亡。戦後処理を終えた信長は4月21日に安土に帰還した。4月23日、勧修寺晴豊が武田討伐を祝う勅使(天皇の使い)として安土を訪問している。
4月25日、京都に戻った勧修寺が村井貞勝の屋敷を訪れる。勧修寺の日記には以下のように書き残されている。
太政大臣か関白か将軍か、御すいにん候て可然候よし被申候
(太政大臣・関白・征夷大将軍のどれかに推任するのが宜しいかと申した)
※註:この部分には主語がなく、勧修寺と村井のどちらの発言なのか分からない
この後この件が朝廷内で話し合われたようで、勧修寺は正親町天皇・誠仁親王の書状を手に、再び安土へ向かうことになった。この時の物と思われる親王の書状は現存しており、そこには「いよいよ天下静謐が実現するとのことで、大変素晴らしい。そこで何かの官位に就いて朝廷を支えてほしい」と書かれている。
5月4日に勧修寺が安土に到着するが、なかなか信長には面会できなかった。そこに小姓の森蘭丸が用件を尋ねてきた。勧修寺の回答は
関東討ち果たされ珍重に候あいだ、将軍になさるべき
(関東をも討ち果たしたので、将軍になってもらおうと)
…とある。勧修寺個人の考えなのか、朝廷全体の結論なのかは不明。ただ、信長はなかなか面会に応じず、返答するのも渋っていたようで、6日にようやく面会・返答を得て勧修寺は京都へ帰還した。
7日には「村井に安土より返事」とある。この辺りから、最終的に信長は何らかの返答をしたと考えられている。
だが、6月2日に本能寺の変が起こり、信長は炎の中に消えた。村井貞勝も奮戦の末に討死した。
ちなみに村井は織田家における京都統治の責任者(京都所司代)、勧修寺は朝廷と武家の取次役(武家伝奏)である。つまり織田家・朝廷の両者が正式な窓口役のルートを通して話し合った案件だった(と考えられている)。勧修寺は1603年に没するが、この件については以後一切書き残していない。
問題点
大きく分けて二つの論点がある。どちらにしても、信長と朝廷の関係を肯定的とみるか、否定的とみるかによってかなり解釈が変わってくる。
この話を持ち出したのは誰か?
立場にあった官職を用意するという対応なのか、はたまた圧力をかけるような形だったのか、やはり両者の関係をどう見るかによって識者の見解もさまざまである。織田家側としても信長の意志なのか、村井が個人的に動いたのかという部分も意見が分かれる。
信長は何と返答したのか?
三択のいずれかという解釈から、それすら拒否という解釈まで。
ちなみに信長自身は死後、太政大臣を追贈されている・・・のだが、追贈が検討される以前から羽柴秀吉が書状の中で信長を「大相国」(太政大臣の事)と呼んでいたり、追贈時に「重ねて任命」と解釈できる文面がある事から、生前に太政大臣を選択していた可能性も指摘されている。
まとめ
三職推任問題の部分だけがピックアップされる事も多いが、それ以前からの信長の官位にまつわる動向や朝廷との関係性も非常に重要。何よりも、信長自身が最終的にどのような統治体制を目指していたのか、という部分がはっきりしていないのが難点で、故に学界でも解釈が大きく分かれている。
関連動画
結論:資料がなさすぎアンドこれからも出てくる見込みもないのでワカラン
関連項目
脚注
- *平安時代に対蝦夷(えみし)の責任者を務めた役職。南北朝時代には北朝側の征夷大将軍・足利尊氏に対抗する形で、南朝側の北畠顕家が鎮守府大将軍に任官された。歴史的にも征夷大将軍と同格扱いされた、数少ない役職である。
- *明治維新以前の天皇家では生前の譲位・上皇による院政が基本だったのだが、戦国時代には朝廷も貧窮していて譲位の儀式の予算も組めず、過去3代100年以上に渡って譲位が実現できていなかった。
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