織田政権単語

オダセイケン

織田政権とは、織田信長安土桃山時代に打ち立てた政権である。

概要

織田政権の成立時期、衰退時期そのものについては諸説あり、確定はしていない。地方政権の段階から数える識者もおり、概要が確定するのはかなり先のことだろう。一説には「安土幕府」とも言われるが、これも呼称については議論がある。以下に成立、衰退時期の諸説を述べると

といったものである。当記事では当時の朝廷織田信長、及び史実のやりとり、識者の見解をを踏まえ、成立を正十年(1582年)の四月下旬、衰退を十三年(1585年)の七月として記述することにする。

前史

詳細は「織田信長」「信長包囲網」「長篠の戦い」などを参照

織田信長は永十一年(1568年)に足利義昭を擁立して上したが、俗に信長包囲網と言われる一連の抗争により、反信長の抗争が化し、その過程で将軍となった足利義昭とも対立。元四年(1573年)にその義昭と戦い、足利義昭から追放した。

この当時、朝廷では既に元号元案が考慮されていたが、足利義昭追放に伴い、朝廷織田信長の交渉、構想をもって元号が「正」へとめられる。形式的にはあくまでも朝廷側の思惑を優先した形ではあったものの、朝廷が武政権の長として織田信長を一層重視する姿勢を取った。

信長に敗れた足利義昭は、当初三好義継、ついで紀伊畠山氏の護を受けるが、正三年(1575年)に反信長の重鎮であった武田勝頼長篠の戦い織田信長に敗れると、同年織田信長右近衛大将を叙任される

右近衛大将の「近衛大将」の唐名が「幕府」であり、源頼朝以来、武政権の正当性及び下政権への登竜門として位置づけられており、室町幕府足利将軍も例外ではなく、足利義昭自身も叙任を欲したが、それが織田信長の叙任と相成ってしまう。以後、信長は「上様」と呼ばれるなど将軍と同等の地位を有した

これに反発したのかは定かではないが、翌年正四年(1576年)に足利義昭中国毛利輝元を頼り、信長包囲網を再び築く。上杉謙信北条氏政武田勝頼を東の要として連携させ、西毛利輝元本願寺顕如松永久秀などを連携させるなど多数勢を抱き込んだ。

が、結局信長を倒すには至らず、正十年(1582年)の段階では北条氏政の離反と信長への臣従、武田勝頼松永久秀の滅亡、毛利輝元本願寺顕如の和企図と和上杉景勝のみが抵抗と反信長連合そのものが前のに追いやられた。

織田信長と朝廷の天下統一(天下人承認と三職推任問題)

織田信長」「信長包囲網」「天下統一」なども参照。

朝廷織田信長の関係については諸説あるものの、今日では較的友好な関係であったことが流とされており、特に朝廷側が、信長足利義昭を擁立していた頃から志賀信長包囲網)の和を受け持つなど、協的な姿勢を打ち出している。信長仁親王の元援助や、御料所の変換など朝廷交渉は重視していた。

正三年(1575年)、朝廷織田信長を権大納言及び右近衛大将に叙任し、信長長男である織田信忠秋田介、信長の次男である織田信雄近衛中将に叙任した朝廷正五年(1577年)にも信長を右大臣に叙任する(以降「織田右府」とも呼ばれる)など、格別の厚遇を与えていた。しかし正六年(1578年)、織田信長は右大臣及び右近衛大将を辞任する

信長の官職辞任については朝廷体制の否定など諸説議論されてきたが、同時期の史料には「安寧四均の時、重ねて登用の勅命に応じ」とあり、織田信長の辞任見解として「未だ天下統一がなされていないこと」「天下統一したその時重ねて勅命に応じ(官位叙任を受け)ること」というのが理由とするのが現在である。

朝廷信長の意をんだかどうかは定かではないが、以降織田信長の外交に朝廷がしばしば介入し、織田信長を中心とする下政権への和、臣従を要するようになる正八年(1580年)前後には信長の意向を受けた朝廷が使者として本願寺顕如島津義久へ趣き、双方を信長下へと組み込むことに貢献している。

正十年(1582年)、武田勝頼を滅ぼした織田信長に対して朝廷四月関白、太政大臣、征夷大将軍の3つを織田信長に提示した。世にいう三職推任問題である。既に前年の正九年(1581年)にも朝廷信長に左大臣を授けようとしたが、同時に正親町天皇の譲位を望んだため、天皇譲位にかかる経済面を考慮した信長が辞退したとも、あるいは信長が左大臣叙任の代わりに正親町天皇の譲位をめ、「譲位できる状況じゃないから左大臣もナシで」と断る方弁にもっていったとも言われている。

この三職推任問題については信長朝廷の融和・対立、あるいは朝廷側の要であったり、信長側の要であったり、信長の返答や構想も含めて現在多くの議論がなされているが、未だ定説はない。返答する前に信長本能寺の変で自したため、信長の構想が不透明のままであったというのが流であった。が、近年では現実的な路線を含めて再考され、織田信長は太政大臣を非公式に叙任されたというのが根強い見解となっている。

これについては多くの根拠があり、太政大臣であった近衛前久が太政大臣を5月に辞任していること、信長の死後太政大臣追贈前に秀吉が「織田大相(大相は太政大臣の唐名)」と呼んでいること、太政大臣の追贈に関して朝廷が「太政大臣」と見解を出したことなどが挙げられている。ちなみに太政大臣は当時下人の名誉職的な意味が強く(詳細は足利義満の記事を参照)、またの棟梁が太政大臣となるのは平清盛足利義満と先例があり、さらにその後の豊臣秀吉徳川家康も太政大臣を叙任されていることも、見解を強くしている。

ともあれ、この時期をもって織田信長天下統一は概ね成し遂げられることとなる。

織田政権の統治機構と内政

織田政権はのちの豊臣政権や徳政権(江戸幕府)にべて非常に短命に終わったため、支配基盤や統治機構に関しては未熟な部分も多い。基本的には中世を踏襲しつつも近世の先駆け要素もあり、と前後政権に通じる要素が多かった。

京都所司代

もともと室町幕府治安維持に置いていたもので、織田信長はこれを踏襲して村井貞勝京都代に置いた。その後貞勝は本能寺の変で戦死し、清会議を経て浅野長政ら3名が短期間の統治を任された後、村井貞勝婿でもあった前田玄以京都代を勤めた。この体制はのちの豊臣政権、徳政権にも受け継がれ、豊臣政権では前述の前田玄以に加え、のちに石田三成増田長盛が加わり、徳政権では奥平信昌板倉勝重などが置かれた。

譜代外様

江戸時代の徳政権における「親藩譜代外様」の概念は、織田政権でもおおよそ見られる。特に信長前の濃尾系の臣が要職、重鎮となることが多かった。羽柴秀吉丹羽長秀池田恒興滝川一益などはその代表例であるとされる。譜代外様の区分については徳政権ほど厳格ではなかったと言われており、婚姻関係を駆使して関係を重視しつつ、外様でもそのを評価して重用することも多かった。

しかし一部の識者達は、織田信長天下統一が近づくに連れて、織田信忠織田信雄織田信孝織田信包などの一門衆や織田信長及び織田信忠との関係が強い有重臣が重用されるようになっていき、一定の溝ができていたともしている。林秀貞神保長住の追放や、荒木村重松永久秀の離反、明智光秀下克上を後期の中央集権化における副産物と捉える識者もいる。(甲州征伐における「下の儀も御与奪」という信長の発言により、織田信忠下の支配をも譲ったという説がある。)

ただし、一門重用は足利幕府の吉良斯波今川、徳幕府の御三家などのように天下統一政権ではよくあることであった。

検地の導入(石高制)

石高制や検地の導入も、織田政権時代にある程度取り入れられていた。ただし後の豊臣政権や徳政権にべると不底な要素が強かった。とはいえ、基盤としては既にこの政権から概ね取り入れられている

商業・統治政策

信長の商業政策といえば楽市楽座が挙げられるが、全てにおいて底したわけではなく、楽市楽座もあれば座の安堵もあり、また座の撤もありと場所や対ごとにやり方を変えている。場所によっては不輸・不入の権なども認めている。また銭を重視し、撰銭や貨幣政策を導入したが、効果の程については諸説ある。

織田信長の勢力版図と政権体制

織田家(主な武将)

については、畿内(摂津近江山城など)、東海美濃、尾、三河など)、甲信(甲斐信濃)、北陸越前加賀など)、中国(播磨、但など)の大部分を領する。このあたりは「本能寺の変」の記事を参照。徳川家康の扱いについては諸説あり、織田政権に組み込まれた説、組み込まれていない(あくまで追従勢とする)説の2つあるが、現在は前者が流になっている。

臣従・傘下・同盟勢力(主な大名領主)

基本的に畿内遠方の勢については、外交関係によって安堵、承認した上で下に加えている。強な支配構造に組み込むわけではないため、本能寺の変以降に変心した勢も存在する

奥州

南部晴政伊達輝宗最上義光蘆名盛隆などが織田信長下に入ったと言われている。ただし南部晴政については異説があり、この時期には既に死没していたとされるなどはっきりしていない部分もある。

関東

御館の乱を経て、北条氏政武田勝頼と断交し、ついで織田信長下に入った。氏政は信長と嫡男氏直の縁組を織田と結んでいたが、実現を見ることはなかった。佐竹義重織田信長との関係を重視し、その下に入ったと言われており、武田勝頼が晩年、織田信長との外交に佐竹義重を頼ろうとしていたと言われている。

東海

徳川家康の織田政権における扱いについて諸説ある。家康は三河、遠江、駿河の大部分を領していた。

畿内

織田信長と和を結んで石山を退去した本願寺顕如は、雑賀衆らによって護された。顕如及び雑賀孫市信長下に入り、ある程度の友好関係が築かれていた。しかし雑賀衆は当時一枚岩ではなく、土橋守重とその一族らによる反織田などが存在していた。

北陸

上杉氏家臣であった新発田重家が離反し、織田信長伊達名氏と結ぶ。新発田重家の領地は現状定かではないが、当時の越後には名氏も介入しており、を中心とした大規模なものであったことは確かである。ちなみに新発田重家織田信長の連携は上を使って行われていたらしい

中国

備前を中心とする宇喜多秀家らが織田信長下に入った中国毛利輝元とは抗争が続いていたが、正十年(1582年)5月に和交渉となり、講和が概ね成立した。ただし、本能寺の変織田信長が自した後は内容が変化した。(特に当初案であった毛利氏の領土割譲は、本寺の結果織田方が大幅譲歩する結果に至る)

四国

讃岐波を領する三好氏は織田信長長宗我部元親圧迫危機存亡となり、織田方へ臣従した。長宗我部氏は条件面での折り合いがつかなかったが、正十年(1582年)五月織田へ恭順する方針となった。が、そのときすでに織田四国討伐軍は出発直前だった(「四国征伐」も参照)。伊予は概ね毛利氏の影下にあったが、秀吉の内応工作が進んでおり、毛利氏自体も和となる。

九州

九州では大友龍造寺島津の三勢を中心に跋扈していたが、大友龍造寺織田と昵懇な関係を築きその下へと入っていた。島津義久織田下に入ることを渋っていたが、自ら昵懇であり、前関白でもある近衛前久の交渉に折れて、織田信長下に入った九州信長下に入る形で、特に大友島津の間に豊が結ばれた。しかし、これらはあくまでも現状安堵にすぎず、本能寺の変混乱大友島津の利対立により徐々に破綻し、秀吉による九州征伐の遠因となる。

織田信長死去と政権衰退

本能寺の変」「山崎の戦い」「賤ヶ岳の戦い」「秀吉包囲網」「四国征伐」「関白相論」なども参照

本能寺の変織田信長織田信忠が自し、山崎の戦い羽柴秀吉らによる信長の敵討ちが成し遂げられ、織田は清会議により三法師こと織田秀信を中心とする新体制を構築した。しかし三法師は当時3歳と幼少であり、しかも基盤はわずかに近江2万石のみであった。織田の体制は織田信雄織田信孝柴田勝家羽柴秀吉丹羽長秀池田恒興徳川家康という7人の一門重鎮に概ね命運が握られることになった。なお正十年(1582年)10月織田信長が正式に太政大臣を追贈された。

しかし、賤ヶ岳の戦いを初めとする織田一門重鎮7人による対立は政権新体制へ大きな致命傷となった。特に当時幼少で子供にすぎない当三法師が問題に対処できなかったのも大きな要因であった。やがて織田政権は政権としての権威を衰退させ、十三年(1585年)、織田重臣である羽柴秀吉関白に就任し、以後秀吉を中心とする豊臣政権が天下統一をより成熟させていくことになる。

織田秀信の勢力版図と政権体制

織田家(主な武将)

本能寺の変とその後の政治混乱により、織田そのものの勢織田の権は大きく弱体化した。織田秀信は当時3歳で領地も2万石しかなく、事実上当たる支配は存在しなかった織田信長織田信忠にかつて属していたりなどは、清会議の後それぞれ織田信雄織田信孝ら重鎮一門にそれぞれ属する。

新体制では概ね3つの勢が出来上がり、織田秀勝羽柴秀吉織田信雄徳川家康織田信孝柴田勝家を中心とする勢構造が、対立結託を変動しつつも三法師を奉じるという状況が出来上がっていた。これらは賤ヶ岳の戦い秀吉包囲網などの内乱に発展する要因となる。信雄家康が臣従し、勝信孝が自、秀勝が病死、さらに丹羽長秀池田恒興が相次いで亡くなることで、羽柴秀吉への権集中が起こり、豊臣政権の礎となる。

本能寺の変により変動した主な勢力

織田家

羽柴秀吉

山崎の戦い信長を討った秀吉だが、強大すぎるその勢を次第に危険視されるようになっていく。あくまで秀吉織田重臣であり、織田秀信を奉じてはいた織田の内乱では中心的な役割を果たし、十三年(1585年)に関白叙任、翌年には豊臣氏を賜る。以後天下統一の成熟は豊臣秀吉豊臣政権に託されたが、君にあたる織田はその政権下において重用された。(「公家成大名」「豊臣」を参照)

織田信雄

織田信長の次男にあたる信雄は、にあたる織田信孝との対立過程で秀吉との結びつきを強めた。賤ヶ岳の戦いの後、信雄は信孝に自を命じ、織田秀信の後見人になったと言われている。この時点では秀吉を信用し、秀吉政治をほぼ任せていたが、やがて諸説あるも対立し、家康と組んで小牧・長久手の戦い秀吉包囲網)を起こす。

織田信孝・柴田勝家

織田信長の三男にあたる信孝は、にあたる織田信雄と対立した。この時柴田勝家との協調具合については諸説あるが、最終的に組んで信雄、秀吉らと争うも、敗れて自する。柴田勝家従来、秀吉と敵対しその排除を企ててていたと言われているが、今日では秀吉との敵対ありきではなく、あくまでも織田の内部における対立ありきとし、さらに秀吉との連携もある程度行われており、賤ヶ岳の戦いはあくまで政情変化によるものとする説がである。

諸侯

徳川家康

織田信長の臣下、ないし同盟者と言われている徳川家康は、本能寺の変の後、上杉景勝北条氏政と争い、織田領の防衛に回った。世にいう午の乱であるが、この行為は織田政権から追認され、家康信濃甲斐の大部分を領した。午の乱で救援、和を行った織田信雄とは昵懇な関係を結んでおり、のちの小牧・長久手の戦い秀吉包囲網)の布石となる

上杉景勝

本能寺の変で九死に一生を得た上杉景勝は、混乱に乗じて各方面に兵を出し、失地回復と勢拡大を試みる。その後、羽柴秀吉と通じて政権と和新発田重家の討伐を試みるようになる。ただ、去就を明確化しておらず、明確化するのは豊臣政権に入ってからのこととなる。

北条氏政

織田信長と昵懇な関係を築きその下に入った北条氏政であったが、本能寺の変後は滝川一益らを攻撃し、午の乱を引き起こした。しかし、徳川家康に阻まれると、織田信雄の仲介で信雄、家康との和を結び、戦線を北関東に向ける。伊達輝宗とも同盟を結んだ北条氏の関東における軍事行動は、反北条氏側である佐竹義重らを刺し、反北条氏と秀吉が積極的に外交を行う事態となり、秀吉家康の対立の遠因となった。

長宗我部元親

織田に恭順を示した元親であったが、信長が死去するとの上の瘤である三好氏を攻撃する。三好氏を護する秀吉とも対立し、元親は織田信孝、ついで織田信雄に恭順した。秀吉正十二年(1584年)の四国介入をしたが、小牧・長久手の戦い秀吉包囲網)によってその計画は立ち消えとなる。

島津義久

もともと信長への臣従も不承不承であった島津氏は、本能寺の変を契機として軍事活動を再開する。龍造寺隆信沖田畷の戦いで撃破、戦死させると、大友氏との戦いでも優位にたった。事実信長の方針である豊は崩れ、劣勢であった大友宗麟が中央政権へ事態の回復を何度も請願していた。島津義久はあくまでも強行な姿勢をし、これが豊臣政権における九州征伐の要因となる。

蘆名盛隆

中央政権の影減少に伴い、新発田重家への援助を徐々に減少させる。その後正十二年(1584年)に不慮の死を遂げ、後継当には生後1ヶ王丸が継いだ。なおその一年後には隣伊達督を継いだ伊達政宗との抗争が始まることとなる。

政権終焉とその後の織田家

豊臣秀吉、ついで徳川家康天下統一政権を打ち立てると、前政権の織田は一定の影を有しながらも、その下へと入った。織田秀信豊臣政権下では重用されたが、関ヶ原の戦いで西軍に属して易。織田信雄大坂の陣の後に大名復帰となり、徳政権を全うした。織田信包織田長益豊臣、徳政権を安堵されたが、江戸時代中期頃に血統が断絶している。

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織田政権

1 ななしのよっしん
2017/02/03(金) 19:04:57 ID: ZiPLHW10tO
参考文献とか書かないの?
それともただの独自研究で参考文献とかはなし?
2 ななしのよっしん
2017/02/04(土) 13:10:20 ID: gYPdG/fHRN
基本的にはwikipediaの記述に準じておりますが
一部は確かに文献や史料などを参考にさせていただきました
3 ななしのよっしん
2017/02/04(土) 13:35:48 ID: YNVB2P6GYL
識者の見解とか、根強い見解である、○○とするのが現在流である、とかの表現多用されても
「えーっと・・・そうなの?」ってピンと来なかったりするからね
4 ななしのよっしん
2017/02/04(土) 23:58:16 ID: gYPdG/fHRN
根強いかどうかってのは、あくまでかどうかってのを表現するために使っています。
かどうかってのは、端的に言えば「その説を支持する学者、識者がどれだけいるか」という安だと思ってください。
例えば本能寺の変明智光秀の動機、いかにも正しい説と思われる説もあれば
突拍子もない説も含めて数にあります。
http://dic.nicovideo.jp/a/%E6%98%8E%E6%99%BA%E5%85%89%E7%A7%80#h2-2

そういうのを区別するための表現と思ってくださると幸いです
5 ななしのよっしん
2017/02/11(土) 13:15:12 ID: YNVB2P6GYL
この記事を疑ってかかるわけじゃなく、一般論としての話

識者とか専門とかの意見が実際どれくらい流なのかって、一般人にはやっぱり直接は分からないんだよね。だから変な話、ちょっとマイナー気味な分野について「これが流なのだ」ってあんまりしすぎると、ときに胡散臭くなっちゃうこともあるんだよね
「それが流と判定したのはお前じゃね?」って思う人も出てくるかもしれないし

だから出典や参考文献を記事に関連商品で貼りつけるとか、表現をやんわりさせるとか、そういう工夫もアリかなと思う
6 ななしのよっしん
2017/02/13(月) 19:43:08 ID: gYPdG/fHRN
いや、流だから必ず正しいということはないですし、亜流だからこれは間違いだというのも違いますからね。
この説が流という説明に、例えば100%これが正しいという立はないですし、
あるいは今後史料研究などで、流と亜流が覆ることも当然あります。
というか、特に戦国時代はこれがやたら多いです。30年くらい遡ると当時の定説は
今や定説(笑)になってるものもありますから。