村井貞勝(むらい・さだかつ ? ~ 1582)とは、織田信長に仕えた戦国武将である。
概要
織田政権を支えたスーパー官房長官。官位は長門守。出家後は春長軒と号する。
一応、戦国武将としたが戦場での活動はほぼ皆無。織田信長に早くから仕え、その重臣として政務を担当した。信長の上洛後は京都統治の責任者となり、信長の地位が急上昇していくのと同時に拡大する織田政権の行政機構を支え上げた。
彼が京都で朝廷や寺社(さらに当初は室町幕府も)を初めとする既存諸勢力との取り次ぎや関係維持に努めたことは、信長の地位を安定させると同時に、信長が京都を長期間離れて各地に出陣することの助けにもなったと言えるだろう。
本能寺の変が起こると、二条御所の織田信忠のもとに駆けつけ奮戦するが、討死。
生涯
近江の生まれとされるが、詳しい生年などは不明。そして尾張へ渡って織田家に仕える事になった経緯も全く不明だが、信長の家督継承(1551年)から間もない織田信勝の謀反(1556年)の時点で既に信長に仕えている。しかも信勝との和睦交渉を担当するなど、政治能力の高さを早くも発揮していた。美濃攻めでは西美濃三人衆の調略にも携わっている。
足利義昭を擁した信長の上洛にも同行し、そのまま京都に置かれることになった。義昭の邸となる二条御所の建築、ボロボロになっていた禁裏の修復などを担当。
他にも京都で政務にあたっている織田家臣や幕府関係者は何人かいるが、特に著名なのは貞勝のほか、朝山日乗、細川藤孝、そして・・・明智光秀といった面々が挙げられる。
1573年、足利義昭は京都を追放されて室町幕府は滅亡する。この後貞勝は信長から「京都所司代」に任じられ、京都における織田の責任者となる。その役割は幅広く、治安維持から朝廷や寺社との交渉(およびそれらを岐阜・安土の信長に伝達)、他大名家からの使者の接待、建物の修復造営など・・・・・・ほぼ丸投げである。
京都周辺での軍務を任されることの多かった明智光秀とは引き続き縁があった。ほか、幕府崩壊後の織田政権の吏僚としては松井友閑(堺代官)や武井夕庵(右筆)がいる。
- ちなみに「所司代」というのは室町幕府の侍所のトップである「所司」の代理、といった意味合い。侍所所司は京都周辺の治安維持の責任者として山名・赤松といった名門大名が就いた職だが、貞勝の役割はそれ以上に広かった。そのおかげで、公家や僧侶などとの太いパイプを構築していった。
信長の京都での邸となる二条新御所(義昭の御所とは別)や本能寺の普請も担当した。いろいろフラグ臭がひどい。
有名なエピソードとしては、禁裏の塀の修理を一大イベントに仕立て上げ、見物客が集まる中で職人たちが腕を競い合った結果、超スピードで工事が完了したという話がある。正親町天皇まで見に来ていたというのだから、相当な盛り上がりだったことは想像に難くない。
新参者でありながら、仕事は正確、頭も回りコミュ力も高く、信長の期待する内容をしっかり実現してみせる実力の持ち主。戦場での武功とは違うのでやや地味ながら、信長好みの人材だったと思われる。彼を「京都の総督」と呼んだルイス・フロイス曰く「異教徒だが尊敬に値する老人」とのこと。
- 特に禁裏の修復を初めとした朝廷へのサポートに関しては、信長は足利義昭に「これ大事だからね! しっかりやってくださいよ!?」と口をすっぱくして言っていたのだが、無視された過去があったりする。この辺り、義昭追放後に信長はあれこれと指示を出しており、貞勝たちはその実現に奔走した。
本能寺の変
だが、1582年6月2日、明智光秀が突如謀反を起こして京都へと襲い掛かった。本能寺の変である。邸から状況を把握するも、本能寺は既に包囲・炎上し近づけない。まさか自分が普請した、堀で囲んだ強固な作りのせいで自分が近づけないとは・・・。
貞勝は二人の息子と共に、織田信忠の宿泊する妙覚寺へと移動。ちょうど本能寺へ駆けようとしていた信忠を間に合わないと制止し、妙覚寺は守りに向いていないので隣の二条新御所へ移るべきと進言(この時、御所は皇太子誠仁親王の邸だった)。明智勢に対して誠仁親王の脱出を交渉したのも貞勝である。
包囲された新御所で他の家臣たちと共に果敢に戦ったが、二人の息子や弟と共に討死した。信長の覇業を支え続け、彼と共に世を去った。
子孫・その後
上述の通り、長男・村井貞成、次男・村井清次、弟・村井宗信もことごとく討死した。貞勝の京都政務を支える村井一門として貞成や宗信はたびたび登場しており、貞成は前年に村井家の家督を譲られたばかりだった。子孫は伝わっていない。ちなみに史料上での清次の出番はここが最初で最後である。
ほかに一門衆として村井清三という人物もいるが詳細な関係は不明。彼だけは変に巻き込まれず生き残り、山崎の戦いの直後までは動向が確認できるのだが、その後は消息不明。
それともう一人、かなり謎の多い人物として養子・村井重勝がいる。彼は実は織田信長の庶長子であり、別名は織田信正。実父信長と養父貞勝を弔うため、京都左京区に見性寺を建立したとされる。その後、橘姓原田氏に名字を改め、その子孫は地下家(昇殿できない下級の公家)として存続した。1554~1647、享年94。
・・・というのだが、当時の史料にはその名は全く見出せない。そして彼・息子・孫と3代そろって90近くまで生きている。おそらく原田家が系図をいじって重勝(あるいは信長)に繋げたのではないかと推測されている。なお重勝(信正)の母親は塙直政(原田直政)の妹とされ、これが原田を名乗った根拠のようだ。
「京都所司代」の役職はその後の豊臣政権・江戸幕府へも受け継がれていく。
余談
村井貞勝の邸は現在の本能寺のすぐ近くにあった。が、当時の本能寺は位置が異なるので、決して真向かいで本能寺が絶賛大炎上しているのに妙覚寺に行った訳ではない。
補足
皆勤賞とおもいきや武将風雲録は欠席(リメイク版で登場)。なんといってもこの政治オバケ。彼一人がいるだけで内政が格段に楽になる。織田家の人材力恐るべしである。活動期間の長さもありがたい。
彼が生きてれば、その後の織田家でのプレイが楽になるのに・・・(笑)
軍事能力 | 内政能力 | |||||||||||||||
戦国群雄伝(S2) | 戦闘 | 28 | 政治 | 62 | 魅力 | 52 | 野望 | 43 | ||||||||
武将風雲録(註) | 戦闘 | 13 | 政治 | 94 | 魅力 | 91 | 野望 | 75 | 教養 | 83 | ||||||
覇王伝 | 采配 | 14 | 戦闘 | 20 | 智謀 | 23 | 政治 | 68 | 野望 | 52 | ||||||
天翔記 | 戦才 | 60(C) | 智才 | 138(B) | 政才 | 164(A) | 魅力 | 65 | 野望 | 42 | ||||||
将星録 | 戦闘 | 22 | 智謀 | 81 | 政治 | 89 | ||||||||||
烈風伝 | 采配 | 13 | 戦闘 | 7 | 智謀 | 67 | 政治 | 88 | ||||||||
嵐世記 | 采配 | 13 | 智謀 | 69 | 政治 | 86 | 野望 | 22 | ||||||||
蒼天録 | 統率 | 13 | 知略 | 72 | 政治 | 88 | ||||||||||
天下創世 | 統率 | 13 | 知略 | 69 | 政治 | 88 | 教養 | 76 | ||||||||
革新 | 統率 | 15 | 武勇 | 10 | 知略 | 77 | 政治 | 98 | ||||||||
天道 | 統率 | 15 | 武勇 | 10 | 知略 | 77 | 政治 | 98 | ||||||||
創造 | 統率 | 24 | 武勇 | 30 | 知略 | 75 | 政治 | 91 | ||||||||
戦国立志伝 | 統率 | 24 | 武勇 | 30 | 知略 | 75 | 政治 | 91 | ||||||||
大志 | 統率 | 28 | 武勇 | 31 | 知略 | 74 | 内政 | 90 | 外政 | 95 |
関連項目
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