中野栄治(なかの えいじ)とは、元JRA騎手、現調教師のことである。
経歴
デビューまで
1953年3月11日生まれ。大分県で生まれその後東京都へ引っ越している。
父が地方競馬の騎手・調教師として活動している家庭に生まれ、中野が2~3歳頃に大井競馬で厩舎を構えていた。
そういった家庭環境で育ったこともあり幼少期から馬に触れ合っていた。中学時代には調教を手伝うようになり、早朝2時から数頭の馬を調教した後、学校に通うという生活を送っていた。事情を知っている教師は、授業中に居眠りしてもそのまま寝かしてくれる事もあったという。
進路を考える時期になり中野は大井で騎手になるつもりでいたが、父から「お前は中央へ行け」と言われ反論できず、1968年、東京の荒木静雄厩舎に弟子入り。
弟子入りから3年が経った1971年、騎手試験に合格しデビューが決まった。デビュー当初の目標は当時の目標は「日本ダービーで1番人気の馬に乗って勝つ」こと。同期には南井克巳がいた。
デビュー後
1971年3月6日、中山 1R 4歳未勝利戦にて アカネヤシマに騎乗し7着。1ヶ月後の11戦目、4月4日の 中山 2R 4歳以上100万下 一番人気のダイニトウリュウで初勝利。この年は9勝を挙げた。
2年目の1972年には23勝と勝ち星を伸ばし、以降の年は毎年20勝前後の成績を残す。
1976年、きさらぎ賞をスプリットスワプスで勝利し重賞初制覇。
1981年、所属厩舎を離れフリーとなり、キャリアハイとなる27勝を挙げる。だが、この年より太りやすい体質が災いし減量に苦しむようになり成績も伸び悩む。
アイネスフウジンとの出会い~騎手引退
1989年夏には小倉滞在中に交通事故を起こし、その際、前日に飲んだ酒が完全には抜けきっておらず酒気帯び運転として処罰を受けた。
この件がマスコミにも知れ渡り、一部ではデマ情報も交えて報じられたため中野の信頼は失墜。騎乗停止処分を受け美浦トレセンで手持ち無沙汰にしていたところ、加藤修甫調教師から「ダービー獲ってみたいだろ。ウチの馬に乗ってみないか」と声をかけられ承諾。このときの馬がアイネスフウジンであった。
この年の年末、朝日杯3歳ステークスにアイネスフウジンとともに挑み、マルゼンスキーの記録したレコードタイムを更新する 1:34.4 でレコード勝ちしGⅠ初制覇。この勝利は中野だけでなく加藤調教師にとっても初のGⅠ勝利であった。
翌年1990年、アイネスフウジンと挑んだクラシック戦線。共同通信杯は快勝したものの、弥生賞4着、一冠目の皐月賞2着と連敗を喫する。一部のマスコミからは「中野を降ろせ」と厳しい声が上がったものの、加藤師は「中野は替えない」と宣言。中野には「ダービーは絶対勝とうな」と一言だけ声をかけダービーの手綱を託した。
迎えた日本ダービー、事前の取材では「アイネスフウジンを一番人気にして下さい。」とお願いしていたものの、前走の負けから3番人気にとどまった。
レースでは、出負けこそしたもののその後は完璧なレース運びで逃げ切り勝ちを収めレコード勝ち。従来のレコードタイムを1秒更新する快勝っぷりで中野は念願だったダービージョッキーとなった。
ゴール直後、中野は1年前の自暴自棄だった自分に対し「ざまぁみろ!」と叫び引き上げた。そして日本競馬史上最多の観客動員数19万6517人から自然発生的に「ナ・カ・ノ!ナ・カ・ノ!」と大喝采を浴びた。この『中野コール』は「競馬がスポーツに変わった瞬間」と言われており、以降のGⅠレースでの勝ち馬や騎手に対し称賛するコールはこのレースが発祥とも言われている。
その後、アイネスフウジンが故障で引退。中野も減量苦から再び低迷、年間0勝の年もあるなど苦しんだ。
調教師として
1996年厩舎を開業。
2001年、トロットスターで高松宮記念・スプリンターズステークスを勝利し、この年最優秀短距離馬にも選出された。
その後なかなか重賞を勝てなかったものの、2015年にノットフォーマルでフェアリーステークスを勝利し14年ぶりに重賞制覇。
人物・エピソード
父に倣って身につけた当時としては珍しいスマートな姿勢での騎乗で馬を操る姿が特徴的。
若手時代は端正な顔立ちから「競馬界の郷ひろみ」と呼ばれることもあった。
GⅠ級勝鞍
東京優駿 | アイネスフウジン(1990年) |
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朝日杯3歳ステークス | アイネスフウジン(1989年) |
関連動画
関連項目
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