伊37とは、大日本帝國海軍が建造した伊15型/巡潜乙型潜水艦18番艦である。1943年3月10日竣工。インド洋での通商破壊で7隻の連合軍船舶(4万7942トン)を撃沈し、撃沈トン数では第5位を誇る。内地帰投後は回天母艦に改装されたが、1944年11月19日に撃沈。
艦歴
1939年に策定された海軍軍備充実計画(通称マル四)にて、乙型一等潜水艦第144号の仮称で建造が決定。当初の艦名は伊49であった。1939年12月6日に横須賀海軍工廠で起工。1941年3月13日に進水し、11月1日に伊37に改名、そして開戦後の1943年3月10日に竣工を果たした。初代艦長に大谷清教中佐するとともに呉潜水戦隊へ編入される。
1943年3月13日に伊予灘で試験潜航を行った後、3月22日に呉潜水隊要員による検査を受け、3月26日より伊38、呂104、呂105と魚雷発射訓練を開始する。4月1日、第1艦隊下に訓練専門の第11水雷戦隊を結成して編入される。翌2日、格納式短波アンテナ修理のため呉に回航されて入渠修理に従事し、22号電探を装備。5月に入ると運貨筒の牽引試験に参加。訓練を終えた伊37は5月23日に第6艦隊第8潜水戦隊第14潜水隊へ転属。インド洋方面で通商破壊を行うべく、5月25日に呉を出港。6月4日に出撃拠点のペナン基地に到着した。伊37の到着により第8潜水戦隊の実働兵力は5隻となった。
6月8日、ペナンを出撃。チャゴス諸島からペルシャ湾までの広大な海域を狩り場に定め、最初の通商破壊に臨む。6月16日、チャゴス諸島南東沖でイランのアバダンへ向かっているイーグル・オイル社所属の英貨物船サン・エルネスト(8078トン)を捕捉。雷撃により乗組員を脱出させるが、サン・エルネストは思いのほか堅牢な船で水上砲撃を加えても仕留められなかった。だが無人となったサン・エルネストは漂流し、28日もの漂流を経て座礁。全損判定を受けた。6月19日18時50分、モルディブ南西沖で米リバティ船ヘンリー・ノックス(7176トン)に1本の魚雷を撃ち込み、爆発物が誘爆して一気に大破炎上状態と化す。19時7分、乗組員は船を放棄。22時頃に船尾から沈没していった。積み荷はレンドリースでソ連に渡される戦闘機、戦車、爆発物などの物資8200トンであり、全て失われた。爆発の炎とサメの襲撃により船員25名が死亡。浮上した伊37は生存者を尋問し、周辺を航行する敵船舶の情報を聞き出した。また彼らが持っていた地図、食糧、衣服、懐中電灯等を没収し、代わりに伊37乗員の私物やマッチ、酒を渡した。7月9日にペルシャ湾を偵察して帰路につき、8月17日にペナンへ帰投。シンガポールに回航されて整備を受ける。次の出撃のため9月5日にシンガポールを出港し、ペナンに回航。2回目の通商破壊に従事するが、ペナンを出港した直後に乗組員の1人が虫垂炎を発症。すぐにペナンへ引き返した。
9月20日、ペナンを出港して南アフリカ南東のモザンビーク海峡へ進出。10月11日にディエゴスアイレスを航空偵察し、警戒が厳重であると報告した。続いて10月17日にモンハザ地区を航空偵察した。10月23日、マダガスカル島北西沖でギリシャ商船ファネロメニ(3404トン)を雷撃で撃沈。11月4日朝、ペンバ島南東沖でノルウェー貨物船エルボーグに向けて1本の魚雷を発射したが、命中せず。翌5日午後にも雷撃を仕掛けたが、命中しなかった。11月17日、英東洋艦隊の臨時本拠地となっているキンディンディニ港を航空偵察。11月27日午後12時40分、アッドゥ環礁南西沖で船団から落伍中のノルウェー貨物船スコティア(9972トン)を雷撃し、魚雷1本を右舷船尾に命中させて大破させる。スコティアは最後の抵抗で遭難信号を放ったが、午後12時55分頃に再度右舷に魚雷をぶち込まれて船尾から沈没。積み荷のディーゼル燃料は海に飲まれた。浮上した伊37は救命艇に機銃掃射を加えて軍人と船員8名を殺害した後、カール・ヒャルマール・ハンセン船長を捕虜とした。この銃撃はドイツ側から人的被害を与えてほしいとの要請があったためとされている。12月5日、ペナンに帰投。12月13日にシンガポールへ移動して整備を受けた。12月15日、第14潜水隊の解隊に伴って第8潜水戦隊直属となる。12月27日、二代目艦長に中川肇中佐が着任。この中川艦長は伊177艦長時代に病院船ケンタウロスを撃沈したやべーやつであり、伊37に着任してからもそれは変わらなかった…。
1944年
1944年1月12日にシンガポールを発ち、ペナンに進出。2月上旬に大規模な人事異動があり、乗組員の大半が入れ替わった。出撃前、中川艦長は連合軍潜水艦が行った日本人乗組員の虐殺に対して報復を進言し、第8潜水戦隊に認められた。
2月10日、マダガスカル方面で通商破壊を行うべく出撃。2月14日午前0時30分、セイロン島南方で敵船舶を発見して約30分間追跡を行ったが、ついに振り切られた。2月15日午前10時30分、アッドゥ環礁南西でアバダンに向かっている英貨物船ブリティッシュ・シバルリー(7118トン)を雷撃し、2本の魚雷を右舷に命中させて航行不能に追いやる。放棄されたブリティッシュ・シルバリーに向けて17発の砲弾を撃ち込み、撃沈した。救命艇で脱出した将校の1人が合図を送ると、伊37はボートに一列に並ぶよう指示。通訳の軍医がボートに乗り移って生存者を尋問し、ウォルター・ヒル船長を捕虜にして撮影。サファイアとダイヤモンドが約50個入ったケースを押収した。その後、中川艦長は銃撃を命じ、救命艇を25mm対空機銃で掃射して13名のイギリス人船員が死亡。5名が負傷した。
2月26日20時30分、ディエゴ・ガルシア島西方で英商船サトレジ(5189トン)を発見。距離2000mから2本の魚雷を発射し、1本が命中して4分以内に沈没。浮上した生存者を探照灯で照らして尋問を行い、機銃掃射を加えて41名の船員と9名の軍人を殺害。2月29日午前11時30分、ディエゴスアイレス北西800海里にて英武装貨物船アスコット(7005トン)に2本の魚雷を発射し、1本が機関室に命中。船員は船を放棄して脱出した。伊37は漂流中の生存者に船長と幹部の所在を問うたところ、「全員戦死」と嘘をつかれたため警告射撃をし、船長ジェームズ・フォーセット・トラヴィス大尉を名乗り出させた。船長は捕虜となり、伊37は救命艇を銃撃して生存者45名を殺害した。船長も中川艦長に斬りつけられ、海に放り出されている。生き残ったのは4人の船員と7人の砲手だけだった。3月3日、チャゴス諸島を航空偵察。3月9日23時、コロンボからケープタウンに向かっていたインド船籍のジャンク船を発見して停船させる。乗客は約100人の女性と子供であり、特に怪しいところも見受けられなかったので見逃した。
3月14日17時頃、ディエゴスアイレス北東沖を潜航していた伊37は駆逐艦の推進音を聴音する。この後にディエゴスアイレスを航空偵察する予定だったため、中川艦長の判断により駆逐艦への攻撃は中止された。翌15日の日没後、伊37から零式小型水上偵察機が発進し、レッチェを航空偵察。空母1隻、重巡洋艦2隻、駆逐艦3隻の在泊を報告した。水偵を収容後、モンバサ方面に移動。3月18日、22日、4月1日に敵輸送船を発見するが、位置の露呈を防ぐため素通りさせた。4月5日午後、ペンバ島東方50海里に到達。しかし悪天候に阻まれて艦載機の発進ができず、待機を強いられる。天候は悪化の一途を辿ったが、4月7日に悪天候の中でペンバ島とモンバサを強行偵察。港内に停泊している60隻以上の商船を確認して報告した。この偵察を最後に伊37は帰路につき、4月10日にセイロン南方5海里を通過し、4月20日午前4時30分にペナン入港。インド洋で通商破壊している伊37の様子は国策映画「轟沈」にも使われた。
4月27日午前5時、零式小型水偵の上空援護を受けながら出港し、シンガポールに向かう。ところが道中の4月29日午前8時、ペナン南方20海里でB-24が敷設した機雷が左舷艦首前方100m付近で爆発。左舷メインバラストタンク排水弁2ヵ所を損傷し、敵襲を警戒して深度17mの海底まで沈降する。事前に発艦していた零式小型水上偵察機が司令部に通報した事で救難艇が派遣され、正午に伊37から出された位置通報信号灯のもとに到着して電源を接続。艦内の排水作業を行って、16時に浮上成功。4月30日午前2時にペナンへ戻った。5月3日、潜水夫による調査を行ったところ、トリムタンクの破損が確認されるなど想像以上に損傷具合が酷いとしてシンガポールでの修理が決定。同日午前10時、駆潜艇の護衛を受けて出発し、5月5日午前10時にシンガポールに入港。セレター軍港での調査で修理に3ヵ月を要すると見積もられた。5月10日、三代目艦長の河野昌通中佐が着任。ちなみに中川艦長は漂流者に対する銃撃で戦後横浜裁判にかけられ、8年の重労働を受けている。7月21日、スマトラ島リンガ泊地に出張。午前9時から13時まで第2艦隊の対潜訓練に協力した。8月5日、第8潜水戦隊司令部から呉への帰投命令を受ける。その際に閉鎖されたペナン水上機基地の搭乗員も便乗させる事になった。内地では物資が不足しているので、積めるだけの燃料と弾薬を積み込んだ。8月9日、ペナンから引き揚げてきた搭乗員20名が乗艦。
8月10日午前5時、シンガポールを出港。2時間後、軍港を見張っている敵潜水艦を警戒して戦闘配置が命じられた。8月16日、敵潜が5~6隻潜んでいるとされる魔のバシー海峡へ差し掛かり、1時間潜航・30分浮上航行を繰り返して丸一日かけて海峡を突破。以降も敵のレーダーを警戒して昼間のみ水上航行を行うなど、厳重に厳重を重ねて本土を目指した。そして8月23日午前4時に豊後水道へ到達。8月25日、佐世保に回航されて回天を搭載するための改装工事に着手する。カタパルト、格納筒、甲板砲が取り外され、4基の回天を搭載できるように。9月12日、第15潜水隊に転属。10月11日、四代目艦長の神本信雄中佐が着任。伊37は第一次玄作戦への参加が命じられ、台湾沖航空戦やレイテ沖海戦で内地所在の潜水艦が次々に出撃していく中、回天母艦としての出撃準備を進めた。
11月8日、呉を出港して大津島に回航し、回天4基と搭乗員4名を積載。伊36や伊47と回天特別攻撃隊菊水隊を結成して大津島を出撃する。伊37はパラオ諸島のコッソル水道を攻撃目標に定め、外洋に出た後にウルシーへ向かう2隻と別れた。そしてこの行動を最後に伊37は消息を絶った。
最期
11月19日午前8時58分、コッソル水道の西口で防潜網の展張作業をしていた設網艦ウィンターベリーは2000m先に浮上した大型潜水艦を発見。この潜水艦こそ伊37であり、20秒後に急速潜航。ウィンターベリーは特務機動掃海艇YMS-33に通報し、現場へ急行したYMS-33が伊37を捜索したが発見できず。午前9時15分、護衛駆逐艦コンクリンとマッコイ・レイノルズが対潜掃討を命じられて出撃。ペリリューから対潜哨戒も飛来して必殺の構えで臨む。15時4分、コンクリンのソナーにより伊37の位置が特定されてしまう。15時39分にレイノルズが2回ヘッジホッグ攻撃を行うも手応えは無く、伊37を見失う。だが間もなくコンクリンが再度捕捉し、16時15分にヘッジホッグを発射。25秒後に小さな爆発音が聞こえた。今度はレイノルズが爆雷投下をしようとした17時1分、右舷側に巨大な水中爆発が発生。以降は潜水艦の反応は無かった。爆発した場所には油膜と破片が広がっていたが、破片が細かく切断されており、通常の撃沈ではありえない事から艦内部からの自爆ではないかと推測された。乗組員117名、回天搭乗員4名、整備員4名全員が死亡。
帝國海軍は1944年12月6日にパラオ方面で亡失と判断。1945年3月10日に除籍された。
関連項目
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