「周恩来」(1898年3月5日~1976年1月8日)とは、中華人民共和国の政治家である。毛沢東指導下の中華人民共和国において26年余り、首相を務めてその体制を補佐した。
日本語読みは「しゅうおんらい」。標準中国語では「周恩來」と表記され、読みは”Zhou Enlai”(ヂョォゥ エンライ)。大半の英語表記はピンインに基づく”Zhou Enlai”
生涯
若年期
1898年、江蘇省准安の官僚の家系に生まれる。家譜によれば北宋時代の学者、周敦颐の子孫であったという。
1917年、日本に留学し、明治大学などに在籍したが、日本語の習熟度が今ひとつであり、当時の成績は振るわなかったとされる。しかしこの時期に日本の文化に直に触れたことが、後の知日家としてのベースを築く。また、日本留学時代に河上肇の著書で共産主義を知った。
1920年、フランスに留学し共産党に加入、当時の中国共産党フランス支部には鄧小平、陳毅、朱徳など後の中国共産党の大物たちが在籍しており、大きな所縁を得る。
1924年、モスクワの命令で中国に帰国し国共合作で作られた黄埔軍官学校政治部副主任に就任する。ちなみにこの時の校長は蒋介石で、面接官には毛沢東がいた。
毛沢東の右腕に
しかし、やがて共産党から国民党への干渉に我慢ならなかった蒋介石と決裂。周恩来は上海で大規模な労働者の反乱を扇動したものの、蒋介石に鎮圧され逮捕されてしまい、あわや処刑される寸前という所で脱走に成功する。以後も各地の蜂起に参加したが、大軍閥となった蒋介石には勝てず、地下活動を余儀なくされる。
1931年に毛沢東が瑞金に建国した中華ソビエト共和国においては軍事委員副主席というポストに就任したが、この中華ソビエトは国民党軍の攻撃によって追い詰められ、瑞金を放棄して新たな根拠地を目指す放浪を始める(いわゆる長征)。
その長征において周恩来は権力闘争によってソビエト留学生グループを失脚に追い込み、一時は党の最高軍事指導者にまで上り詰めたが、周恩来がアメーバ赤痢になどに苦しみ十分な指導が敷けぬ間に地盤を固めた毛沢東に軍権は奪い取られていった。しかし以後は強引に復権を狙うこともなく、忠実な毛沢東の右腕として振る舞うこととなる。
西安事件、日中戦争へ
周恩来が一躍、名を挙げた出来事が1937年の西安事件である。この事件で張学良(張作霖の長男)は蒋介石を拉致監禁して「内戦の停戦」を含む8ヶ条を飲ませようとしたが、蒋介石は恫喝に不快感を持ち全く取り合わなかった。しかし、周恩来が西安入りして一晩かけて熱心に説き伏せた結果、一転して蒋介石は8ヶ条すべてを飲み、来るべき大日本帝国の脅威に備えて国民党が共産党と「抗日一致」するという合意を取り付け、第二次国共合作の締結に漕ぎ着けた。
盧溝橋事件後、日本との開戦に慎重であった蒋介石に対しても周恩来は強硬に排日を訴えて日中戦争を始めさせた。これは日本と国民党を開戦状態に持ち込み、その間に中国共産党が力を蓄え、いずれは中国大陸を制覇するという毛沢東の方針を忠実になぞっている。
日中戦争中は戦局が悪化しても国共合作維持のために重慶に留まり続け、国民党と共産党、そして色々と口を挟んでくるソビエトとの調整に腐心し、この難しい責務を終戦まで全うした。
終戦後は国民党と「双十協定」を結んで戦後秩序の安定を図ったが、もはや共通敵の日本を失った状況では成り立たず、破綻。これにより第二次国共内戦が勃発したが、8年に及ぶ戦争で疲弊した国民党軍を軍備を大幅に増強し実戦を重ねた共産党の八路軍が破ってこれに勝利し、蒋介石を台湾に追放した。
中華人民共和国首相
中国大陸を制覇した毛沢東率いる中国共産党は1949年に中華人民共和国の建国を宣言。周恩来は国務院総理(首相)と外交部長を兼任し、共和国の実務と外交を担う重要なポストを与えられる。
蒋介石率いる中華民国が変わらず国連に席を持っている中で、中華人民共和国の承認はなかなか進まなかったが、周恩来は非同盟運動に共鳴して反帝国主義・反植民地主義を掲げ、独立して間もないアジア・中東・アフリカ諸国を回って友好関係を構築し、承認をしてくれる国家を次々と増やしていった。
周の手広い外交の成果は1971年には国連総会において台湾の中華民国を追放し、代わりに中華人民共和国が常任理事国に成り代わるという決議(俗に言うアルバニア決議)を国連加盟国の賛成多数(西側常任理事国であるフランスやイギリス含む)で可決させる事に成功し、「中国代表権問題」を決着に導くに至った。
1972年にはアルバニア決議において反対票を投じたアメリカ、及び日本とも交渉を開始。アメリカからは台湾からの米軍撤退、武力による台湾による大陸の武力奪回禁止を引き出し、日本からも先の戦争の謝罪と反省、戦争状態の正式な終結を引き出したかわりに一切の賠償の請求を放棄して国交正常化に至った。また、関係改善と引き換えに中華人民共和国こそが中国の正当な政府であることを認めるように迫り、日米両国ともに中華民国との国交を破棄させた。
晩年
70年台の中国国内では毛沢東が主導した文化大革命によって党内の勢力バランスが目まぐるしく変化し、周恩来も党内から攻撃を受ける事もあったが、失脚することはなかった。
周恩来は文革後期から国内経済の再建を任されたが、ここで文革初期に失脚していた鄧小平・胡耀邦・趙紫陽・李先念らを復権させ、文革で疲弊した中国の再建を担える人材を政務の表舞台に多く引き戻している。
1976年1月8日に膀胱がんで死去。享年77。老い先短くなった毛沢東は周より先に死ぬのをひどく恐れていて、周のがん治療を妨害していたとも言われている。
評価
中華人民共和国の建国から非常に不安定な時期に共和国の外交政策を常に主導し、最終的には中華民国を放逐して、国連において拒否権を有する常任理事国にまでその地位を押し上げた手腕は現在に置いても国内外で評価が高い。
折衝や交渉事におけるスペシャリストであり、対立をしている立場の相手でも柔和な人柄やウィットに富んだ話術で警戒を解かせ、交渉を優位に持ち込む事を得意としていた。特に西安事件では殺気立つ蒋介石を相手に笑顔で「お久しぶりです校長」と話しかけて気勢を削ぎ、熱心な説得によって共産党殲滅に並々ならぬ執念を燃やしていた蒋介石を説き伏せている。
また、情に流されず先見を見据えて動く事ができる人物であり、日中戦争後に捕縛した大量の日本人捕虜に対してあえて寛大な処置で多くの戦犯を助命した。これについては国内からも厳罰を求め突き上げがあったが、「今はわからないかもしれないが、20年30年後に分かる」として取り合わなかった。この懐柔策により中国からの帰還者はシベリアなどに比べて遥かに待遇が良かった事や、中共の寛大さ、八路軍の風紀を日本国内で宣伝してくれるスポークスマンとなり、親中ロビー形成に役立てられた。
逸話
1971年4月に愛知県名古屋市で行われていた世界卓球選手権で、アメリカチームの選手の1人が中華人民共和国のチームのバスに間違えて乗ってしまうというハプニングが起きた時、中国選手団は「アメリカチームの選手とだけは接触してはならない」という規則があったので誰も話しかけずにいたが、中国チームのエース荘則棟は大会前に周恩来に「友好第一、試合第二」と言い聞かされた事を思い出して勇気を持って友好的に話しかけ、土産物を贈呈した。この出来事は全くの偶然であったが、後のアメリカチームの中国招待に繋がり、米中国交正常化の足がかりとなったというのは『ピンポン外交』として有名な話である。
しかし、その前に文化大革命で弾圧された卓球という競技を首相権限で守って代表チームに再び練習をするように指示したのも、エース荘則棟の自宅謹慎を解除したのも、日本の親台派の反対を押し切って世界卓球選手権に中国チームが出られるように調整を付けたのも全て周恩来の仕事であった。
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