徳川家康三方ヶ原戦役画像とは、徳川家康が描かれているとされる肖像画である。
その特徴的な表情から「しかみ像」の通称で知られており、著名な逸話とあいまって非常に知名度が高い肖像画ではあるものの、その逸話の出自に疑問が出ている。
まず最初に…
百聞は一見にしかず、当該肖像画をご覧ください。
ポストを読み込み中です
https://twitter.com/tokubi_nagoya/status/842908104891105280
概要
所蔵は徳川美術館。作者は不明であるが、描かれているのは徳川家康と見られており、そのなんとも言えない特徴的な表情が非常に目につく。
通説では、「三方ヶ原の戦いで武田信玄の挑発に乗り寡兵ながら野戦を仕掛けた結果惨敗した徳川家康が、その敗戦直後に自らの姿を描かせ、それを生来自分のそばに置くことで戒めにした」というエピソードがよく知られている。故に、この表情は敗北による恐怖に晒され続けた事による憔悴から来る表情であると解釈されている。
後に家康が天下人になった事から、己の失敗を受け入れて教訓とすることで成功をつかむというこの逸話は「鳴くまで待とうホトトギス」と相まって家康の人生譚として教科書にも掲載される事が多い。
だが、近年の研究においてこの逸話自体が後世に作られた、…しかも割と最近に作られた話である可能性があるという。
出自と変遷
この肖像画がどういった出自でどういう流れで現代に伝わっているのかを整理する。
- 安永9年(1780年)に、紀州徳川家第7代藩主・徳川宗将の娘である聖聡院従姫が、尾張徳川家9代藩主・徳川宗睦の養子である治行に嫁ぐ際の嫁入り道具に入っていた
- 聖聡院従姫の没後、文化2年(1805年)に家康の遺品やゆかりのある物を入れる御清御長持にこの肖像画が収められる
- 明治期に入り、宝物の整理をしている際に便宜上「長篠の戦いの時の家康肖像画」であるとした
- 明治43年(1910年)、尾張徳川家初代当主・徳川義直ゆかりの宝物の展示会が開かれた際に、この肖像画に「長篠の戦いの敗戦の、家康の苦境を忘れないように義直が描かせた」という話が盛られた
- 昭和10年(1935年)、徳川美術館が開館する際に「長篠の戦いでの敗戦の画」から「三方ヶ原の戦いでの敗戦を義直が狩野探幽に命じて描かせた画」へと変化
- 昭和47年(1972年)、現在に伝わる「家康が自ら戒めの為に命じて描かせ、生来そばに置いた」逸話の初出
つまり、現在に伝わるこの逸話はわずか50年前に作られたものであると指摘されている。ツッコミどころが多いので下記で説明していく、
Q&Aコーナー
三方ヶ原の戦いなの?長篠の戦いなの?どっちなの?
そのどちらでもない。上記の通りこの肖像画が「三方ヶ原の戦いの時の家康肖像画」とされたのは1972年のことである。それまではこの肖像画は「長篠の戦いの時の家康肖像画」と考えられていた。
これは肖像画が収められた箱に「長篠合戦時の肖像画である」という紙が貼られていたからのだが、どうも宝物を整理する際に「似た要素の家康肖像画が2つあったから、便宜上区別するために著名な長篠・長久手合戦図屏風になぞらえて片方を長篠の戦いとする」として紙を貼っただけものを、後世になってその紙をソースに「これは長篠の戦いを描いた肖像画である」と誤認してしまった可能性がある(ちなみに、もう片方の長久手と紙が貼られた方が『徳川家康長久手戦陣中画像』と考えられる)。
つまり三方ヶ原にしろ、長篠にしろこれが描かれたとされる時代に「これはこういう画である」と記された記録はない。よって、正確な情報だけ掻い摘むと、この肖像画がどの合戦時に描かれたものかはわからない。なので、様々な要素から推察・考証が進められている。
長篠の戦いって家康が勝った戦じゃないの?
どうもその当時はまだそこまで歴史認識が一般層にまで広まっておらず、「長篠の戦いで織田・徳川連合軍は武田軍に敗北した」と大嘘をぶっこいてもツッコまれなかったらしい。マジかよ。
ただ歴史が下るに連れてそのあたりが知れ渡るにつれて、家康が快勝している合戦に「敗戦の苦境」というエピソードはそぐわなくなってきた。このため「家康が敗北した」という辻褄を合わせるために、家康が大敗した戦としてよく知られている三方ヶ原の戦いにすり替えられたと見られている。
家康が戒めにするために自らを描かせたというのは?
大嘘。実は家康が三方ヶ原の戦いでの敗戦を悔やむようなエピソードは一切無い。それどころか出撃をした事を武士の誉れとして肯定的に捉える逸話が圧倒的に多い。
結果的に大敗を喫したものの、そもそも後悔するどころか出撃して良かったと思っている以上、戒めの為に自分を描かせたというエピソードは完全に破綻している。そうでないのであれば、家康がこの事を恥として考え一族のごくごく少数に対して門外不出の教訓として伝え、対外的にはこの事は誉れであると口外したとしか考えられないのである。
あくまで仮説だが、家康の「鳴くまで待とうホトトギス」の逸話とリンクした結果、"家康の忍耐力"という要素をクローズアップする目的がこのような逸話を生み出した可能性がある。なお近年では「ストレスを抱えると指を噛む癖がある」という伝承が伝わる事から、家康が短気で神経質なタイプであった可能性も指摘されている。
で、う○こはもらしたのか?
漏らしていない。またそもそも「脱糞を後悔した事を描かせた」絵でもない。
三方ヶ原の戦いで恐怖のあまり脱糞したのを家臣にツッコまれ「これは焼き味噌である」と言い訳した(ちなみに家康は味噌が大好物)エピソードはあまりにも有名だが、これには元ネタがある。
大久保治左衛門(忠隣)、大音揚げ、御馬の口付に向て、『其御馬の鞍壺を能く見よ。糞があるべきぞ。糞を垂て遊玉ひたる程に』と悪口す。
現代訳すると「家康様の馬の鞍にうんこが付いてるぞ!家康様は臆病うんこマンだ!」的な感じだろうか。
これは、江戸幕府成立後に作られた「三河後風土記」に収録されているエピソードで、三方ヶ原の戦いの前哨戦である一言坂の戦いにて、家康家臣の大久保忠隣が「家康に過ぎたる物」とまで称された大活躍をした本多忠勝と不甲斐なく逃走する主人・家康の姿を比較して罵ったとされる。が、同時代資料にこのような逸話は一切収録されていない。
おそらくだが、家康の独立直後から徳川家の主たる地位を務めながらも慶長19年(1614年)に改易された忠隣に、ヒールとしてのキャラ付けをするために作られた逸話の一つと考えられている。ちなみに家康はそもそも一言坂の戦いに出陣していないとされることが多い。
まただいぶ穿った見方だが「仮に本当に脱糞を大久保忠隣に咎められていたのであれば、忠隣の叔父・大久保忠教が書いた主君をディスる史料『三河物語』に家康の痴態の様子が詳細に書かれているはずであり、その三河物語に収録されていないのは不自然」という見方もある。
この一言坂の戦いのエピソードが三方ヶ原の戦いのエピソードに変化したのは歴史小説である『徳川家康(著:山岡荘八)』とそれを原作とした大河ドラマの影響と見られる。
要するに「脱糞エピソードが三方ヶ原の戦いということになったのも昭和になってから(1950年代~)」ということである。
正体
推察・考証が進んだ結果、この肖像画がどういったものかに関しては非常に有力な説が導き出されている。
- 三方ヶ原の戦いは真冬(1月)の戦いであるのに対して、革足袋といった冬の装備をしていないこと
- 描かれている装備は平安・鎌倉期の武将のもので、安土桃山時代にはすでに廃れて不自然なものであること
- 江戸時代中期に、祖先を賛美する目的で古風で派手な具足を装備させる肖像画が流行したこと
- この肖像画の独特な姿勢は「半跏思惟」と呼ばれる、仏像が瞑想にふけるポーズであること
- 家康が没後「東照大権現」として神として祀られたこと
- 特徴的な「しかめ面」が恐怖や憔悴を表すものではなく、神の憤怒や威圧を表していると考えられること
- 正面からの構図が礼拝像として相応しいこと
と、様々な要素を並べて改めて考えてみると、この肖像画は…
「江戸時代中期頃に、先祖である家康を武神になぞらえて敬う目的で描かれた礼拝像の肖像画」
と考えるのが自然である。嫁入り道具に入っていたという背景を見るに「他家に嫁いでも(共通の祖先である)家康様が災いからお護りくださる」という意図があったかもしれない。
もう一度見てみよう
以上の説明を経て、もう一度この「しかみ像」を見てみよう。
ポストを読み込み中です
https://twitter.com/tokubi_nagoya/status/842908104891105280
何か違って見えるところはあっただろうか?
結び
全く違う目的で描かれた肖像画だったものなのに、付加価値をつける為に盛ったエピソードが後世の人が求めた家康像に都合よく合致してしまった結果教科書などにも載ってしまい、事実とは異なる形で多く知られるようになった事を肯定することは難しい。
このためこの学説が出されて以降は、この像に対して通説である上記の教訓を掲げないケースも徐々に見られてきた。
だが50年もの間この大ボラ逸話・教訓が人々を動かしてきた事もまた事実であり、この事実そのものが史実として価値があるため、史実的整合性が無いからと言って単純にそのものの価値を毀損するわけでもないのが伝承や美術品の難しいところである。
なお、徳川美術館にはこのような逸話の史実的整合性が怪しいものがいくつかある模様。
関連動画
関連リンク
- 徳川美術館 - 徳川家康三方ヶ原戦役画像
(令和3年の展示。解説は新説に基づいている)
- 徳川家康三方ヶ原戦役画像
(平成26年の展示。従来説。)
関連項目
- 47
- 0pt

