日号作戦とは、大東亜戦争末期の1945年6月28日から8月15日まで行われた食糧の緊急輸送である。
概要
発動までの経緯
大東亜戦争も末期に入った1945年3月、日本本土と東南アジアの資源地帯を結ぶ南方航路が米機動部隊及び米潜水艦の跳梁で閉鎖され、残されたのは本土・朝鮮半島間の航路、東シナ海を通る華北航路だけとなる。
マリアナ諸島より飛び立ったB-29が都市爆撃を繰り返す中、日本海側の主要拠点は4月まではB-29の上空侵入のみに留まっていたので比較的爆撃を受けず、また南方航路閉鎖に伴って日本海を往来する船舶が増大、海防艦や第11水雷戦隊の訓練地も日本海側へ移転するなど、しばらくの間は平穏が保たれていた。しかし5月中旬に入るとB-29が日本海側主要港に対する機雷敷設を開始、更に6月10日以降は対馬海峡から日本海に侵入した米潜水艦の攻撃で船舶被害が増加し始める(バーニー作戦)。
朝鮮航路及び華北航路の断絶は臣民の生活を支える配給制度の破綻を招く恐れがあった。というのも1945年は天候不良や肥料不足に加え、40年ぶりの大凶作で代用食小麦の生産量が落ち込むといった凶事が相次いでおり、食糧事情が急速に悪化、追い討ちと言わんばかりに米の大凶作も予想されていたのである。
そう遠くない本土決戦に向けて臣民生活を維持する必要がある事、部隊や軍需品の移動には食糧が必須になる事から、帝國陸海軍は「日本海ニ於ケル輸送作戦実施ニ関スル陸海軍中央協定」を締結、かつて行った特攻輸送「南号作戦」に倣った日号作戦の実行を決定した。同時に鈴木貫太郎内閣は食糧確保を重視。徴用した船舶を優先的に食糧輸送へと割り当てた。
日号作戦
6月28日、大海指第524号により、先の陸海軍中央協定に基づく海上交通保護作戦、すなわち日号作戦の実施を命じる。この作戦で集められた護衛兵力は、海軍からは第1護衛艦隊、第7艦隊、舞鶴鎮守府部隊、大湊警備府部隊、鎮海警備府部隊に所属する駆逐艦及び海防艦約60隻、航空機200機(このうち約130機は華北航路を放棄してまで黄海から移転させた第901海軍航空隊)、掃海兵力26隊、陸軍からは第10、第12飛行師団の一部、各地の防空部隊など約70機、高射砲200門以上であった。高射砲は主要港の新潟、敦賀、小倉、八幡、釜山、伏木、関門、博多、麗水にそれぞれ配備。各部隊の総指揮は小沢治三郎中将が執る。
輸送される戦略物資は主にトウモロコシ、大豆、食用及び家畜飼料用の塩など、満州方面で豊富に採れる雑穀類。米は輸送の対象にはならなかった。満州から集められた食糧は主に朝鮮半島北東部の羅津港や北部の要港に集積され、半島東岸の港から船で輸送、陸揚げ拠点は九州北部から東北地方までの港とし、油谷湾や江崎港のような小港をも拠点に選ばれた。
作戦の過程については、戦史叢書にも詳しく載らないほど記録が残っていないため、各艦船の行動や輸送量は謎に包まれている。朝鮮半島北部を出発した船団は、敵潜の襲撃を受けにくい沿岸部を可能な限り通り、空襲を避けるため夜間航行を主体にし、海防艦が直接護衛に就いていたとされる。
あらゆる方面から輸送船がかき集められ、瀬戸内海に残っていた荷役用はしけや上陸用舟艇まで根こそぎ動員したが、船舶の絶対数不足は如何ともしがたく、加えて設備不十分な小港も多い関係上、満州各地の集積所に物資が渋滞する事態が発生。その後、仮設港湾の設置や鉄道の引き込みなどの対策で日本本土までの輸送は活発化した一方、今度は本土方面の輸送能力欠乏が露呈。陸揚げ地にて物資が停滞してしまった。
B-29による日本海沿岸諸港への機雷投下は続けられた。6月の時点で九州北部の要港に機雷が投下され、これを掃海するべく対馬海峡部隊や関門海峡部隊の特設掃海艇、または海防艦が危険な任務に従事する。7月に入ると機雷敷設範囲が更に拡大し、朝鮮半島沿岸や秋田県船川港にまで敷設されている。420個に及ぶ多様な機雷投下を受けた羅津港は実質使用不能となった。7月中旬、米機動部隊が北日本一帯を空襲し、青函連絡船8隻を含む汽船46隻と機帆船150隻が使用不能と化し、北海道からのジャガイモ及び石炭輸送が激減。唯一日本側の助けになったのは、バーニー作戦終結に伴って米潜水艦が日本海より撤収した事で、米潜水艦の活動が不活発化した事だった。しかし7月下旬になると再度侵入したらしく7月28日より男鹿半島沖で3隻が被害に遭っている。
7月末、ソ連の対日宣戦布告を予期した上層部は朝鮮半島からも食糧を緊急輸送する事とし、半島の3つの要港に商船40隻を向かわせた。
多くの被害を出しながらも食糧輸送自体は快調だった。8月4日、陸軍の海運総監部参謀長から舞鶴鎮守府宛てに「7月海上輸送実績は関係方面の絶大なる努力により実績約95万4000トンにして当初算定せる内地到着輸送見込量約60万トンに対し約150%以上の好成績を収め(以下略)」と電報を送っており、予想以上の成功を収めた事が示唆されている。
ソ連の参戦
8月9日未明、羅津にて荷揚げ中の大型商船17隻がソ連軍機の空襲を受けた。商船の貧弱な対空砲火では敵機を止めるには至らず、次々に被弾、炎上、撃沈の末路を辿っていく。かろうじて脱出できたのは向日丸、さまらん丸、辰春丸の3隻のみで半島南部の元山に向けて逃走。途中で救援に駆け付けた第82号海防艦が合流した。だが、そこへソ連の雷撃機が横一列になって出現、指揮官機が煙幕を展開して雷撃機を覆い隠し、間もなく航空魚雷を喰らった第82号海防艦が4~5秒で轟沈した。向日丸をかばう形で撃沈されたので向日丸が積極的に生存者救助を行い、艦長を含む98名を収容。城津に寄港して生存者を降ろした。
同日早朝、4隻の輸送船を護衛して羅津に向かっていた海防艦屋代、第87号、第150号海防艦は、羅津がソ連軍機Il-2、Il-4、Yak-9からなる戦爆連合の攻撃下にあるのを目撃し、北鮮雄基港に行き先を変更。しかしその雄基もソ連軍機の攻撃を受け、午前9時20分頃、雄基沖4.8kmで50機以上が船団に襲い掛かってきた。対空射撃により14機以上を撃墜、午前10時頃より来襲した第二波約30機も撃退に成功する。その代償に第87号が被弾・損傷、輸送船3隻が撃沈され、生き残った船舶は船団を組んで、屋代と第87号の護衛を受けながら元山まで退却している。
ソ連の対日宣戦布告を以って、日号作戦は終焉を迎えたとする一方、北鮮及び満州からの食糧輸送は終戦まで続行されたと指摘する声もある。
関連項目
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