U-487とは、第二次世界大戦中にドイツ海軍が建造・運用したXIV型Uボート7番艦である。1942年12月21日竣工。1943年7月13日、中部大西洋で米護衛空母コアの艦載機5機に襲われ、対空射撃でF4Fワイルドキャットを撃墜したが攻撃を受けて沈没。
概要
XIV型はIXD型の設計を流用した補給用Uボートである。通称ミルヒクー(乳牛)。イギリスの圧力でスペインのカナリア諸島にあるドイツ海軍基地が使えなくなった事を受け、遠洋作戦中のUボートに補給を行う2000トン級Uボートとして、1939年9月8日にカール・デーニッツ元帥が司令部に3隻の建造要請を出したのが始まり。
船体の全長を短めにして全幅を広く取る事で貨物スペースを確保し、デッキスペースを平滑にして補給作業を容易なものにしている。ただ乾側が低いので荒天時の作業は困難だったという。複殻構造を取っており、耐圧船殻厚は21.5mmとVII型やIX型よりも3mm厚く、最大潜航深度が30m深い。部品はVIIC型から流用、艦橋はIX型のものを同じものを使用して生産性を向上させた。艦内にパン製造機を持っているため焼きたてパンを提供する事も可能だった。
作戦中のUボートに洋上補給を施して期間を延長させるのがXIV型の役割であり、魚雷4本、燃料720トン、潤滑油34トン、真水19.5トン、蒸留水3トン、VIIC型12隻分もしくはIXC型5隻分の食糧を積載可能。XIV型には軍医が乗船していて時には傷病者の診察も行った。輸送船団を震えあがらせるUボート、その活動期間を延長させるXIV型は連合軍にとって悪魔のような存在であり、戦況を左右する重要な艦と認識して集中的に攻撃を加えた。ロンドンの連合国海軍本部は「いかなる犠牲を払ってでも乳牛を捕まえろ!」と命令していたほど。
Uボートでありながら魚雷や甲板砲を備えておらず対空用の37mm機関砲と20mm機関砲程度しか持っていなかった。シュノーケルを装備し、耐圧船殻の厚さから他のUボートより深く潜れる強みもあったが、図体の大きさが祟って潜航に時間を要する上、操艦もしにくく、また連合軍から集中的に狙われたため1943年だけで7隻が沈没。最終的に建造された10隻全てが失われている。
XIV型はU-459、U-460、U-461、U-462、U-463、U-464の6隻がドイチェヴェルケAG社、U-487、U-488、U-489、U-490の4隻がゲルマニアヴェルフトAG社で建造されている。
要目は排水量1688トン、全長67.7m、全幅9.35m、最大速力14.9ノット(水上)/6.2ノット(水中)、出力3200馬力、予備浮力368トン、安全潜航深度120m、最大潜航深度240m、急速潜航秒時40秒、乗組員53~60名。兵装は37mm単装機関砲1門と20mm連装機関砲1基のみ。
艦歴
1941年7月17日にゲルマニアヴェルフトAG社のキール造船所に発注。1941年12月31日にヤード番号556の仮称を与えられて起工、1942年8月に入ると艦の建造工事は最終段階に入り、乗り組み予定の人員が造船所に到着。10月17日に進水し、そして12月21日に無事竣工した。初代艦長にヘルムート・メッツ予備中尉が着任するとともに第4潜水隊群へ編入される。ちなみにU-487の士官は全員予備役であった。
メッツ艦長は民間人だった時に捕鯨ビジネスで成功を収め、かつて捕鯨船3隻を保有・操業していた事からU-487の司令塔に「シャワーを浴びるクジラ」の絵をエンブレムとして記入した。彼は有能で、毅然としていて、それでいて人当たりの良い優れた艦長であり、部下からとても慕われていたという。また乗組員の中に1人だけポズナン出身のポーランド人がいた。
U-487の慣熟訓練はXIV型の中では異例と言えるほど短縮されたものだった。これは来年の夏に予定されている海軍の大西洋大攻勢に間に合わせるためであり、駆け足で数々の試験や訓練を済ませ、1943年2月下旬にキールへと戻って最終調整を開始。これまでの運用でメッツ艦長は前方の37mm機関砲が重すぎてあまり役に立たないと判断、20mm機関砲に換装している。
1回目の戦闘航海
1943年3月27日午前9時、キールを出撃して最初の戦闘航海に赴く。3月29日にドイツ占領下ノルウェー南部クリスチャンサンへ4時間寄港して真水と燃料を補給。掃海艇に護衛されながらノルウェー西岸を北上し、アイスランド・フェロー諸島間の海域を通って北大西洋に進出する。4月1日にボルドーの第12潜水隊群へ転属した。2週間かけて作戦海域に到達したU-487は4月11日から30日までの間に14隻のUボートに補給を実施。5月初旬に作戦海域を離れてボルドーへの帰路についた。
危険なビスケー湾を通過中、敵哨戒機の奇襲を受け、急速潜航する前に3発の爆弾が投じられた。幸い爆弾は約45m離れた場所に着弾、電球がいくつか割れた程度の被害で済む。5月12日にボルドーへ入港。第8ブイに係留された。
ドイツに帰国出来るほどの長期休暇は与えられなかったため乗組員はフランス南西部のリゾート地アルカションで4日間羽を伸ばした。その間にU-487は造船所に入渠して司令塔後方の37mm機関砲を撤去、代わりにアトランティックウォールと呼ばれる高さ91cmの砲台を新設し、その上に20mm三連装対空機銃を設置。砲台はキャットウォークと第一プラットフォームに接続されていた。この改装はメッツ艦長の明確な要望によって行われたという。
2回目の戦闘航海
6月14日午後、U-487は掃海艇の護衛を伴ってボルドーを出港。同日夜にジロンド河下流のボイヤックで停泊し、翌15日午前6時に舫いを解いて出発、ル・ヴェルドンで別の掃海艇に出迎えられた。午後に入ると掃海艇が分離。航空警戒が厳しいビスケー湾を突破するため殆ど潜航して進み、僅かな隙を突いて浮上してバッテリーを充電。5日間かけてどうにか危険な湾内を脱した。
6月26日、U-126と合流してメトックス電波探知機を譲渡。7月1日、アゾレス諸島南西700海里の作戦海域へ到着する。メッツ艦長は訓練のため毎日急速潜航を行った一方、乗組員の負担を軽減するためか水泳の許可を出した事もあった。
U-487は、ビスケー湾を突破出来ずに沈没した姉妹艦U-462に代わり日本占領下ペナンに向かうUボートに対する補給任務が命じられ、7月9日から12日にかけてU-190、U-359、U-382、U-406、U-466、U-591、U-598、U-604、U-662に補給。その後、司令部よりアメリカ東海岸方面に向かうU-648とそこから帰還中のU-527と合流して燃料補給を行うよう命じられ、中部大西洋を南東に向けて移動。補給用燃料が少なくなってきていたのでU-160から補充を受ける予定も入っていた。
しかし連合軍のHF-DFアンテナがU-487の通信を傍受。正確な位置を掴んだ事で護衛空母コアを基幹としたハンターキラーグループを送り込んで来た。
最期
1943年7月13日早朝、ゆっくりと水上を進んでいたU-487の当直見張り員が近くで綿の塊のような漂流物が浮いているのを発見。彼らは数分間かけて漂流物を引き揚げた。見張り員の注意が漂流物に逸れた瞬間、護衛空母コア所属のアベンジャーとワイルドキャットが誰にも気付かれずに急降下を開始、U-487側は完全に虚を突かれた。デッキ上には日光浴している乗組員までいたという。瞬く間に4発の爆雷が投下され、至近弾により右舷の石油タンクが大破。火災を起こしながら右舷へ傾いて航行不能と化す。艦内では電源を喪失して非常灯が点灯し、制御室に収容された先の漂流物が突如発火して火の手が上がるも、幸い乗組員によって速やかに消し止められた。突然発火したため一部の乗組員はこの漂流物は連合軍が仕掛けた罠ではないかと疑ったとか。
メッツ艦長は「対空砲を操作せよ」「隔壁を閉めよ」と指示。彼自身もまた第一プラットフォームに駆け上がって20mm対空機銃を操作した。他の乗組員も生き残っている対空火器につがみついて決死に応戦。このうち左舷後方からU-487へ機銃掃射を浴びせようとしたワイルドキャットが20mm機銃弾を喰らって左舷艦首約30mに墜落。パイロットのE.H.シュタイガー中尉が戦死している。残りの1機にも命中弾を与えて退却させ、第一ラウンドはU-487の勝利に終わった。しかし激しい機銃掃射で乗組員の大部分が負傷ないし戦死。
依然としてU-487は航行及び潜航不能。そこへ増援の敵機3機が出現して集中攻撃を開始する。既に何か所も負傷していたにも関わらず冷静に指揮を執っていたメッツ艦長だったが、ここに至り艦の放棄を命令、乗組員たちが3隻のゴムボートを膨らませて船外へと浮かべた(うち1隻は爆弾の破片で穴が開いて沈没している)。そしてメッツ艦長は敵の機銃掃射で死亡。艦首と前甲板に直撃した爆弾が致命傷となり、艦体を二つに折って数秒後に沈没。
乗組員31名が死亡。生き残った士官3名、士官候補生1名、水兵29名の計33名は米駆逐艦バーカーに救助され、このうち17名は直ちに治療が必要なほど重傷だった。
U-487の喪失は、単なる1隻の喪失に留まらない悪影響を及ぼした。後にフランスから出発したペナン行きのUボート11隻は道中で給油を受けられなくなり、8月末までに5隻が中部大西洋で沈没、1隻が出撃拠点へ戻る事を余儀なくされたのである。臨時でU-155とU-516が補給用Uボートとなり僚艦に給油を行った。こうしてU-487は3番目に失われたXIV型となった。
関連項目
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