U-490とは、第二次世界大戦中にドイツ海軍が建造・運用したXIV型Uボート10番艦である。1943年3月27日竣工。1944年6月12日、東南アジアへ向けて航海中、アゾレス諸島北西で致命傷を負って自沈。最後に失われたXIV型となった。
概要
XIV型はIXD型の設計を流用した補給用Uボートである。通称ミルヒクー(乳牛)。作戦中のUボートに洋上補給を施して期間を延長させるのがXIV型の役割であり、魚雷4本、燃料720トン、潤滑油34トン、真水19.5トン、蒸留水3トン、VIIC型12隻分もしくはIXC型5隻分の食糧を積載可能。XIV型には軍医が乗船していて時には傷病者の診察も行った。
Uボートでありながら魚雷や甲板砲を備えておらず、対空用の37mm機関砲と20mm機関砲程度しか持っていなかった。シュノーケルを装備していたが、図体の大きさが祟って潜航に時間を要する上、操艦もしにくく、また連合軍から集中的に狙われたため建造された10隻全てが失われる大損害を受けた。
元乗組員曰くU-490は姉妹艦と違ってリブが圧力容器の内部ではなく外部に溶接されていたという(これは建造を容易にし、艦の安定性を高め、より深く潜水するための改良だった)。他にも本来XIV型が持っていない甲板砲を装備していた証言も残されている。対空火器も従来のXIV型より強化され、20mm連装対空砲1基、37mm機関砲2基、機関銃4丁を装備。
艦長と下士官こそ経験豊富だったが、乗組員の大半は乗艦経験すらない素人ばかりであり、そのせいか訓練中に2回の事故を起こして出撃が7~8ヶ月ほど遅れた。捕虜になった後は隠さなければならない情報までペラペラしゃべり、尋問を行ったアメリカ軍に「最近捕虜にしたUボート乗員より安全意識が低い」と報告書に書かれている。U-488の喪失によりドイツ海軍は潜水艦による補給を断念。XIV型最後の生き残りとなったU-490は、インド洋で活動中のIX型Uボートに帰国出来るだけの燃料を補給する任務が与えられていたが、アゾレス諸島北東で米護衛空母クロアタン率いるハンターキラーグループに襲われて自沈。
要目は排水量1688トン、全長67.7m、全幅9.35m、最大速力14.9ノット(水上)/6.2ノット(水中)、出力3200馬力、予備浮力368トン、安全潜航深度120m、最大潜航深度240m、急速潜航秒時40秒、乗組員53~60名。
艦歴
1941年7月17日、ゲルマニアヴェルフトAG社のキール造船所へ本艦の建造を発注、1942年2月21日にヤード番号559の仮称で起工、同年12月24日に進水式を迎えた。完成が迫る1943年2月には機関室の人員が新造艦の待機要員という形で確保される。そして3月27日に竣工を果たす。初代艦長に経験豊富なヴィルヘルム・ゲルラッハ中尉が着任するとともに訓練部隊の第4潜水隊群へ編入。
艦長や下士官こそ経験を積んだ優秀な人材だったが、乗組員の大部分がU-490が初の乗艦という経験不足な者で占められていた。またゲルラッハ艦長は神経質で臆病なところがあった事から部下から蔑視されていたという。
まず3月27日から4月14日までキールで試運転と単独訓練を実施。4月15日から19日までシフィノウイシチェの対空学校で教練を、4月20日から26日までダンツィヒで試験を行う。4月27日からはヘラ半島で実戦に即した訓練に従事。
訓練中に二度の事故を起こす
5月7日夕刻、乗組員の多くが陸上で休暇を楽しんでいる中、桟橋に停泊していたU-490のバッテリーが突如爆発事故を起こし、いくつかのセルやバッテリー室が損傷した。これは充電を担当していた副機関士が排気弁を閉め忘れた事が原因だったという。
やむなく5月9日から6月22日までキールで新しいバッテリーの取り付け工事と修理を行った。また乗組員の人事異動も並行して行われ、下士官の多くが基地要員に転属している。7月19日にピラウ沖で水上艦艇から訓練用爆雷の投下を受ける戦闘教練に従事。7月20日からゴーテンハーフェンで第27潜水隊群と戦術演習、U-850とU-974に対する給油訓練を行う。
7月23日、アラドAr196水上機を敵機に見立てた模擬訓練中、メインの空気導入バルブが開いたままになり、開いたドアを突き抜けてディーゼルコンパートメントが完全に浸水、制御不能に陥って艦尾が60度の角度で海底の泥に突き刺さる潜航事故を起こしてしまう。機関長は艦尾側の隔壁を全て閉じるよう命令、主任整備士がディーゼル機関室内の海水をポンプで排出するよう命じ、電気モーター室にも同様の指示を出したが、高さの違いで失敗に終わった。乗組員がバルブを閉めるまでに60トンの海水が流入。
16時55分、最終的にタンクを全て吹き飛ばす事で浮上に成功。検査の結果、電気モーター損傷、深度制御装置と送信機が故障しており、18時より低速でゴーテンハーフェンへの不名誉な帰還を開始する。
21時5分、心配して寄って来たU-845に送信機を借り、ゲルラッハ艦長が「U-490は潜水中の重大事故の後に浮上し、電動モーター、無線機が作動せず、操縦が制限され、潜航不能となっている。現在ゴーテンハーフェンに向かっている。近くにU-845がいる」と司令部に無線通信を送った。また道中、奇妙なシルエットから味方のUボートにソ連の潜水艦と誤認され、攻撃を避けるために認識信号を出す一幕もあった。
ゴーテンハーフェンで応急修理を受けた後、7月26日より2日間ダンツィヒの造船所でコンバーターの拡張工事を、7月29日から1944年2月10日までキールで大規模なオーバーホールを実施。連合軍の空襲により工場が被害を受け、機械部品と電気設備の整備は極めて遅かった。本来XIV型が持たない甲板砲を装備し、第一プラットフォームを拡張しつつ第二プラットフォームを新設、艦橋には装甲シェルターが装備された。
2月20日、ダンツィヒでUD-4(元オランダ潜水艦O-26)と水中での給油実験を行う。3月2日からメーメルでU-370、U-397、U-1165に対する給油訓練を、3月11日からU-243、U-293、U-804、U-999、U-1000に対する給油訓練に従事し、3月26日よりキールで残工事の完遂と第二プラットフォームに対空砲の追加、対空訓練を行って最後の調整。4月1日にボルドーの第12潜水隊群へ転属。またこの時にシュノーケルが搭載された。乗組員クレイ・ブレアの手記によるとバルト海での事故やシュノーケル搭載工事より出港が7~8ヶ月遅れたという。
4月26日、Uボートに対して補給活動を行っていた姉妹艦U-488が沈没。これにより生き残っているXIV型はU-490のみとなってしまい以降ドイツ海軍は潜水艦による補給を断念した。
4月29日から5月1日にかけて最初の航海に向けての準備を開始。ところが5月2日に右舷側で燃料漏れが確認されたため、13時から21時まで入渠して緊急修理を行っている。
最初で最後の航海
1944年5月4日午前8時、U-490は燃料、物資、予備部品、電子機器といった大量の貨物を抱えて、U-675とともにキールを出港。午前11時より掃海艇M515が護衛に加わってグレートベルト海峡を目指す。およそ3時間後の14時45分に掃海艇が護衛より離脱。U-675が意外と鈍足だったため、ドイツ占領下ノルウェー南部の潜水艦基地クリスチャンサンへ寄港したのが5月6日午前9時20分の事だった。現地でビールとオレンジを積み込んで翌日出港。ノルウェー西岸を北上してアイスランド・フェロー諸島間の海域へと向かう。
5月18日にフェロー諸島北西に到達し、ここから針路を南西に変えて一気に北大西洋への進出を試みる。敵に発見されるのを防ぐため日中は潜航、時々シュノーケルを出してバッテリーを充電しつつ艦内の換気を行うなど、慎重に慎重を重ねて航行。5月24日、U-490は位置情報と気象情報を司令部に報告。ところがこの通信は司令部に届いていなかった。無線封鎖を可能な限り維持したいゲルラッハ艦長は再度の送信を断念、潜航しながら移動を続ける。
本艦には北大西洋で活動するUボート9隻の作戦を支援した後、インド洋に長駆してモンスーン戦隊所属Uボートの帰国を援助する任務が与えられていた(乗組員には8月中旬にボルドーへ帰投すると知らされていた模様)。
6月1日、カール・デーニッツ元帥は連合軍の差し迫ったノルマンディー上陸作戦を懸念し、Uボートの損害を防ぐため「U-490、U-241、U-294、U-292、U-675はシュノーケルとレーダー搭載のためフランス西海岸の港へ向かえ」と命令を出した。この時、U-490は連合軍の航空哨戒が及ばない僅かなエリアを縫いながら南下しているところで、そのU-490にもシュノーケル搭載工事のためフランスに寄港するよう指示が出された。しかしU-490は既にシュノーケルを持っていたため命令を無視。後で司令部も誤りに気付いたのか「予定通り南下すべし」と再度指示を出している。道中でイギリス軍の対潜艦艇に攻撃されたが敵は早々に去っていった。
6月4日13時30分、U-490は東行きの敵船団を発見して報告。近くに味方のUボートはおらず、またU-490は補給用Uボートであるため、当初の予定通り南下するよう命令を受けた。この日、イギリス海軍の警戒が厳重な北海、アイスランド・フェロー諸島間海域を通過して北大西洋に進出。シュノーケルが上手く機能したおかげだが、かなり穏やかな海でないと使用する事が出来ず、乗組員はその取り扱いに四苦八苦していたようだ。その後、司令部より大西洋を通過する際に気象情報を送信するよう命令が届いた。ゲルラッハ艦長は万全を期すため無線封鎖を以って大西洋を抜けようと考えていたが司令部の命令には従うしかなかった。
6月6日、連合軍がノルマンディーに上陸。U-490にもこの報せが届き、翌日、作戦中のUボートは哨戒を続けるよう命じられた。また乗組員たちはドイツのプロパガンダ放送で「連合軍は既にフランスから追い出されており、侵攻は完全な失敗」と聞かされていた様子。ゲルラッハ艦長は敵に発見されるのを防ぐため潜航中に伸縮式アンテナを使ってニュース放送を受信する事はまれだった。
6月10日早朝、この日は寒冷前線の通過で作戦海域が悪天候に見舞われた。潜航しながら進むU-490の近くで突如爆発が発生。これは敵の対潜哨戒機による攻撃だったものの幸い被害は無かった。U-490は15時31分と翌11日午前1時36分に気象情報を送信するが、この無線通信を米護衛空母クロアタンを基幹としたハンターキラーグループ第22.5任務部隊に傍受され、正確な位置を特定されてしまう(気象報告ではなく先の対潜攻撃に関する報告だったとする説も)。6月11日午前6時よりクロアタンの索敵機4機が発進。午前9時以降は急速に天候が回復したためソノブイを使った索敵も行われ、空と海上から立体的にU-490を探し求める。数時間後、クロアタン艦載機から爆雷投下を受けてU-490は慌てて急速潜航。これから始まるであろう激しい爆雷攻撃を回避するため水深250mまで潜り、更にジグザグ運動して必死に魔手から逃れようとする。
午前8時2分、護衛駆逐艦フロストがソナーで潜航中のU-490を捕捉。ここから長きに渡る執拗な対潜攻撃が始まった。午前8時22分、フロストが放ったヘッジホッグのうち、3発が艦側面から500~800m離れた場所で起爆。僅かな浸水が認められた程度で被害は僅少だった。ゲルラッハ艦長は耐圧船体を強化したU-490の性能を活かし水深305mまで潜航。ここは並大抵の連合軍の爆雷では届かない不可侵の領域だった。しかしフロストは必ずU-490を仕留めてやろうと、ヒュースとインチを呼び寄せて3隻による同時攻撃を開始。投下された爆雷は全てU-490の頭上で炸裂したが艦は激しく揺さぶられた。敵艦に聴音されるのを恐れたゲルラッハ艦長は軍医ハーバード・シュトゥッペンドルフに、実験用に連れていた、キーキーと鳴く12匹のモルモットを殺害するよう命じている。追跡は15時間、爆雷攻撃は25回、投下された爆雷は189発に及んだが、U-490は死の淵で踏みとどまり続けた。
23時13分、粘り強く耐えしのぐU-490を水上におびき寄せるため、フロストの艦長ジョン・H・マクウォーター中佐は一計を案じる事にした。フロストとインチはあたかも狩りを諦めたかのように北向きに針路を変え、ヒュースと交代したスノーデンは南方向へと移動。30分後、敵艦がいなくなったと錯覚したU-490は浮上するが、これは敵の巧妙な罠であった。敵艦はいなくなるふりをしてゆっくりと戦闘海域に戻ってきていたのである。
最期
1944年6月12日午前0時34分、海面に顔を出したU-490はフロストとスノーデンに包囲されている事に気付く。すぐさま照明弾が打ちあげられるとともに、3隻の護衛駆逐艦からサーチライトの照射と情け容赦のない一斉砲撃が浴びせられた。罠にはめられたと悟ったゲルラッハ艦長は「猛烈に前進せよ!」と命じ、砲火の中をジグザグ運動しながら強引に包囲網の突破を図った。実際敵中突破には成功した。しかしこれまでのヘッジホッグ攻撃や命中弾で艦体に致命傷を負っており、もはや放棄する以外に道は残されていなかったため、艦長は「全員出て、艦を沈めろ!」と指示。主任機関士がバルブを開いて自沈処理を行いU-490が沈み始めると乗組員たちは海へ飛び込んだ。最後にゲルラッハ艦長は「SOS 乗組員を救ってください」と救難信号を打つ。
午前1時1分、追って来た護衛駆逐艦群が水中に沈んでいくU-490の残骸を発見し、周囲に漂っている乗組員たちの救助活動を開始する。午前1時10分、海中よりU-490の断末魔である爆発音が聞こえてきた。そして午前1時35分に収容作業完了。乗組員60名全員が救助され、クロアタンへと移された(資料によっては1名の死者が出たとしている)。U-490の乗組員たちは熱狂的なヒトラー支持者だったためか、イギリスに連行される事を極度に恐れている様子だった。このためアメリカに連行される事が保証されれば「名誉ある質問」には全て答えるという契約に署名した。この契約のおかげで尋問がスムーズに進んだとか。
ゲルラッハ艦長が遭難信号を打ち忘れた事でU-490の喪失はしばらく司令部に認識されなかった。6月27日、司令部はU-490に対しペナンに向かうよう命じ、インド洋にいるIXC型Uボートに帰国出来るだけの燃料を補給する事になっていた。
U-490が沈没した事でXIV型は全滅。建造予定だったXIV型もXXI型の建造を優先するため全て中止となった。
関連項目
- 1
- 0pt

