U-155単語

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U-155とは、第二次世界大戦中にドイツ海軍が建造・運用したIXCUボートの1隻である。1941年8月23日工。連合船舶25隻(12万6664トン)と護衛空母1隻(1万3785トン)を撃沈する戦果を挙げ、モスキート戦闘機1機とムスタング戦闘機1機を撃墜した。ドイツ敗戦直前の1945年5月5日連合軍に降し、12月21日デッドライト作戦処分。

概要

U-155は54隻生産されたIXCの1隻。前級IXB型体を0.26m延伸し、殻の間に燃料タンクを増設して航続距離1450里増大したタイプであり、より遠方まで長駆しての通商破壊が可になった。建造費は644万8000ライヒマルクにはエンブレムとして都市シュヴェルムの紋章が刻まれた。

諸元は排水量1120トン、全長76.76m、全幅6.76m、最大速力18.3ノット(水上)/7.3ノット(水中)、燃料搭載量208トン、安全潜航深度100m、急速潜航時35、乗組員44名。武装は53.3cm魚雷発射管6門(艦首4門、艦尾2門)、魚雷22本、10.5cm単装1門、37mm単装機関1門、20mm単装機関1門。

IXCは戦果こそ挙げたが損耗率が非常に高く、終戦時に生き残っていたのは54隻中U-155を含む3隻のみだった。

イギリスを青ざめさせる大飯食らいは史上最年少の艦長に率いられる

1939年9月25日AGウェザー社のブレーメン所に発注1941年1月10日にヤード番号997の仮称を与えられて起工し、同年5月12日に進8月23日工した。初代艦長にアドルフコーネリアス・ピニング中尉が着任。ピニング中尉20歳という全Uボート中最年少の艦長であった。工日より第4潜隊群に編入され、諸工事や慣熟訓練に従事。

1941年8月23日午前10時ブレーメンで試運転を実施。8月25日ブレーメンを出港し、ヴェーザーミュンデとフレンブルクに寄港しながらカイザーヴィルヘルム運河を通過8月27日キールへ入港して9月10日まで試験を受ける。9月11日キールを出港。バルト方面に進んでロンネに入港し、水中聴音機のテストを実施した後、シュヴィーネミュンデを経由してダンツィヒに回航。9月16日から19日まで訓練と試験に従事する。9月20日から25日にかけてゴーテンハーフェンで、9月26日と翌27日はダンツィヒで訓練。9月30日から10月31日までシュテッティンのオーデル造所に入渠して工事を受ける。

11月1日に出渠したU-155はバルトに戻り、11月3日から11日にかけてヘラ半島で訓練。11月14日から12月8日までダンツィヒで第25潜隊群と魚雷発射訓練や戦闘演習を行う。12月10日からはゴーテンハーフェンで10日間、第27潜隊群と訓練。12月23日にシュテッティンに寄港して入渠整備。

1942年1月24日、出渠したU-155はU-154とともにシュテッティンを出発してシフィノウィシチェ経由でキールに向かうが、中で流氷に接触したらしく、1月30日キールへ入港した後に損傷が認められた。このため戦闘に必要な機器を取り付ける工事と並行して修理も行われている。

1942年

先立つこと1941年12月8日、同盟大日本帝國アメリカ宣戦布告したため、12月11日ドイツアメリカに対して宣戦布告グリア号事件カーニー号事件等で宣戦布告戦闘状態となっていた独が本格的な戦闘を始めた。これに伴ってアメリカにも堂々と攻撃を仕掛けられるようになり、カール・デーニッツ提督アメリカ東海での通商破壊こと「パウケンシュラーク作戦」を発動。既に第一大西洋を横断して東海で暴れ回っていた。長大な航続距離を持つIXCのU-155もこの作戦に参加する事に。

1回目の戦闘航海

1942年2月7日午前11時40分、キールを出撃。カイザーヴィルヘルム運河を通過してスカゲラ峡から北上し、翌8日15時50分にヘリゴランに寄港して燃料補給。2月9日18時45分に出撃し、シェトランド諸北方を回って北大西洋へと進出する。2月14日、U-155、U-158、U-162は補給せず東海へ向かうよう命じられる。2月19日、U-155、U-154、U-158、U-162は良好な狩り場に差し掛かったが、かれこれ2週間獲物となる船舶の往来がかったため、通商破壊を行わず通過した。

2月22日午前6時11分、U-155は南西方向へ向けて低速で航行するONS-67団を捕捉して追跡。部より4時間おきに位置情報を送信するよう示される。午前8時15分に急速潜航し、4分後、ケープフェアウェル南方でセントジョーンズに向かっているONS-67団に3本の魚雷を発射。ノルウェー船舶サマ(1799トン)とデレ(7984トン)を同時に撃沈する戦果を挙げる。しかし護衛艦艇から爆雷投下を受けて一時的に接触が途絶えた。位置情報を聞きつけたU-158が近くに現れ、ONS-67団の追跡を引き継いだ。2月23日午前2時、U-558が打った団発見の報が届き、翌24日午前9時18分にU-158が攻撃に成功したと連絡してきた。15時49分、U-155は敵団を探しめて移動を開始。しかしU-158が提示した位置情報は実際の位置と大きく間違っており、西へ移動したものの発見には至らなかった。2月25日、U-155、U-158、U-162はノースカロライナ州ハッテラスに向かい、翌日到着。U-155は北U-158とU-162は南を攻撃エリアに定められた。

3月7日21時10分、ハッテラスから81里の地点でブラジルアラブタン(7814トン)を発見。中立マークが見られなかったため4分後に急速潜航して雷撃し、102後に命中、13分後に撃沈せしめる。積み荷の9680トン石炭コークスの中に沈んだ。アラブタンは5番に喪失したブラジルとなった。東海からの退却を始めた3月10日連合軍の哨戒機に襲われ、乗組員1人がへと投げ出されて溺死3月11日、敵の貨物船を発見。だがその直後に敵機が出現し、3発の投弾を受ける。貨物船と敵機は青色の信号で連携しており、この貨物船Uボートに対するであった。3月13日、ピニング艦長にUボート戦闘章の授与が決定。

3月27日午前10時5分、ドイツ占領下のロリアンへ帰投。初陣で3隻を撃沈する上々の滑り出しを見せた。

2回目の戦闘航海

4月24日19時30分、ロリアンを出撃。U-155とU-156パナマを攻撃エリアに定められ、南米方面に長駆する。ところが5月5日パナマでの敵船舶の往来が減少している事を受け、獲物が豊富にいるトリニダー300里圏内を狩り場にするよう命が下る。カリブ石油アルミニウムを積んだ連合船舶が多く往来しており、敵の戦争経済に打撃を与えるのに適していた。5月13日17時、2隻の駆逐艦を伴いながら航空支援を受ける3隻の大を発見。5月14日午前4時ベルギーブラバンド(2483トン)をカリブ東部で雷撃。1本の魚雷が右舷に命中し、撃沈した。5月16日、4日間監視した結果、ポート・オブスペイン船舶交通量が多いと部に報告。

5月17日午前0時3分、敵タンカーを発見して急速潜航。午前1時14分に最初の雷撃を仕掛けたが失敗。6分後、U-155は浮上して追いすがり、午前2時17分に2本の魚雷を発射。武装商サン・ビクトリオ(8136トン)に命中させるが、直後に敵哨戒機がすっ飛んできたため潜航しなければならなかった。確認こそ出来なかったが、サン・ビクトリオ沈没した。員51名中50名が死亡。同日午前7時29分、キングタウン南方武装商チャレンジャー(7667トン)を発見し、午前8時45分に雷撃するが外れる。午前9時52分、2本の魚雷を発射し、今度は命中させる。U-155の存在に気付いたチャレンジャー救難信号を放ちながらで応戦。だが発生した炎がを蝕み、8400トンの一般貨物を抱えて沈没していった。U-155は満月の期間中、ベネズエラの北航路を攻撃する。

5月20日午前5時30分にキュラソーからケープタウンに向かっているOT-1団を発見するも、護衛艦艇や敵機によって潜航退避を強いられる。り強く追跡を続けた後、13時21分に艦尾魚雷発射管から2本の魚雷を発射し、このうちの1本がパナマ蒸気シルバアロー(7797トン)の体中央部に命中。爆発衝撃で燃料が流れ出し、たちまち引火しては炎に包まれてゆく。一部の乗組員は2隻の救命艇に乗って逃げ出す中、便乗していたアメリカ海軍の武装隊員はを構えてU-155の浮上を待ち続けたが、浮上しなかったため火の手から逃れるべく外へ脱出。別の武装隊員は備で反撃しようと甲を走り続けている時に噴出するによって視界を奪われてへ転落、絡みついたが重しとなってそのまま溺死してしまった。翌、浮上したU-155は瀕死状態のシルバアローを発見するが、警備の厳重さからトドメを刺す事は出来なかった。残された体は航を試みられたが5月28日沈没。攻撃後、満月の期間が終わったため狩り場を別の場所へと移す。

5月23日21時30分、キングトンから出港する敵船舶を発見。22時4分、中より雷撃してパナマワトソンビル(2220トン)の尾に命中。16分以内に沈没させた。ついでにキングトン港内を偵察し、船舶の不在を部に打電している。

5月27日19時5分、オランダ貨物船ポセイドン(1928トン)を発見したため20時56分に潜航。だが魚雷を発射する前に敵ジグザグ運動を始めてしまい、雷撃の機会を逸する。22時53分に浮上して追跡し、十分に距離を詰めた翌28日午前2時38分に潜航。午前3時10分、2本の魚雷で攻撃するが失敗。再び距離を離されてしまい、水上航行で追跡。午前4時に潜航しての中から狙いを定める。午前6時9分に絶好の機会が巡ってきた。発射された2本の魚雷のうち1本がポセイドンに直撃。機関室が爆発した後、尾から沈没した。員32名全員死亡。戦果を挙げたが、この襲撃の際にコンパスが故障してしまい、狩り場から退却する。5月30日午前0時30分、ブリッジタウン北東で敵貨物船を発見し、午前3時12分に潜航。午前3時33分に2本の魚雷を発射するも外れてしまい、15分後に浮上して追跡を行う。午前6時39分、距離を詰めて再び潜航。午前6時51分に2本の魚雷を発射して命中させたが、不発で終わってしまう。れを切らしたU-155は浮上、午前7時28分より甲を撃ち込んでノルウェー貨物船バグダッド(1161トン)を撃沈。生存者を尋問したのち帰路についた。

6月11日午前11時30分、U-105が「敵の護衛艦艇に追われている」との通信を最後に消息を絶つ。24時になってもU-105の応答がかったため、部は近くにいたU-155、U-505、U-506、U-751に「明るくなり次第、捜索を開始せよ」と命。幸いにもU-105は合いにいる事が確認され、元の航路へと戻った。6月14日19時35分、ロリアンに帰港。2回戦闘は7隻(3万2329トン)撃沈という実りある航となった。

3回目の戦闘航海

7月9日20時30分、ロリアンを出撃。大西洋を横断して南米スリナム通商破壊を行う。ドイツ海軍パウケンシュラーク作戦で大損を受けた連合軍は東海の対潜警を強めたが、カリブは遅々として対策が進んでおらず獲物が護衛しで航行している最良の狩り場だった。7月11日、U-155は日中に5機の敵機を撃し、間に2回の敵の通信を傍受したと報告する。7月23日U-183に燃料補給。

7月27日21時23分、蒸気の煙を発見。敵の前方に回り込み、翌28日午前1時15分に潜航。発射した魚雷2本が外れてしまい、午前2時5分に浮上して追いかける。4時間以上の追跡の末、午前6時16分に再度潜航。そして午前7時15分、2本の魚雷を発射。今度は2本ともブラジル蒸気貨物船バルセナ(4772トン)に命中。行き先のニューヨークに辿り着く事く、20分以内に沈没した。同日20時25分、ブリッジタウン南東で線上のマストを発見し、21時5分に潜航。22時31分、ブラジルピアーヴェ(2347トン)の尾に魚雷を命中させて撃沈。1日に2隻を仕留める事に成功した。

7月29日18時35分、ジョージタウン北東で線の先にマストの先端を発見。20時頃、ノルウェー貨物船ビル(2445トン)を雷撃により8分以内に撃沈。U-155は救命ボートで脱出した生存者のもとに行き、負傷者の治療と陸地への航路を示。船長を捕虜とした。7月30日18時7分、蒸気の煙を発見して19時28分に潜航。30分後、雷撃してクランフォード(6096トン)の前部に命中させ、4分以内に沈没生存者の尋問を行った後、前回同様負傷者の治療と陸地への航路を教え、退却した。7月31日21時7分、1500トンマンガン鉱石を積んでカナダのセントジョンに向かっているケンタ(5878トン)のマストを発見。8月1日午前2時20分、2本の魚雷を発射して1本を命中させるが、ケンタルは然と航行を続けていた。午前3時10分、やむなく浮上して右舷側から水上撃を仕掛けると3分以内に沈没した。8月1日15時8分、蒸気の煙を発見して16時59分に潜航。17時58分、ブリッジタウン南西で武装商クラン・マクノートン(6088トン)に2本の魚雷を命中させる。しかしクラン・マクノートンは中々沈まず、名や位置情報海軍に送信している様子だった。トドメを刺そうにも予想以上に重武装のため近づけず、自然に沈むまで15分もの時間を要した。

8月2日、これより帰投するU-155、U-190、U-306、U-648には日中は潜航退避、間はスペイン沿を航行するよう命じられる。いざという時は枢軸の中立スペイン逃げ込めという意味だった。

8月4日13時13分、いつものように線に立ち上る蒸気の煙を発見して潜航。16時15分、南米大陸北東でトリニダードからケープタウンを経由してスエズに向かう途中のEF-6団に雷撃を行い、蒸気貨物船エンパイア・アーノルド(7045トン)の右舷側に命中させて10分以内に撃沈。戦車航空機を含む1万トンの軍需品がの藻となった。撃沈後、船長フレデリック・テイトを捕虜とした。8月5日午前11時45分、汽マストを発見して接近。どうやら非武装らしく、U-155は魚雷節約のため13時30分から水上撃を開始。2時間の射撃ドラコ(389トン)は力尽きて沈んだ。8月8日23時8分、U-155はパラマリボ北東で初めて大規模な獲物…E-7団を発見して追跡。翌9日午前3時24分、E-7団に2本の魚雷を発射。うち1本は貨物船サン・エミリアーノ(8071)トンに直撃。積み荷の航空燃料1万1286トンに引火して大爆発が生じ、損傷を避けるためU-155は潜航を強いられた。サン・エミリアーノは火だるまになりながら体を二つに折って沈没していった。8月10日午前、パラマリボ北東でマストの先端を発見。接近すると小さなモーターだと分かり、18時50分より撃してトラボンを大破炎上員は脱出し、U-155も域を去った。5時間後、一度は脱出した員たちが戻ってきたが、もはや復旧はわず放棄された。

8月11日、U-155とU-306は敵に気付かれる事スペイン沿通過し、ビスケー湾に到達。どうやら連合軍にまだ発見されていない秘密の抜けだった。8月13日、これまでの功績によりピニング艦長に騎士十字章が授与される。9月15日午前9時ロリアンに帰投。10隻(4万3518トン)の撃沈に成功した。

4回目の戦闘航海

11月7日16時30分、ロリアンを出港。しかし間もなく部は連合軍の怪しい動きを察知し、U-155、U-103、U-108、U-130、U-173、U-510、U-515を北アフリカ西方面に向かわせる。その悪い予感は的中してしまう事になる。

11月8日、トーチ作戦により連合軍の大部隊が北アフリカモロッコアルジェに上陸。デーニッツ提督海軍に助言をめる前にケープベルデ北大西洋、ジブラルタル付近にいるUボート31隻をモロッコ沿に向かわせた。U-155も迎撃に向かい、ジブラルタル西方急行する。11月9日大西洋と地中海にいるU-103、U-108、U-130、U-173、U-411、U-510、U-515とともにウルフパック「Schlagtot」を編制し、可な限りの最高速力で作戦域に向かう。11月12日、U-411、U-91、U-515とジブラルタル西方で待ちせる。連合軍もまたUボートの襲撃を予期しており、陸地とからの厳重な警で迎え撃った。

厳しい対潜警網に苦しめられながらも11月15日午前3時45分、ジブラルタル北西120里でジブラルタルからグラスゴーに向かっているMFY-1Y団を捕捉。午前4時14分に4本の魚雷を発射し、アルマック護衛空母アベンジャー(1万3785トン)、軍隊輸送トリック(1万1279トン)に命中。アルマックは浸被害により航行不能に陥ったものの速なダメージコントロールにより一命を取り留めた。しかし乗組員4名が死亡機関室の爆発で4名が酷い火傷を負った。アベンジャー体中央部に命中した魚雷により爆弾誘爆し、2分以内に沈没。乗員470名が戦死、生き残った者は僅か12名に留まった。エトリックもまた助からなかったが、こちらは死者24名だけで済み、250名が生還している。一度の攻撃で2万トン以上の戦果を挙げたU-155だった。

連合軍は北アフリカ護衛艦艇を集中させた弊で、大西洋を航行する団の護衛が手薄になった。これを好機と捉えたデーニッツ提督ジブラルタルUボートにアゾレス西方へ移動するよう命じ、11月16日よりU-155はジブラルタル西方から脱出。北大西洋方面で北アフリカに送り込まれる敵増援の撃滅を図る。実際、ジブラルタル西方の対潜警は厳重すぎてバッテリー充電すらままならない状況だった。11月17日、U-155はジブラルタル方面の対潜警が厳重だと報告。上には哨戒機が絶え間なく飛び回り、水上では駆逐艦と対潜トロールらせていて、騎士十字章を持つ経験豊富なピニング艦長ですら攻撃の自由かった。同日21時15分、U-564が敵団を発見。U-155もU-81やU-511とともに団発見の報を出し、U-511と雷撃を仕掛けるも敵団が高速だったため失敗。追跡を断念して元の域に戻った。11月20日オイルポンプの修理を必要とするU-118のもとへ出発し、翌日合流して部品を提供する。11月23日よりが欠けて暗闇が支配する時期になり、Uボート狩りを後押しする。しかし翌24日、U-155は「レーダーに引っかかるのは哨戒艇くらいで、相変わらず海岸から500マイル圏内はの監視が強固であり、日中は潜航し続けなければならない。攻撃を成功させるには哨戒機行動範囲外に出る必要がある」と悲鳴のような報告を打っている。11月25日部はU-155のピニング艦長とU-130艦長に、攻撃成功の可性と最後に見た連合軍の対潜警の状況について意見をめた。

12月6日19時50分、線に浮かぶマストの先端を発見して接近。22時6分、アゾレス北西約400里で前日ON-149団から分散した蒸気セロスケルク(8456トン)に向けて2本の魚雷を発射。1本が右舷に命中して洋上に停止させる。19時50分に浮上して観察していたU-155だったが、沈む気配がかったので23時17分より再度雷撃。それでも若干尾が沈下した程度であり、23時55分に三度の雷撃を実施。この一撃がトドメとなったのか、セロスケルクは2分以内に沈没していった。被雷時の爆発に巻き込まれたらしく、108全員死亡した。12月12日、燃料タンクの破損に伴って燃料の補給を部にめるが、12月14日に損傷して潜航も難しいU-91への燃料補給を逆に命じられ、12月18日にU-91に燃料補給を実施。12月30日午前9時45分にロリアンへ帰投した。輸送2隻(1万9735トン)と護衛空母1隻(1万3785トン)を撃沈して大戦果にありつけた。

1943年

5回目の戦闘航海

1943年2月8日16時20分、ロリアンを出撃。ビスケー湾を南西に向けて進み、北大西洋を通過3月6日にカリブへ到達した。この域には燃料やアルミニウムを運ぶ連合船舶が往来していて、大西洋に次ぐ良好な狩り場と言えた。カリブを北西に進みながらメキシコ湾に進出。4月2日午前0時8分、ハバナの西方ノルウェー貨物船リセフィヨルド(1091トン)を捕捉して潜航。しかしU-155の存在に気付いたのかジグザグ運動を始め、浮上しての追跡に切り替えなければならなかった。午前4時41分、狙いすました2本の魚雷を発射し、1本がリセフィヨルドに命中。5分内に沈没させた。4月3日午前8時5分、フロリ峡にてアメリカ蒸気貨物船ガルフステート(6882トン)を発見。敵原油6万8417バレルを抱えていた。午前9時3分、2本の魚雷を発射。船橋機関室にそれぞれ命中してく間に炎上し、10分以内に沈没ガルフステートを仕留めた後は帰路につく。4月27日ビスケー湾に差し掛かったところで敵機の襲撃を受けたが、対空砲火で撃退。4月30日14時30分にロリアンへ帰投した。

6回目の戦闘航海

6月10日14時ロリアンを出撃。今やビスケー湾の制権は連合軍に握されていて、相次ぐ敵機の襲撃を迎撃するためビスケー湾を出るまでは僚艦と艦隊を組むよう命じられていた。U-155はU-68、U-159、U-415、U-634と即席の艦隊を組んでビスケー湾の出口す。6月14日午前9時29分、コルーニャ北方で予想通り空軍307航空隊所属のモスキート戦闘機4機が襲い掛かってきた。敵機はまずU-68を機掃射し、次にU-155を撃してきたが、U-155の反撃によりモスキート1機の左舷エンジンに命中弾を与える。その敵機はよろよろとコーンウォールのプレダナック基地へ帰投したが、胴体着陸をして機体は失われた。他の敵機はUボートの強力な対空砲火に阻まれて攻撃を断念。被害を受けたのはU-68とU-155のみに留まり、U-155乗員5名が負傷。同じく損傷を負ったU-68とともに基地への帰投を余儀なくされ、6月16日15時40分にロリアンへ戻った。

7回目の戦闘航海

6月30日15時修理を終えたU-155はロリアンを出港。今度は敵機の攻撃はく、事に大西洋へ出る事が出来た。カーボベルデ北東を狩り場に遊したが獲物を見つけられず、7月22日日本勢力圏下のペナンへ向かうU-168やU-188と合流して燃料を補給。幸運にも2隻はペナンまで辿り着いた。43日間の戦闘を経て8月11日17時33分にロリアンに帰投した。9月18日18時ロリアンを出発し、翌19日22時45分ブレストへ入港。

8回目の戦闘航海

9月21日16時10分、ブレストを出撃。一気に足を伸ばしてブラジル北東狩り場に定める。10月中、U-488と合流して燃料と食糧の補給を受けた。10月24日午前3時50分、ノルウェーサイレンジャー(5393トン)を捕捉。5時間以上の追跡を続けた末、午前9時10分に2本の魚雷を発射して右舷に命中させる。乗組員と乗客は3隻の救命艇に分乗してを放棄した。浮上したのちU-155は捕虜を得ようと2名の男性が乗っている救命艇に近づく。乗っていたエンジニアは「後で必ず戻るから一時に戻らせて欲しい」と懇願してきたため、U-155は腕を負傷した三等航オットーフリース・ハンセンを人質にする条件で許可エンジニアに向かい、そして約束通り戻ってU-155の捕虜となった。ちゃんと約束を守った見返りとしてU-155の軍医が三等航士の腕の手術を行った。11月21日、敵機の攻撃を受けて深刻な被害を受けたため戦闘を断念。帰路に就いた。1944年1月1日午前9時30分、ロリアンに帰投。捕虜となっていた2名はここで降ろされ、ブレーメン近郊の捕虜収容所に移送。

1944年

9回目の戦闘航海

1944年3月5日19時ロリアンを出港するが、軍港を狙った襲に巻き込まれて損傷し、翌6日18時25分にロリアンへ引き返した。修理を終えた3月11日18時45分、再度ロリアンを出撃。南アフリカサントアントニオまで進出するが獲物に恵まれず帰投する。しかし6月6日連合軍がノルマンディーへ上陸した事でフランス方面の状況は一変していた。6月23日ロリアンの眼前まで戻ってきたU-155はイギリス空軍モスキート戦闘機に攻撃され、乗組員2名が死亡、7名が負傷させられる被害を受ける。何とか午前6時30分にロリアンへ逃げ込めたが、もはやフランスは安全な場所ではなかった。

8月に入ると連合軍はロリアンとブレストを制圧しようとブルターニュ半島を進撃。デーニッツ提督南部にあるボルドーまたはラ・パリスへの退避を命じたが、連合軍の進撃速度は非常に速く、8月中旬にはアメリカ軍の姿が見えるようになってきた。そこで在フランスの全てのUボートノルウェー方面に脱出するよう命じられた。ロリアンに停泊中のU-155は急ぎ整備を進めると同時に新兵器シュノーケルを装備。

10回目の戦闘航海

そして連合軍の包囲が閉じる寸前の9月9日ロリアンを出港し、最後に退避したUボートとなった。フランスから続々と脱出してくるUボートを沈めようと連合軍は航空攻撃を仕掛けてきたが、当時のレーダーの性ではシュノーケルを捉えられず、易々と包囲網を突破する事に成功。ロリアンを脱したU-155は西進したのち、アイルランド西方北上連合軍はUボートの通りであるアイスランドフェロー諸島間の域に厳重な航空を敷いていたものの、この網も突破して北海へ入り、10月17日19時50分にクリスチャンサンへ寄港。翌18日18時に出港してフレデリクスハウンを経由して10月23日19時フレンブルクへ到着。実に22隻のUボートフランスからの脱出に成功していた。

以降、U-155は戦闘に出る事はかった。

1945年

ドイツ敗北が差し迫った1945年5月4日、U-155、U-680、U-1233の3隻はノルウェーに脱出するため出港。その中で爆撃機を護衛していたアメリカ軍ムスタング戦闘機に発見され、6回に渡って攻撃を受ける。対するU-155も対空砲火で反撃に転じてムスタング1機を撃墜、予想外の反撃を受けた敵機は離脱していった。最後の勝利を収めたのも束の間、15時14分にデーニッツ提督から戦闘中止命が下ったため、U-155はヴィルヘルムスハーフェンへ移動して翌日イギリス軍に投降。

12月21日デッドライト作戦によりスコットランド処分された。

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