U-155とは、第二次世界大戦中にドイツ海軍が建造・運用したIXC型Uボートの1隻である。1941年8月23日竣工。連合軍船舶25隻(12万6664トン)と護衛空母1隻(1万3785トン)を撃沈する戦果を挙げ、モスキート戦闘機1機とムスタング戦闘機1機を撃墜した。ドイツ敗戦直前の1945年5月5日に連合軍に降伏し、12月21日のデッドライト作戦で海没処分。
概要
U-155は54隻生産されたIXC型の1隻。前級IXB型の船体を0.26m延伸し、船殻の間に燃料タンクを増設して航続距離を1450海里増大したタイプであり、より遠方まで長駆しての通商破壊が可能になった。建造費は644万8000ライヒスマルク。司令塔にはエンブレムとして都市シュヴェルムの紋章が刻まれた。
諸元は排水量1120トン、全長76.76m、全幅6.76m、最大速力18.3ノット(水上)/7.3ノット(水中)、燃料搭載量208トン、安全潜航深度100m、急速潜航秒時35秒、乗組員44名。武装は53.3cm魚雷発射管6門(艦首4門、艦尾2門)、魚雷22本、10.5cm単装砲1門、37mm単装機関砲1門、20mm単装機関砲1門。
IXC型は戦果こそ挙げたが損耗率が非常に高く、終戦時に生き残っていたのは54隻中U-155を含む3隻のみだった。
イギリスを青ざめさせる大飯食らいは史上最年少の艦長に率いられる
1939年9月25日、AGウェザー社のブレーメン造船所に発注。1941年1月10日にヤード番号997の仮称を与えられて起工し、同年5月12日に進水、8月23日に竣工した。初代艦長にアドルフ・コーネリアス・ピニング中尉が着任。ピニング中尉は20歳という全Uボート中最年少の艦長であった。竣工日より第4潜水隊群に編入され、諸工事や慣熟訓練に従事。
1941年8月23日午前10時、ブレーメンで試運転を実施。8月25日にブレーメンを出港し、ヴェーザーミュンデとフレンスブルクに寄港しながらカイザーヴィルヘルム運河を通過。8月27日にキールへ入港して9月10日まで試験を受ける。9月11日、キールを出港。バルト海方面に進んでロンネに入港し、水中聴音機のテストを実施した後、シュヴィーネミュンデを経由してダンツィヒに回航。9月16日から19日まで訓練と試験に従事する。9月20日から25日にかけてゴーテンハーフェンで、9月26日と翌27日はダンツィヒで訓練。9月30日から10月31日までシュテッティンのオーデル造船所に入渠して工事を受ける。
11月1日に出渠したU-155はバルト海に戻り、11月3日から11日にかけてヘラ半島で訓練。11月14日から12月8日までダンツィヒで第25潜水隊群と魚雷発射訓練や戦闘演習を行う。12月10日からはゴーテンハーフェンで10日間、第27潜水隊群と訓練。12月23日にシュテッティンに寄港して入渠整備。
1942年1月24日、出渠したU-155はU-154とともにシュテッティンを出発してシフィノウィシチェ経由でキールに向かうが、道中で流氷に接触したらしく、1月30日にキールへ入港した後に損傷が認められた。このため戦闘に必要な機器を取り付ける工事と並行して修理も行われている。
1942年
先立つこと1941年12月8日、同盟国の大日本帝國がアメリカに宣戦布告したため、12月11日にドイツもアメリカに対して宣戦布告。グリア号事件やカーニー号事件等で宣戦布告無き戦闘状態となっていた米独が本格的な戦闘を始めた。これに伴ってアメリカ商船にも堂々と攻撃を仕掛けられるようになり、カール・デーニッツ提督はアメリカ東海岸での通商破壊こと「パウケンシュラーク作戦」を発動。既に第一陣が大西洋を横断して東海岸沖で暴れ回っていた。長大な航続距離を持つIXC型のU-155もこの作戦に参加する事に。
1回目の戦闘航海
1942年2月7日午前11時40分、キールを出撃。カイザーヴィルヘルム運河を通過してスカゲラク海峡から北上し、翌8日15時50分にヘリゴラント島に寄港して燃料補給。2月9日18時45分に出撃し、シェトランド諸島北方を回って北大西洋へと進出する。2月14日、U-155、U-158、U-162は補給せず東海岸沖へ向かうよう命じられる。2月19日、U-155、U-154、U-158、U-162は良好な狩り場に差し掛かったが、かれこれ2週間獲物となる船舶の往来が無かったため、通商破壊を行わず通過した。
2月22日午前6時11分、U-155は南西方向へ向けて低速で航行するONS-67船団を捕捉して追跡。司令部より4時間おきに位置情報を送信するよう指示される。午前8時15分に急速潜航し、4分後、ケープフェアウェル南方でセントジョーンズに向かっているONS-67船団に3本の魚雷を発射。ノルウェー船舶サマ(1799トン)と英商船アデレン(7984トン)を同時に撃沈する戦果を挙げる。しかし護衛艦艇から爆雷投下を受けて一時的に接触が途絶えた。位置情報を聞きつけたU-158が近くに現れ、ONS-67船団の追跡を引き継いだ。2月23日午前2時、U-558が打った船団発見の報が届き、翌24日午前9時18分にU-158が攻撃に成功したと連絡してきた。15時49分、U-155は敵船団を探し求めて移動を開始。しかしU-158が提示した位置情報は実際の位置と大きく間違っており、西へ移動したものの発見には至らなかった。2月25日、U-155、U-158、U-162はノースカロライナ州ハッテラス岬沖に向かい、翌日到着。U-155は北岸、U-158とU-162は南岸を攻撃エリアに定められた。
3月7日21時10分、ハッテラス岬から81海里の地点でブラジル商船アラブタン(7814トン)を発見。中立国のマークが見られなかったため4分後に急速潜航して雷撃し、102秒後に命中、13分後に撃沈せしめる。積み荷の9680トンの石炭とコークスが海の中に沈んだ。アラブタンは5番目に喪失したブラジル国籍船となった。東海岸からの退却を始めた3月10日、連合軍の哨戒機に襲われ、乗組員1人が海へと投げ出されて溺死。3月11日夜、敵の貨物船を発見。だがその直後に敵機が出現し、3発の投弾を受ける。貨物船と敵機は青色の信号灯で連携しており、この貨物船はUボートに対する罠であった。3月13日、ピニング艦長にUボート戦闘章の授与が決定。
3月27日午前10時5分、ドイツ占領下のロリアンへ帰投。初陣で3隻を撃沈する上々の滑り出しを見せた。
2回目の戦闘航海
4月24日19時30分、ロリアンを出撃。U-155とU-156はパナマ沖を攻撃エリアに定められ、南米方面に長駆する。ところが5月5日、パナマ沖での敵船舶の往来が減少している事を受け、獲物が豊富にいるトリニダード300海里圏内を狩り場にするよう命令が下る。カリブ海は石油やアルミニウムを積んだ連合軍船舶が多く往来しており、敵の戦争経済に打撃を与えるのに適していた。5月13日17時、2隻の駆逐艦を伴いながら航空支援を受ける3隻の大型客船を発見。5月14日午前4時、ベルギー商船ブラバンド(2483トン)をカリブ海東部で雷撃。1本の魚雷が右舷に命中し、撃沈した。5月16日、4日間監視した結果、ポート・オブ・スペインの船舶交通量が多いと司令部に報告。
5月17日午前0時3分、敵タンカーを発見して急速潜航。午前1時14分に最初の雷撃を仕掛けたが失敗。6分後、U-155は浮上して追いすがり、午前2時17分に2本の魚雷を発射。英武装商船サン・ビクトリオ(8136トン)に命中させるが、直後に敵哨戒機がすっ飛んできたため潜航しなければならなかった。確認こそ出来なかったが、サン・ビクトリオは沈没した。船員51名中50名が死亡。同日午前7時29分、キングスタウン南方で米武装商船チャレンジャー(7667トン)を発見し、午前8時45分に雷撃するが外れる。午前9時52分、2本の魚雷を発射し、今度は命中させる。U-155の存在に気付いたチャレンジャーは救難信号を放ちながら砲で応戦。だが発生した炎が船を蝕み、8400トンの一般貨物を抱えて沈没していった。U-155は満月の期間中、ベネズエラの北岸航路を攻撃する。
5月20日午前5時30分にキュラソー島からケープタウンに向かっているOT-1船団を発見するも、護衛艦艇や敵機によって潜航退避を強いられる。粘り強く追跡を続けた後、13時21分に艦尾魚雷発射管から2本の魚雷を発射し、このうちの1本がパナマ蒸気船シルバンアロー(7797トン)の船体中央部に命中。爆発の衝撃で燃料が流れ出し、たちまち引火して船は炎に包まれてゆく。一部の乗組員は2隻の救命艇に乗って逃げ出す中、便乗していたアメリカ海軍の武装隊員は銃を構えてU-155の浮上を待ち続けたが、浮上しなかったため火の手から逃れるべく船外へ脱出。別の武装隊員は備砲で反撃しようと甲板を走り続けている時に噴出する油によって視界を奪われて海へ転落、絡みついた油が重しとなってそのまま溺死してしまった。翌朝、浮上したU-155は瀕死状態のシルバンアローを発見するが、警備の厳重さからトドメを刺す事は出来なかった。残された船体は曳航を試みられたが5月28日に沈没。攻撃後、満月の期間が終わったため狩り場を別の場所へと移す。
5月23日21時30分、キングストンから出港する敵船舶を発見。22時4分、海中より雷撃してパナマ商船ワトソンビル(2220トン)の船尾に命中。16分以内に沈没させた。ついでにキングストン港内を偵察し、船舶の不在を司令部に打電している。
5月27日19時5分、オランダ貨物船ポセイドン(1928トン)を発見したため20時56分に潜航。だが魚雷を発射する前に敵船がジグザグ運動を始めてしまい、雷撃の機会を逸する。22時53分に浮上して追跡し、十分に距離を詰めた翌28日午前2時38分に潜航。午前3時10分、2本の魚雷で攻撃するが失敗。再び距離を離されてしまい、水上航行で追跡。午前4時に潜航して海の中から狙いを定める。午前6時9分に絶好の機会が巡ってきた。発射された2本の魚雷のうち1本がポセイドンに直撃。機関室が爆発した後、船尾から沈没した。船員32名全員死亡。戦果を挙げたが、この襲撃の際にコンパスが故障してしまい、狩り場から退却する。5月30日午前0時30分、ブリッジタウン北東で敵貨物船を発見し、午前3時12分に潜航。午前3時33分に2本の魚雷を発射するも外れてしまい、15分後に浮上して追跡を行う。午前6時39分、距離を詰めて再び潜航。午前6時51分に2本の魚雷を発射して命中させたが、不発で終わってしまう。痺れを切らしたU-155は浮上、午前7時28分より甲板砲を撃ち込んでノルウェー貨物船バグダッド(1161トン)を撃沈。生存者を尋問したのち帰路についた。
6月11日午前11時30分、U-105が「敵の護衛艦艇に追われている」との通信を最後に消息を絶つ。24時になってもU-105の応答が無かったため、司令部は近くにいたU-155、U-505、U-506、U-751に「明るくなり次第、捜索を開始せよ」と命令。幸いにもU-105は沖合いにいる事が確認され、元の航路へと戻った。6月14日19時35分、ロリアンに帰港。2回目の戦闘哨戒は7隻(3万2329トン)撃沈という実りある航海となった。
3回目の戦闘航海
7月9日20時30分、ロリアンを出撃。大西洋を横断して南米スリナム沖で通商破壊を行う。ドイツ海軍のパウケンシュラーク作戦で大損害を受けた連合軍は東海岸沖の対潜警戒を強めたが、カリブ海は遅々として対策が進んでおらず獲物が護衛無しで航行している最良の狩り場だった。7月11日、U-155は日中に5機の敵機を目撃し、夜間に2回の敵の通信を傍受したと報告する。7月23日、U-183に燃料補給。
7月27日21時23分、蒸気船の煙を発見。敵船の前方に回り込み、翌28日午前1時15分に潜航。発射した魚雷2本が外れてしまい、午前2時5分に浮上して追いかける。4時間以上の追跡の末、午前6時16分に再度潜航。そして午前7時15分、2本の魚雷を発射。今度は2本ともブラジル蒸気貨物船バルバセナ(4772トン)に命中。行き先のニューヨークに辿り着く事無く、20分以内に沈没した。同日20時25分、ブリッジタウン南東で水平線上のマストを発見し、21時5分に潜航。22時31分、ブラジル商船ピアーヴェ(2347トン)の船尾に魚雷を命中させて撃沈。1日に2隻を仕留める事に成功した。
7月29日18時35分、ジョージタウン北東で水平線の先にマストの先端を発見。20時頃、ノルウェー貨物船ビル(2445トン)を雷撃により8分以内に撃沈。U-155は救命ボートで脱出した生存者のもとに行き、負傷者の治療と陸地への航路を指示。船長を捕虜とした。7月30日18時7分、蒸気船の煙を発見して19時28分に潜航。30分後、雷撃して米商船クランフォード(6096トン)の前部に命中させ、4分以内に沈没。生存者の尋問を行った後、前回同様負傷者の治療と陸地への航路を教え、退却した。7月31日21時7分、1500トンのマンガン鉱石を積んでカナダのセントジョンに向かっている蘭商船ケンタル(5878トン)のマストを発見。8月1日午前2時20分、2本の魚雷を発射して1本を命中させるが、ケンタルは平然と航行を続けていた。午前3時10分、やむなく浮上して右舷側から水上砲撃を仕掛けると3分以内に沈没した。8月1日15時8分、蒸気船の煙を発見して16時59分に潜航。17時58分、ブリッジタウン南西で英武装商船クラン・マクノートン(6088トン)に2本の魚雷を命中させる。しかしクラン・マクノートンは中々沈まず、船名や位置情報を海軍に送信している様子だった。トドメを刺そうにも予想以上に重武装のため近づけず、自然に沈むまで15分もの時間を要した。
8月2日、これより帰投するU-155、U-190、U-306、U-648には日中は潜航退避、夜間はスペイン沿岸を航行するよう命じられる。いざという時は親枢軸の中立国スペインへ逃げ込めという意味だった。
8月4日13時13分、いつものように水平線に立ち上る蒸気船の煙を発見して潜航。16時15分、南米大陸北東沖でトリニダードからケープタウンを経由してスエズに向かう途中のEF-6船団に雷撃を行い、英蒸気貨物船エンパイア・アーノルド(7045トン)の右舷側に命中させて10分以内に撃沈。戦車や航空機を含む1万トンの軍需品が海の藻屑となった。撃沈後、船長のフレデリック・テイトを捕虜とした。8月5日午前11時45分、汽船のマストを発見して接近。どうやら非武装らしく、U-155は魚雷節約のため13時30分から水上砲撃を開始。2時間の射撃で蘭商船ドラコ(389トン)は力尽きて沈んだ。8月8日23時8分、U-155はパラマリボ北東で初めて大規模な獲物…E-7船団を発見して追跡。翌9日午前3時24分、E-7船団に2本の魚雷を発射。うち1本は英貨物船サン・エミリアーノ(8071)トンに直撃。積み荷の航空燃料1万1286トンに引火して大爆発が生じ、損傷を避けるためU-155は潜航を強いられた。サン・エミリアーノは火だるまになりながら船体を二つに折って沈没していった。8月10日午前、パラマリボ北東でマストの先端を発見。接近すると小さなモーター船だと分かり、18時50分より砲撃して蘭小型船ストラボンを大破炎上。船員は脱出し、U-155も海域を去った。5時間後、一度は脱出した船員たちが戻ってきたが、もはや復旧は叶わず放棄された。
8月11日、U-155とU-306は敵に気付かれる事無くスペイン沿岸を通過し、ビスケー湾に到達。どうやら連合軍にまだ発見されていない秘密の抜け道だった。8月13日、これまでの功績によりピニング艦長に騎士十字章が授与される。9月15日午前9時、ロリアンに帰投。10隻(4万3518トン)の撃沈に成功した。
4回目の戦闘航海
11月7日16時30分、ロリアンを出港。しかし間もなく司令部は連合軍の怪しい動きを察知し、U-155、U-103、U-108、U-130、U-173、U-510、U-515を北アフリカ北西方面に向かわせる。その悪い予感は的中してしまう事になる。
11月8日、トーチ作戦により連合軍の大部隊が北アフリカのモロッコとアルジェに上陸。デーニッツ提督は海軍に助言を求める前にケープベルデ諸島、北大西洋、ジブラルタル付近にいるUボート31隻をモロッコ沿岸に向かわせた。U-155も迎撃に向かい、ジブラルタル西方へ急行する。11月9日、大西洋と地中海にいるU-103、U-108、U-130、U-173、U-411、U-510、U-515とともにウルフパック「Schlagtot」を編制し、可能な限りの最高速力で作戦海域に向かう。11月12日、U-411、U-91、U-515とジブラルタル西方で待ち伏せる。連合軍もまたUボートの襲撃を予期しており、陸地と空からの厳重な警戒で迎え撃った。
厳しい対潜警戒網に苦しめられながらも11月15日午前3時45分、ジブラルタル北西120海里でジブラルタルからグラスゴーに向かっているMFY-1Y船団を捕捉。午前4時14分に4本の魚雷を発射し、米商船アルダマック、英護衛空母アベンジャー(1万3785トン)、英軍隊輸送船エトリック(1万1279トン)に命中。アルダマックは浸水被害により航行不能に陥ったものの迅速なダメージコントロールにより一命を取り留めた。しかし乗組員4名が死亡、機関室の爆発で4名が酷い火傷を負った。アベンジャーは船体中央部に命中した魚雷により爆弾が誘爆し、2分以内に沈没。乗員470名が戦死、生き残った者は僅か12名に留まった。エトリックもまた助からなかったが、こちらは死者24名だけで済み、250名が生還している。一度の攻撃で2万トン以上の戦果を挙げたU-155だった。
連合軍は北アフリカに護衛艦艇を集中させた弊害で、大西洋を航行する船団の護衛が手薄になった。これを好機と捉えたデーニッツ提督はジブラルタル沖のUボートにアゾレス諸島西方へ移動するよう命じ、11月16日よりU-155はジブラルタル西方から脱出。北大西洋方面で北アフリカに送り込まれる敵増援の撃滅を図る。実際、ジブラルタル西方の対潜警戒は厳重すぎてバッテリーの充電すらままならない状況だった。11月17日、U-155はジブラルタル方面の対潜警戒が厳重だと報告。上空には哨戒機が絶え間なく飛び回り、水上では駆逐艦と対潜トロール船が目を光らせていて、騎士十字章を持つ経験豊富なピニング艦長ですら攻撃の自由は殆ど無かった。同日21時15分、U-564が敵船団を発見。U-155もU-81やU-511とともに船団発見の報を出し、U-511と雷撃を仕掛けるも敵船団が高速だったため失敗。追跡を断念して元の海域に戻った。11月20日、オイルポンプの修理を必要とするU-118のもとへ出発し、翌日合流して部品を提供する。11月23日より月が欠けて暗闇が支配する時期になり、Uボートの狩りを後押しする。しかし翌24日、U-155は「レーダーに引っかかるのは哨戒艇くらいで、相変わらず海岸から500マイル圏内は空と海の監視が強固であり、日中は潜航し続けなければならない。攻撃を成功させるには哨戒機の行動範囲外に出る必要がある」と悲鳴のような報告を打っている。11月25日、司令部はU-155のピニング艦長とU-130艦長に、攻撃成功の可能性と最後に見た連合軍の対潜警戒の状況について意見を求めた。
12月6日19時50分、水平線に浮かぶマストの先端を発見して接近。22時6分、アゾレス諸島北西約400海里で前日ON-149船団から分散した蘭蒸気船セロスケルク(8456トン)に向けて2本の魚雷を発射。1本が右舷に命中して洋上に停止させる。19時50分に浮上して観察していたU-155だったが、沈む気配が無かったので23時17分より再度雷撃。それでも若干船尾が沈下した程度であり、23時55分に三度目の雷撃を実施。この一撃がトドメとなったのか、セロスケルクは2分以内に沈没していった。被雷時の爆発に巻き込まれたらしく、船員108名全員が死亡した。12月12日、燃料タンクの破損に伴って燃料の補給を司令部に求めるが、12月14日に損傷して潜航も難しいU-91への燃料補給を逆に命じられ、12月18日にU-91に燃料補給を実施。12月30日午前9時45分にロリアンへ帰投した。輸送船2隻(1万9735トン)と護衛空母1隻(1万3785トン)を撃沈して大戦果にありつけた。
1943年
5回目の戦闘航海
1943年2月8日16時20分、ロリアンを出撃。ビスケー湾を南西に向けて進み、北大西洋を通過。3月6日にカリブ海へ到達した。この海域には燃料やアルミニウムを運ぶ連合軍船舶が往来していて、大西洋に次ぐ良好な狩り場と言えた。カリブ海を北西に進みながらメキシコ湾に進出。4月2日午前0時8分、ハバナの西方でノルウェー貨物船リセフィヨルド(1091トン)を捕捉して潜航。しかしU-155の存在に気付いたのかジグザグ運動を始め、浮上しての追跡に切り替えなければならなかった。午前4時41分、狙いすました2本の魚雷を発射し、1本がリセフィヨルドに命中。5分内に沈没させた。4月3日午前8時5分、フロリダ海峡にてアメリカ蒸気貨物船ガルフステート(6882トン)を発見。敵船は原油6万8417バレルを抱えていた。午前9時3分、2本の魚雷を発射。船橋と機関室にそれぞれ命中して瞬く間に炎上し、10分以内に沈没。ガルフステートを仕留めた後は帰路につく。4月27日夜、ビスケー湾に差し掛かったところで敵機の襲撃を受けたが、対空砲火で撃退。4月30日14時30分にロリアンへ帰投した。
6回目の戦闘航海
6月10日14時にロリアンを出撃。今やビスケー湾の制空権は連合軍に掌握されていて、相次ぐ敵機の襲撃を迎撃するためビスケー湾を出るまでは僚艦と艦隊を組むよう命じられていた。U-155はU-68、U-159、U-415、U-634と即席の艦隊を組んでビスケー湾の出口を目指す。6月14日午前9時29分、コルーニャ北方で予想通り英空軍第307航空隊所属のモスキート戦闘機4機が襲い掛かってきた。敵機はまずU-68を機銃掃射し、次にU-155を銃撃してきたが、U-155の反撃によりモスキート1機の左舷エンジンに命中弾を与える。その敵機はよろよろとコーンウォールのプレダナック基地へ帰投したが、胴体着陸をして機体は失われた。他の敵機はUボートの強力な対空砲火に阻まれて攻撃を断念。被害を受けたのはU-68とU-155のみに留まり、U-155乗員5名が負傷。同じく損傷を負ったU-68とともに基地への帰投を余儀なくされ、6月16日15時40分にロリアンへ戻った。
7回目の戦闘航海
6月30日15時、修理を終えたU-155はロリアンを出港。今度は敵機の攻撃は無く、無事に大西洋へ出る事が出来た。カーボベルデ諸島北東を狩り場に遊弋したが獲物を見つけられず、7月22日に日本勢力圏下のペナンへ向かうU-168やU-188と合流して燃料を補給。幸運にも2隻はペナンまで辿り着いた。43日間の戦闘航海を経て8月11日17時33分にロリアンに帰投した。9月18日18時にロリアンを出発し、翌19日22時45分ブレストへ入港。
8回目の戦闘航海
9月21日16時10分、ブレストを出撃。一気に足を伸ばしてブラジル北東沖を狩り場に定める。10月中、U-488と合流して燃料と食糧の補給を受けた。10月24日午前3時50分、ノルウェー商船サイレンジャー(5393トン)を捕捉。5時間以上の追跡を続けた末、午前9時10分に2本の魚雷を発射して右舷に命中させる。乗組員と乗客は3隻の救命艇に分乗して船を放棄した。浮上したのちU-155は捕虜を得ようと2名の男性が乗っている救命艇に近づく。乗っていたエンジニアは「後で必ず戻るから一時船に戻らせて欲しい」と懇願してきたため、U-155は腕を負傷した三等航海士オットー・フリース・ハンセンを人質にする条件で許可。エンジニアは船に向かい、そして約束通り戻ってU-155の捕虜となった。ちゃんと約束を守った見返りとしてU-155の軍医が三等航海士の腕の手術を行った。11月21日、敵機の攻撃を受けて深刻な被害を受けたため戦闘航海を断念。帰路に就いた。1944年1月1日午前9時30分、ロリアンに帰投。捕虜となっていた2名はここで降ろされ、ブレーメン近郊の捕虜収容所に移送。
1944年
9回目の戦闘航海
1944年3月5日19時にロリアンを出港するが、軍港を狙った空襲に巻き込まれて損傷し、翌6日18時25分にロリアンへ引き返した。修理を終えた3月11日18時45分、再度ロリアンを出撃。南アフリカのサントアントニオ島まで進出するが獲物に恵まれず帰投する。しかし6月6日に連合軍がノルマンディーへ上陸した事でフランス方面の状況は一変していた。6月23日早朝、ロリアンの眼前まで戻ってきたU-155はイギリス空軍のモスキート戦闘機に攻撃され、乗組員2名が死亡、7名が負傷させられる被害を受ける。何とか午前6時30分にロリアンへ逃げ込めたが、もはやフランスは安全な場所ではなかった。
8月に入ると連合軍はロリアンとブレストを制圧しようとブルターニュ半島を進撃。デーニッツ提督は南部にあるボルドーまたはラ・パリスへの退避を命じたが、連合軍の進撃速度は非常に速く、8月中旬にはアメリカ軍の姿が見えるようになってきた。そこで在フランスの全てのUボートはノルウェー方面に脱出するよう命じられた。ロリアンに停泊中のU-155は急ぎ整備を進めると同時に新兵器シュノーケルを装備。
10回目の戦闘航海
そして連合軍の包囲が閉じる寸前の9月9日にロリアンを出港し、最後に退避したUボートとなった。フランスから続々と脱出してくるUボートを沈めようと連合軍は航空攻撃を仕掛けてきたが、当時のレーダーの性能ではシュノーケルを捉えられず、易々と包囲網を突破する事に成功。ロリアンを脱したU-155は西進したのち、アイルランド西方で北上。連合軍はUボートの通り道であるアイスランド・フェロー諸島間の海域に厳重な航空哨戒を敷いていたものの、この哨戒網も突破して北海へ入り、10月17日19時50分にクリスチャンサンへ寄港。翌18日18時に出港してフレデリクスハウンを経由して10月23日19時に無事フレンスブルクへ到着。実に22隻のUボートがフランスからの脱出に成功していた。
1945年
ドイツの敗北が差し迫った1945年5月4日、U-155、U-680、U-1233の3隻はノルウェーに脱出するため出港。その道中で爆撃機を護衛していたアメリカ軍のムスタング戦闘機に発見され、6回に渡って攻撃を受ける。対するU-155も対空砲火で反撃に転じてムスタング1機を撃墜、予想外の反撃を受けた敵機は離脱していった。最後の勝利を収めたのも束の間、15時14分にデーニッツ提督から戦闘中止命令が下ったため、U-155はヴィルヘルムスハーフェンへ移動して翌日イギリス軍に投降。
12月21日、デッドライト作戦によりスコットランド沖で海没処分された。
関連項目
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