U-190とは、第二次世界大戦中にドイツ海軍が建造・運用したIXC/40型Uボートの1隻である。1942年9月24日竣工。通商破壊により2隻撃沈(7605トン)の戦果を挙げた。1945年5月8日のドイツ降伏まで生き残った後、カナダ海軍に投降して接収される。1947年10月21日、標的艦として海没処分。
概要
狩り場の拡大を目的として航続距離を向上させたIX型の中において高い完成度を誇るIXC型、その更なる改良型がIXC/40型である。IXC型以上の航洋能力と浮上能力を獲得しており、ドイツ本国やフランスから長駆してアメリカ東海岸やカリブ海にまで狩り場を拡げた。計87隻が建造されている。
U-190は折り畳み式シールドを備えた20mm対空機銃を持つ数少ないUボートであった。Uボート全体で見てもU-190を含め12隻しかいない。
異国で矜持を見せたヴァルキュリア
1940年11月4日、デシマーグAGヴェーザー社のブレーメン造船所に発注。1941年10月7日、ヤード番号1036の仮称を与えられて起工し、1942年6月8日に進水、同年9月24日に竣工した。初代艦長にマックス・ウィンターマイヤー大尉が着任。竣工日より第4潜水隊群に所属して慣熟訓練を行う。
1回目の戦闘航海
1943年2月20日午前8時30分、U-229、U-447、U-530、U-633、U-641、U-642、U-665とともにキールを出港。午前11時20分にグレートベルト海峡に差し掛かり、掃海艇の護衛を受けながら進む。翌21日午前11時15分、カデカット海峡にてイギリス軍が敷設したと思われる浮遊機雷を発見し、銃撃により処分。14時30分にスカゲラク海峡で2隻の哨戒艇と合流。U-190の側面を航行する。2月22日午前8時20分、僚艦と別れてドイツ占領下ノルウェーのクリスチャンサンに向かい、午前9時10分に霧の中のクリスチャンサンへ寄港。燃料補給を受けた。13時10分に出発し、18時20分にファルスンで仮泊して一晩を明かす。
2月23日午前8時5分、第5301巡視船の護衛を受けて出港。17時に護衛艦艇と別れて単独行動に移り、ノルウェーの沿岸に沿って航行。翌24日午前0時、スタヴァンゲルの西方に差し掛かり、味方と思われるUボートとすれ違った。アイスランド・フェロー諸島間を通過して狩り場の北大西洋に進出する。3月1日、第2潜水隊群へ転属。3月4日、ドイツ本国から出撃するUボートとフランス西方にいるUボート22隻からなるウルフパック「ノイラント」に参加。しかし戦果を得られず、3月6日からは「オストマーク」に加わる。
3月8日17時12分、ウィンターマイヤー艦長は独航する汽船を発見。21時55分、ケープフェアウェルの東方約500マイルでSC-121船団からはぐれた英商船エンパイアレイクランド(7015トン)に3本の魚雷を発射し、うち2本が命中して11分以内に撃沈。乗組員は救命艇に乗って船を放棄したが、行方不明になって間もないためか救助活動をされなかったようで、7805トンの貨物ともども乗組員64名全員が海に沈んだ。U-190は「オストマーク」が挙げた戦果の中で最も大きな獲物を仕留める事が出来た。3月11日に「オストマーク」は解散となり、充分な燃料を残していたU-190はそのまま「ストライカー」に属してHX-229船団を迎撃する。だが戦果を挙げられず、3月19日に「ストライカー」が解散した事で帰路に就く。3月23日、U-84と合流して燃料補給を受ける。3月25日、南西に向けて移動中のU-190は敵船を発見するが、Uボートに対する囮であるQシップを疑って素通りした。
2回目の戦闘航海
5月1日、ロリアンを出撃。大西洋を横断してアメリカ東海岸に向かう。5月5日、アイスランドとグリーンランドの中間でONS船団を迎撃するため、U-66、U-91、U-109、U-202、U-465、U-664とウルフパックを形成。5ノットで移動を開始する。5月8日に航空攻撃を受けて損傷するが、応急修理により作戦を続行。5月10日、U-129がハッテラス近海で敵船団発見の報を出し、司令部はU-190、U-66、U-521に移動命令を下す。翌11日、U-190は高速で北方へと向かう敵船と短時間接触したと報告。5月14日夜には照明で自らを照らした船舶を発見。赤十字のマークは確認出来なかったものの病院船の可能性があるため見逃した。5月25日、司令部よりハッテラス岬北方を攻撃エリアに指定され、同日中に高速貨物船へ2本の魚雷を撃ち込んだが不発で終わった。
5月28日にノースカロライナ州ハッテラス岬沖でアメリカ軍のB-24に襲撃され、艦に深刻な被害が発生。幸い乗組員の応急修理により戦闘哨戒を続ける事が出来た。6月13日、ニューヨーク東方で輸送船団を雷撃し、右側の後方にいたリバティ船ウィリアム・H・ウェップに魚雷が伸びていったが、リバティ船には特別な対魚雷機雷が装備されていたため200フィート手前で爆発して軽微な損傷しか与えられなかった。ウィンターマイヤー艦長は水柱が立ったにも関わらず船が無傷で済んだ事を司令部に報告した。ニューヨーク南東からキューバ北東沖まで遊弋したものの敵船舶とは巡り会えず。6月22日にアメリカ東海岸における日中の航空哨戒の状況と海上交通量を報告。敵の航路が絶えず変化している事を申し添えた。
8月4日20時にU-190はU-373と合流して医療物資と乗組員2名の提供するはずだったが、合流に失敗したらしく個別にフランス方面に向けて移動。8月16日、連合軍に航行している所を目撃される。8月19日にロリアンへ帰投した。入港から翌日の8月20日、U-190は爆撃により損傷したU-197からの通信を傍受し、U-181とU-196が救助に向かった。
本格的な修理のため9月30日にロリアンを出港し、10月1日にブレストへ回航。
3回目の戦闘航海
10月7日、ブレストを出撃して3回目の戦闘航海に臨む。10月18日、スペインのヴィーゴ沖で暴風雨に襲われて見張り員の腕が折れる事故が発生。10月23日にGUS-18船団を襲撃するが、米駆逐艦ターナーから爆雷投下を受けたため退避。損傷は受けなかった。12月2日、ブラジル北岸で哨戒艇らしき船を目撃して10日後に報告。12月19日16時、U-172からボルクム装置を受領する。
4~6回目の戦闘航海
1944年3月7日にロリアンを出港するが、ビスケー湾での潜航試験中にハッチとスラストベアリングの損傷が見受けられたため引き返し、翌日ロリアンに帰港。3月11日午前7時、遣独潜水艦作戦で東南アジアから来た日本海軍の伊29がU-190の隣に係留。乗組員が挨拶に赴いている。同日中に再出発するも今度は後部ハッチからの漏れが確認されて翌日港に戻った。
3月16日にようやく出撃。U-505とともにゴールドコーストの東方へと向かい、4月13日に到着。5月12日、ギニア湾で5500トン級の貨物船をT5音響魚雷で仕留めて記録されたが該当船無し。5月13日、燃料が乏しくなったU-190は帰路に就きつつギニア沖の警戒状況を報告。同方面の敵は高速艇や駆逐艦による警戒を主体としており、航空機やレーダーは確認されていないとの事だった。連合軍の記録では6月8日夜に航空機から爆撃を受けて沈没したとしているが、実際は健在であった。これは連合軍がノルマンディー上陸に合わせて対潜攻撃を強化し、周辺海域で複数のUボートを撃沈していた背景によるものと思われる。後の記録にU-190が登場している事から誤りは正された模様。6月20日にロリアンへ帰投。
6月21日から8月16日まで造船所に入渠してシュノーケルの搭載工事を行う。連合軍のノルマンディー上陸により安全だったフランス方面にも戦火が及び始め、8月中旬にはUボートの出撃基地を潰そうとアメリカ軍がブルターニュ半島を進撃してくるなどロリアンの陥落は秒読み段階に入っていた。入渠中に艦長が交代し、二代目艦長ハンス・アーウィン・ライト中尉が着任。
7回目の戦闘航海
8月22日、U-445やU-650とともに包囲網が閉じる寸前のロリアンを脱出。直前に装備したシュノーケルは当時のレーダーでは捕捉出来ず、U-190を空の脅威から守り抜いてくれた。逆に伴走者の2隻は装備しておらず、8月24日にU-445がビスケー湾で航空攻撃の犠牲となった(U-650は生還)。9月10日、U-190を含むフランスからノルウェーへ脱出中のUボートが一斉に位置情報を送信。7隻中3隻が行方不明になっている事が判明した。イギリス海軍は脱出してくるUボートを撃滅すべくアイスランド・フェロー諸島間の海域を封鎖していたが、シュノーケル潜航により気付かれる事無く突破。
9月30日にファルスンドへ到着し、クリスチャンサンを経由して10月4日にフレンスブルクに入港。フランスからの脱出を成功させた。その後、第33潜水隊群へ転属となりブレーメン造船所へ移動。オーバーホールを受けるとともに艦首の切断を行ったが、一部の乗組員からは無駄なプロセスと嘲笑されていたらしい。
最後の戦闘航海
1945年1月26日午前10時、ブレーメンからキールへ移動。2月7日に出撃を見越して燃料補給を行う。2月10日、U-805、U-1005、U-1273、U-1275とともにキールを出港し、2月14日にオスロフィヨルドのホルテン軍港に到着。2月19日にホルテンを出港し、クリスチャンサンで燃料補給を行い、スタヴァンゲルでハリファックス及びニューファンドランド沖での通商破壊を命じられる。
2月25日に最後の戦闘航海に赴く。3月末、暗号表や機密書類を艦外へ投棄。4月12日、ハリファックス南方でタンカーと汽船を発見し、まずタンカーに向けてT5音響魚雷を発射。次に汽船へ2本の音響魚雷を発射した。潜望鏡深度に浮上して海上の様子を確かめたところ、汽船の方が姿を消しており、2回の爆発音も聴音出来た事から汽船撃沈と判断した(該当船無し)。
4月16日早朝、ハリファックス沖で800~1000トン級と思われる推進音を探知。潜航中のU-190は旋回して適切な雷撃位置へと移動する。正体は港を守るため定期的に巡回しているカナダ海軍の掃海艇エスクワイモルト(590トン)であった。既にドイツは敗北寸前であり、前線から遠く離れたハリファックス沖にまでUボートは出ないだろうと慢心していたのだろう。エスクワイモルトはジグザグ運動や音響魚雷対策の囮信号の発信、レーダーの使用など定められた対潜規定をガン無視していた。午前9時30分、U-190の艦尾魚雷発射管から放たれた音響魚雷はエスクワイモルトの右舷機関室に直撃し、即座に艦内電源が失われ、右舷へと傾きながら4分以内に沈没。カナダ海軍最後の喪失艦となった。まず艦とともに8名が死亡。残りの乗組員は救命艇に乗って脱出したが、救助要請を打てなかったばかりに約8時間薄着のまま漂流する羽目になり、更に18名が凍死。生き残った26名のみがサーニアに救助された。撃沈戦果を得たU-190fは海域を去り、カナダ沿岸での通商破壊を続けた。通報を受けたカナダ海軍は2隻の追跡船を派遣したが、エスクワイモルトの残骸をU-190と勘違いして突撃するミスを犯している。敵艦からの追撃を避けるためU-190は7日間潜航したまま過ごした。
4月24日にT5音響魚雷1本を、翌25日に魚雷3本を発射。5月上旬、フリケード艦に向けて音響魚雷5本を発射するが全て回避される。
戦後
1945年5月8日、ドイツの降伏を知って戦闘行動を中止。5月11日に最高司令部からの降伏命令を受信するも、本国との距離があり過ぎるせいか不完全なものであり、U-190側から仔細を要求したが、無線通信を確立出来なかったため送信出来なかったという。その後、U-190から降伏の意思があると連合国に向けて送信。その間に弾薬や機密文書を海へ投棄した。
5月12日、遭遇したカナダ海軍のコルベット艦ソーロックに投降し、無条件降伏の文書に署名して乗組員は捕虜となる。5月14日にベイブルズへ入港した後、5月16日にハリファックスへと連行されて捕虜は退艦。残されたU-190は5月19日、正式にカナダ海軍に編入され、「HMCS U-190」と名を改める。9月7日よりモントリオール、トロワリヴィエール、ケベックシティ、ガスペ、ピクトゥー、セントローレンス川など各所を引き回され、見世物にされてしまう。その後はハリファックスへと戻され、対潜訓練艦として1年半に渡って運用された。
1947年7月24日に退役。しかしU-190の役割はまだ残っていた。戦争に参加していない新兵に実戦の機会を与えるオペレーションスカットルド(自沈作戦)にて、標的艦として沈められる事だった。標的艦として目立つよう赤と黄色の派手なストライプ塗装が施され、曳航されてわざわざエスクワイモルトが沈没したところまで引き出される。周囲には駆逐艦ニューリスカード、ヌートカ、ハイダが待機し、多くの記者や写真家がこれから行われる大規模なショーを待ちかねていた。10月21日午前11時、海軍航空隊のシーファイア8機、ファイアフライ8機、アブロアンソン2機、ソードフィッシュ2機から一斉にロケット弾が撃ち込まれる。しかし最後の意地か、U-190は僅か20分で沈没し、続いて砲撃を行うはずだった駆逐艦群に機会を与えず中途半端な結果で作戦を終わらせた。
海没処分される前にU-190から潜望鏡が取り外されていた。1963年にニューファンドランド州のセントジョーンズに設置されたが、雨ざらしだったため使い物にならなくなり、一旦撤去されて修理。1998年10月22日の式典で再び潜望鏡が設置されて現在でも見る事が出来る。
関連項目
- 第二次世界大戦
- Uボート
- 軍用艦艇の一覧
- world of warships(数あるUボートからU-190が参戦している)
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