刑法39条 単語

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刑法39条とは、刑法の条文の一つである。

概要

第39条
  1. 心神喪失者の行為は、罰しない。
  2. 心神耗弱者の行為は、その刑を減軽する。

 

ニュース心神喪失により無罪とか、心神耗弱により減刑といったフレーズが出てくることがあるが、「あれだけのことをしておいて無罪だなんてありえない!精・知的障者は悪事を働いた時ですら優遇され、許されるのか?!」と憤った人もいるかと思う。

誤解されがちだが、実は刑法39条による有罪/無罪は「罰するべきかどうか」を論じているのであって、被告人や行為の善悪を判定しているわけではない。
処罰面でも、精・知的障があれば重罪を犯しても無罪放免というわけではない心神喪失無罪となっても、有罪のときよりも長期間にわたって強制入院となることが多いのだ。

また、この法律は精・知的障者のみを対としたものではないので、彼らを逆差別するための法律という認識も誤りである。

当記事ではこれらの点について、刑法における絶対義・相対義の観点から責任という用を用いて説明する。民法にも713条に同様の規定があるが、この項では刑法における扱いについて取り上げる。

なぜこの規定が存在するのか

この条文に憤りを覚えている人は「どうしてこれだけのことをやらかしたのに、処罰されないor死刑にならないんだ!」という感想を抱いていることだろう。

その感情じたいは確かにもが抱くものだし、一種の正義心ともいえるその心情が法秩序を支えていることもまた事実であろう。誰だって人から非難されるようなことを好き好んではやらないものだ。

一方で、犯罪者を処罰する法典である刑法においては「保護法益論」という考え方がある。例えば殺人罪ならば人の生命、強盗・窃盗ならば人の財産といったに、その法律で守るべき人の利益といった意味合いのもので、これを犯したから罪を背負い、相応の罰を受けるといった考え方である。

しかし、反対に考えてみれば保護法益論の見地からすれば、これを犯していなければ罪に問えないということになる。殺人罪ならば、正当業務行為(医療行為やボクサーの試合中における事故など)、文書偽造罪ならばの信用を得ると思料されないもの(粗雑な改竄など)については、違法性がないものとされて罪に問われないわけである。また、本記事における刑法39条もその類といえるだろう。

なぜ、このような考え方が成立するのかといえば、保護法益論の的は社会秩序を守るためにあるという大前提があるからである。社会秩序を守るために罰する(これを的刑という)のであって、罪を犯したからといって直ちに罰するという考え方は現代のにおいては眼にとられていない。

その詳細について、後の項で見ていくことにしよう。

刑罰の目的

社会のあるところに法あり」という法学における格言が示す通り、法という概念は、々人類が集団を形成し、社会というものを作り上げて以来、常に存在するものである。

現代に至るまで生まれた、法の制裁である刑罰に関する考え方は大きくわけて、絶対義、相対義、これら二つをあわせた併合義の三種類に分類される。

絶対主義

人が社会を形成してから前近代に到るまでは絶対義に基づいて刑罰が運用された。絶対とは、犯罪とは正義が損なわれる行為であり、正義を復する為に罰を科すという考え方である。現在でも犯罪報道があるたびに「あいつは〇〇という罪を犯したのだから、一生屋にぶちこむべきだ(死刑に処すべきだ)!」という言説がそこかしこに出てくるが、まさにそういう素で率直な感情に根ざした考え方といえる。世界最古の法典とよばれる、紀元前2095年頃に制定されたとされる、ウルナンム法典の時代から続く長い伝統のある概念といえよう。

しかし、見ればわかるとおりに絶対義に基づく刑罰は、罪を犯した後のフォローが予定されていない。そのためとかく苛になりがちであり、犯罪者社会に復帰することは不可能もしくは困難である。これでは、犯罪者社会従して、貢献する必要がなくなってしまう為、いわゆる無敵の人と化し、かえって社会にとってをなす結果に終わってしまうという問題を内包していた。

18世紀後半になると社会契約説が登場し、またロックやルソーなどといった思想たちによって、人権論が形成されるようになった。これは人は生まれながらにして、生存に欠くことのできない権利を有するという考え方である。それと共に刑罰には罰するだけでなく、新たな意味が生ずることになり、新たに相対義という考え方が登場するようになった。

相対主義

相対義とは、犯罪を行わせないために刑罰を科すという考え方である。人権という考え方が普及するに従い、犯罪者も一人の人間である以上は、刑期を終えたら社会に戻さなければならない。また、人が生きていく上では、十分な食事を用意し、職を与えて、生活の安全を保障する必要がある。ということが言われるようになった。すなわち、ただ罰するだけにとどまらず、社会復帰の為の手立てである職業訓練や適正な就業支援を行っていくことも、また刑罰の的の内であると考えられるようになったのである。

また、元々絶対王政の根拠である王権神授説においては、権(王権)は神より授かったものであるから、王権を預かる王の民に対する絶対的な支配を肯定するという論理であった。しかし、人権及びそれの理論的裏付けである社会契約説においては、権(政府)は民との契約で、その責務は民の権利を守る事にあり、それを怠ったり、弾圧に走れば、いつでも契約を破棄できる(抵抗権)相対的な性質をもつとして、王権神授説を否定し、革命を推進する理論的裏付けとした。

論、刑罰は法によって行われるので、それにおいても相対義が適用される。すなわち、刑罰には社会の秩序を守るという的が要されるようになるという筋書きとなるわけである。

現在においては、相対的応報刑論という思想に基づき、刑罰が運用されている。これは刑罰の的が応報、すなわち違法行為に対する報いであることを認める一方で、犯罪を行わせない為に行うものである事も示した考え方である。懲役刑を例に考えてみると、懲役刑は読者の方々も承知の通り、自由を奪って刑務所に入れる刑罰である。そして々はその刑務所に入った人々をみてああはなりたくないと、遵法精神を強めるだろう。まさにこれは相対的応報刑論に基づいた運用方法といえる。

責任能力

さて、刑法には責任という考え方がある。

責任力とは、刑法学者によっても意見が分かれる所だが、「事物の是非・善悪を弁別し、かつそれに従って行動する」と定義されることが多い。

当然、これだけでは何のことかわかりにくいので、例をあげてみよう。

例えば、私は隣人から監視されている! という強い根拠のない妄想にとりつかれている人がいるとしよう。いわゆる統合失調症の患者である。

ある日、その人が監視をやめさせるためと称して、に火をつけようとしている所を、隣人が現行犯で撃し、警察通報して逮捕してもらった。

この場合において、この患者は、事の是非・善悪を弁別できているといえるだろうか。という話である。

論、実際のところは、検察の起訴にいたるまでの過程や、裁判官の最終的な判断によって変わってくるので、必ずそうなるとは断定はできないが、この場合はまさに心神喪失もしくは耗弱が適応され得る事例と言えるだろう。

統合失調症は、認知の歪みによって、思考や論理のまとまりがつかなくなって、様々な妄想幻覚にとらわれてしまう病である。そのような状況下で、自己のやっていること、やろうとしていることを判断し、制御することは不可能であるといえよう。

すなわち、責任力とは「えてはいけないラインを判断し、それに従って行動する力」と言い換えることができる。

心神喪失や心神耗弱とは、そういう是非善悪を区別する力が、精神機障害によって失っている、または、甚だ損なわれている状態をさしている。これは大審院(現在で言う最高裁)が1931(昭和6)年12月3日の判例で示したことからはじまる伝統的な見方である。この判例は広く知られているため、刑法39条を精神障害者の免責であるというに誤解してしまう人も少なくない。

しかし、精神機障害によってと当時の判例は示しているが、現在の裁判実務において、心神喪失(耗弱)の定義精神障害と=ではないことに留意が必要である。認められた判例は少ない(後述の原因において自由な行為も参照)とは言え、当該判決から90年以上蓄積された判例において、精神障害以外でも飲物によってもそうなるおそれもあると認められているからである。

前項で述べた相対義に基づいて話せば、刑罰の的が犯罪をさせない為にあるのであれば、当然のこととして、犯罪者には是非善悪を区別する力がなければならない。しかし、心神喪失や心神耗弱と認定された人間にはそれらがないものとされているため、いずれの的にもそぐわない。悪いことを理解できないならば抑止力にならないし、区別する力がなければ刑罰を科しても馬耳東風に終わるからである。刑法における責任とは、相対義や的刑論とつながっていることに留意が必要である。

責任主義

心神喪失や心神耗弱と認定された者への刑罰が減軽・免除される理屈として、責任義の考え方にも触れておこう。

、というより、近代的な刑法を布いているでは責任[1]という考え方があり、責任のないことには刑罰を科さないということになっている為、心神喪失や心神耗弱が適用され、罰が免除ないし減軽されるという仕組みになっているのだ。これは1843年に「から迫されている!!」という強迫観念にかられて、英国首相を殺しようとした事件における訴訟から根付きはじめた歴史ある概念でもある(マクノートンルール)。

責任がないからといって罰さないのはなおさら危ないのでは?」という意見もあるだろうが、そもそも刑罰とは、人の自由を大きく損なわせる重大な人権である。それを正当化させるには、もう二度と同じ過ちを繰り返さないと思わせることと、そうしなくても済むような選択があったはずだと思わせる必要があるのだ。

しかし、心神喪失が問題になるような人はそもそも、そういう罪の意識がないわけであるから、いくらそのようなことをしても駄であるため、正当性を失い、人権の部分のみ残る。人権は当然近代刑法では許されないので、罰することはできないというメカニズムになるわけである。

人間は、物ではないが故に、生きている限りは多くの権利を持ち、それを行使する自由がある。生存権や自由権はその一つであるため、罰する根拠がなければ刑罰には科せないのである。もし、罰する根拠はないけれど、危ないから隔離しようという考え方が通るようになれば、人権という考え方がに帰してしまうというのは、これまでの歴史上でうんざりするほど繰り返されたでもあることを忘れてはならない。

また、それでは被害者が報われないではないか。という反論もあるが、そもそも被害感情の慰撫は刑事裁判刑事法の的とするところではない。被害感情を考慮して刑罰を決めることはあれど、それは数ある材料のひとつであって、それを軸にして判決を下すということではないからである。被害感情の清算は民事裁判や示談で原則としてお金で解決するものなので、そもそもめるところを間違っているのだ。

刑事法及び裁判を取り扱う刑事訴訟法はそもそも法、すなわち、と個人の関係について規定した法律であり、その的は犯罪の抑止や更生に力を入れることで、正な社会秩序を実現することが念頭におかれる。被害感情や遺族感情の慰撫といった点は、加害者に刑が下ったことに寄る副次的なものでしかなく、メインにおかれるものではないということは留意すべきだろう。

医療観察法

刑法39条に関するよくある誤解として、「適用されれば無罪放免」になるという言説がある。

たしかに、刑法39条の第一項には「心神喪失者の行為は、罰しない」とあるので、無罪になるというのは事実であるが、放免というのは甚だ正確さを欠いた理解である。

何故ならば、心神喪失により無罪となっても、殺人強盗強制性交などの重罪(本法では、重大な他行為と表現される)を犯した場合には心神喪失者等医療観察法(以下医療観察法)に基づき、医療機関への強制入院がなされるからである。前項までで、犯罪を行わせないために刑罰を執行すると述べたが、この場合は刑罰よりも治療を施すべきだという判断の元行われてると解釈すべきだろう。

この制度では検察官が、地方裁判所に対して申し立てを行うことで審判が行われ、精神鑑定や保護観察所の行動などの資料を基に医療の必要性を判断し、定入院医療機関への入院ないし通院を決定するものである。またこれは、検察官の裁量で相当と認めれば請できるため、事件を担当した検察官が心神耗弱や心神喪失なのではないかと思えば、不起訴処分になったとしてもこの法律を適用することが出来るという点も重要である。

入院が決定された後は、当該医療機関地方裁判所審判による、処遇終了の決定を得ない限り、社会には戻れないため、事実上の隔離ともいえる。そして、ここでいう定入院医療機関とは、大昔でいう癲狂院、現在で言う精神病院なので、お世辞にもよろしくない環境のもとですごさねばならないことは想像できるだろう。

ただし、入院期間が通常の役よりも長期化する傾向にあるなど、これはこれで人権なのではないかという批判もある制度ではある。

なお、この法律較的新しく、その前は精神保健福法に基づく通報制度によって類似の措置が行われていた。

「しかし、死刑に値する罪を犯した場合は、この法律ではカバーできないのでは?」という反論もあるが、これはまさに頭の痛い問題である。が、死刑という刑罰自体、死刑存廃問題という大きな議論があることから、この記事において言及することは差し控えることとする。

原因において自由な行為

ひらめいた! じゃあも心神喪失狙いでめちゃくちゃやったろ!!!!!」と思っても、そう簡単にはいかない。

責任力について論じられる時のテーマとして、「原因において自由な行為」という考え方がある。これは簡単に言えば、自分から進んで心神喪失又は心神耗弱状態となった場合には、責任力があるものと考える(責任力あり=罪に問える)ものである。

かつて、物接種による心神喪失について争われた際、「被告人は、継続して、譲り受けた覚せい剤を使用するという意思の下で注射した為、その時点においては責任力があったのであるから、その結果、犯行に及んだ時に心神喪失状態だったとしても、刑法39条は適用すべきではない」(大阪高判昭和56年9月30日)という判決が下ったことが有り、飲酒運転においても似たような判断過程によって、責任力有りとして通常の刑罰がくだされている。

万が一、何らかの奇跡怠慢によって、精神鑑定にまでこぎつけたとしても、戦錬磨の精神科医たちの前で詐病を演じ続けることは常人には困難であると考えられる。

また、心神喪失で無罪となった事例は平成25年では5件令和2年でもまた5件とごくごく少数の事例にとどまっており、しかもこれは地裁の事例なので、高裁や最高裁でひっくり返されて、責任力ありのものとして通常の処罰に処される事も多い。井の人が考えるほど、この条文の適用は容易なことでないことは理解すべきところだろう。(不起訴は毎年400人から500人程度でているが、それでも不起訴全体の0.5%から0.25%の割合であり、少数の事例であることにはかわりない)

まとめ

刑法39条は精神障害だとか発達障害を理由にして罪を軽くするものではない。あくまで、犯行時の責任を問うている。また、刑罰の的は犯罪を行わせないためにやるのであって、犯罪者を懲らしめるためだけに行われるものではないことも留意すべきであろう。

これだけは決して見誤ってはいけない。これを精神病だから軽くなるなどと誤解してその患者たちに対して偏見を向けるのは重大な侮辱に他ならないからである。また、刑罰の的を見誤れば、絶対義における失敗のように、かえって社会にとって過大なコストを支払うことを強いる結果に終わってしまう。

加えて、心神喪失や心神耗弱となったとして、無罪放免になるわけでなく、定入院医療機関への強制的な入院、それも通常の刑期よりも長く社会とは隔絶されるというが待っていることも留意すべきだろう。

この記事を最後まで読んでくれた諸氏には、これらは念頭に置いた上で、この条文の意義とそれにまつわる課題を考えていただきたい。

関連項目

脚注

  1. *責任義という言葉における責任とは心神喪失以外にも、故意と過失による刑罰の軽重や、自首や未遂犯に対する刑罰の減免などにも関わる大変意味の広い言葉であるため、責任力とはまた別物であることは留意しておきたい
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