叙述トリック(じょじゅつとりっく)とは、ミステリー小説におけるトリックの一種。漫画や映画などでも稀に見られる。
概要
叙述トリックとは、読者の先入観や思い込みを利用し、一部の描写をわざと伏せたり曖昧にぼかしたりすることで、作者が読者に対してミスリードを仕掛けるトリックである。「信頼できない語り手」の技法と重なるところが多いが、必ずしも「信頼できない語り手」の技法を使った作品が叙述トリックであるとは限らない(芥川龍之介『藪の中』とか)。
一般的には作品全体に仕掛けを施した大がかりなものを指して叙述トリックと呼ぶが、叙述の仕掛けがメインではない作品においても、他のトリックを隠蔽するための小技として使われていることがある。
文章によって与えられる情報から、読者が思い描いていた物語の様相が、一瞬にしてひっくり返る驚きがその最大の醍醐味。そのルーツを辿れば推理小説の黎明期まで遡ることが可能な、古くから定番のトリックである。日本のミステリーで一般的な手法になったのは新本格以降だが、新本格より前の作品にも作例はいくつかある。00年代後半あたりからは特にこのトリックの用いられたミステリーがベストセラーになることが続いたため、手法として一気に大衆化した。
そのトリックとしての性質ゆえに、叙述トリックの仕掛けられた作品は、身構えて読めば叙述トリックであることを見抜くことはそれほど難しくないことが多い。そうでなくてもあらかじめ叙述トリックが仕掛けられていることを知って読んでしまうと、醍醐味である驚きが失われてしまうため、叙述トリックの作品は「叙述トリックである」ことが最大のネタバレとなる。そのため、叙述トリックの仕掛けられた作品を紹介することは非常に難しく、叙述トリックであることを明記しなくても、「驚き」とか「衝撃の結末」とか「ある仕掛け」とかぼかした記述をするだけでも叙述トリックであること察されてしまいがちである。本記事もそのため、具体的なタイトルは挙げないことにする。
ミステリーでは読者に対してミスリードを仕掛けるのはよくあることであるが、ミスリードやどんでん返しがあるミステリーが全て叙述トリックではない。登場人物にとっては自明の事実を読者に対して隠蔽するのが叙述トリックである。視点人物自身も騙されていた場合はふつうは叙述トリックにはあたらない(それは普通のどんでん返し)が、視点人物AとBがいて、B視点での意図的な語り落としによりAと読者だけが騙されている、というような例もある。普通に描写すれば当然語られているべき情報を意図的に語り落とすことで読者を騙しているのが叙述トリックと言うのがより正確かもしれない。
またこれは本格ミステリの基本ルールであるが、叙述トリックの場合においても地の文で明確に虚偽の記述をしてはならない。たとえば女性を男性に見せかける場合、その人物を指して「彼」など性別を限定する表記はしてはならない(ただし、一人称でのモノローグなどにおいては「本人がそう思い込んでいる」という形で事実に反する記述をする場合はある。客観的には美人のキャラが「自分の顔はなんて醜いのだろう」と地の文で考えるなど)。真相を知ってから読み直したとき、作者が嘘をついてないことを確認するのも叙述トリック作品の楽しみ方のひとつ(これに違反する描写があると「アンフェア」と批判されることになる)。
後述のパターン紹介でも述べるが、小説における叙述トリックでは、読者は文章から与えられる情報に基づいて想像するしかないという媒体上の制限を利用し、映像であれば一目瞭然の情報を敢えて伏せることで成立させたものが多い(性別の誤認などは典型的なそのパターン)。そのため、叙述トリックを漫画や映像で成立させるのは非常に難しいが、作例が全くないわけではなく、「この映画にはある秘密があります」という前置きをおいて大ヒットした某有名作などは映像で叙述トリックを成功させた代表的な例である。また、小説の叙述トリック作品を映像化して成功させた作例もいくつかある。
「叙述トリック」という名称の起源は定かではない。古めの作品の文庫解説などでは「記述トリック」とか「語りのトリック」などと表記されていることもある。また、叙述トリック作品の文庫解説では、引き合いに出す形で他の叙述トリック作品が紹介されてしまっていることがあるので注意が必要。
叙述トリックのおおまかなパターン
以下に比較的よく見られる叙述トリックのパターンを挙げるが、必ずしも全てがこれに当てはまるわけではない。
また1作品で使われるパターンもひとつではなく、複数のパターンを組み合わせることでミスリードを誘うのが一般的(人物の誤認と時系列の誤認の合わせ技は特に多い)。
登場人物の誤認
登場人物についての読者の認識をミスリードするパターン。他のミスリードと組み合わせたパターンも含め、おそらく最も作例の多いパターンであり、そのバリエーションも多岐に渡る。
人物そのものを誤認させるパターンでは、ひとりの人物を複数人に見せかけるパターン(状況によって呼び名が変わる、結婚や離婚で苗字が変わった、苗字なのか名前なのか紛らわしい名前を使う、など)や、逆に複数の人間をひとりの人物に見せかけるパターン(呼び名や苗字が同じ、など)、特定の人物を別人に見せかけるパターンやその逆の別人を特定のキャラに見せかけるパターン(主人公の一人称のシリーズで別のキャラの一人称が無断で紛れ込む、など)といった例があげられる。また、特定の人物の存在そのものを隠匿するパターン(三人称だと思わせておいて、実は語り手の一人称だったというような例)もある。
人物についての性質を誤認させるパターンでは、性別の誤認が非常に多く、女性を男性に見せかけるパターンが大半。ほかに年齢の誤認(登場人物が実は老人だった、など)、身体的特徴の誤認(実は黒人だった、実は身体障害があった、など)等の例がある。極端な例になると、生物としての種の誤認(人間だと思っていた語り手が犬などの動物だった、など)というものもある。
他にも人間関係や社会的立場をミスリードするもの(夫婦に見える男女が実は親子関係、など)や、変わり種ではその人物の物語における立ち位置や役割の誤認というものもある。メタフィクション的な仕掛けによって犯人を探偵と誤認させた某作品や、人物Aが収監されているのを人物Bが収監されているように見せかけた某作品など。このあたりはメタレベルの誤認(後述)というべきかもしれない。
時間の誤認
分類としては、同時進行の話を別々に見せかけるパターン(主人公一視点の長編と見せかけて、後半が別視点による前半と同時進行の話だったという某作品など)や、逆に別々の話を同時進行に見せかけるパターン(同じ事件を別視点から描いていると思わせて、同一人物の視点による過去と現在の別々の事件だったという某作品など)があげられる。
また、叙述の順序を入れ替えることで、出来事の発生した順序を誤認させるというパターンもある。一章→二章→三章と並んでいるが、実際の時系列は三章→二章→一章だったという作例などがある。
SFやショートショートでは、現代の話と見せかけて過去や未来の話というパターンもよく見られる。
場所の誤認
犯行現場や凶器の隠し場所、監禁場所等を曖昧な描写と読者の思い込みを利用して誤認させる場合が多い。たいていは密室トリックやアリバイトリックなどを隠蔽するためのミスリードとして用いられる(たとえば、実際は別の場所が犯行現場だが、犯人視点での場所の描写を曖昧にぼかすことで、読者に対して死体発見現場で犯行が行われたように見せかけるようなパターン)。
なかには同じ地名や同じ建物が別々の場所にある、といった大がかりな仕掛けを利用した作例もある。
さらに大がかりなものとしては、異世界や異星の話と見せかけて、実は環境が激変した未来の地球の話だったというようなパターンもあるが、これに関しては叙述トリックというよりは、登場人物にとってもそれが最初から自明の事実ではなく、物語の中で登場人物(と読者や視聴者)がそれに気付くタイプの、普通のどんでん返しとして用いられる場合が多い(某有名映画や某ゲームなど)。
行為や心理に関する誤認
行為に関する叙述トリックでは、語り手の行った行動をわざと描写しないパターンや、描写を曖昧に濁すことで別の行為に見せかけるパターンがあり、「信頼できない語り手」の技法に直接該当する。語り手が犯人、というミステリーはだいたいこのパターン。
心理に関する叙述トリックでは、語り手の独白の仕方によって語り手自身の認識を読者に対して誤認させるというような例がある(「○○したい」という欲望だとみせかけて、「○○されたい」という欲望だったというようなパターン)。
メタレベルの誤認
作中作などを用いて、作中における虚構と現実を読者に誤認させるパターン。本文が途中から(あるいは最初から)実は作中作だった、という形が基本。
歴史改変SFなどで見られる、我々のいるこの世界の話と思わせて、実は過去のどこかで歴史が分岐した並行世界だったというようなパターンも、メタレベルの叙述トリックというべきだろう。作品自体が全編日本語で書かれているが、実は舞台は海外で作中の会話等は翻訳されたものだった、なんてのもメタレベルの仕掛けと言える。
また夢や幻覚、妄想も広い意味でメタと言える。たとえばABCDの4人の登場人物の中でAだけが妄想の中に生きており、BCDはそれに話を合わせているというシチュエーションならば、A視点の描写と他の三人視点の描写との組み合わせで叙述トリックが成立する(もちろん「A視点の描写が妄想である」ことの伏線は必要)。
実例1
授業中、僕はぼんやり外の景色を眺めるのが好きだった。
帰ったら何して遊ぼうかとか、どこか遠くに行きたいとか、
いろんなことを思いながら、窓の外ばかり見てた。午後の授業なんかだと、ついつい寝ちゃうこともある。
隣の女子校で体育をやってたりすると、それはもう大変
何も考えられずに食い入るように見ちゃう。はちきれそうな太もも、のびやかな肢体、見てるだけで鼓動が高鳴った。
あのコがいいとかこのコもいいとか、もう授業中だってことなんか
完全に忘れてずっと見てた。楽しかった。
でもそんなことしてると、いつも必ず邪魔が入るんだ。
「先生、授業してください」
2chのコピペのひとつ。前述の分類でいえば、これは人物の性質の誤認にあたる(先生を生徒に見せかけている)。
実例2
ポストを読み込み中です
https://twitter.com/murai_r/status/1205131620509863938
叙述トリックお嬢様と呼ばれるネタ。これも人物の性質の誤認にあたる(関西弁のおっさんを上流階級の令嬢に見せかけている)。
逆叙述トリック
通常の叙述トリックとは逆の形、すなわち読者には自明のことが登場人物に対して隠匿されているトリックのこと。ただしそれだけでは登場人物が驚くだけで読者には驚きが発生しないので、同時に「登場人物がその自明の事実を認識できていないこと」を読者に対して隠蔽する叙述トリックが仕掛けられる。
たとえば、AとBが会話している場面において、Aは難聴のため読唇術でBの話を聞き取っているが、BはAが難聴であることを知らずに話しているとする。このとき、「Aは難聴のため読唇術で会話している」ことが地の文に書かれている(読者に明示されている)が、「BはAが難聴であることを知らない」ことが伏せられている(読者にはBがAの難聴を知っているように見える)場合、逆叙述トリックが成立する。
きちんと成立させることが非常に難しいため、作例は極端に少ない。成功させた作例でも、仕掛けの意味を読者が理解できないことが珍しくない。
よくある間違い
たまに叙述トリックを指して「倒叙トリック」と間違えて言ったり書いたりする人がいる。
誤解なきよう述べておくが、「倒叙」とは『刑事コロンボ』や『古畑任三郎』のような、まず犯人視点で犯行を描き、その完全犯罪がどう瓦解するかを眼目にしたミステリーを指すジャンルのことである。「叙述」と「倒叙」がごっちゃになっているのだろう。
なお「倒叙」ものは単に「倒叙」、あるいは「倒叙形式」「倒叙ミステリ」と呼ぶのが一般的で、一般的な語句として「倒叙トリック」という言葉はない。しかし、「倒叙トリック」という誤記を見かけて「倒叙形式」をそう呼ぶのだと誤解して、「倒叙形式」の意味で「倒叙トリック」と言う人までいるので話がややこしい(NHKのミステリ読書会番組で「倒叙形式」を指して「倒叙トリック」と呼んだこともある)。きちんと区別をつけておきたい。
もちろん、倒叙形式の作品で叙述トリックが用いられることもある。
語用論
発話はその字義通りの意味を持つとは限らず、文脈によって暗に意味するところが変わる。読者は物語に促されて描写と関連性の高い状況を想像するため、暗に意味するものを補うことができる。その時の前提(AがあるならBもある筈という判断の材料)となるのは物語の中で提示された理論であり、読者の文化での常識である。
夫:ワイン飲むかい?
妻:ワインいただくといい気持になって眠
くなるのよ。
聞き手は発話によって提示された命題(ワインを飲むと眠くなる)から結論(妻はワインを飲みたい/飲みたくない)を復元するために、関連性の高い前提(眠るのが適当/不適当)を参照しようとする(推意)。前提が不十分だったり、誤った前提を参照したりしていると聞き手は発話を正しく理解できない。叙述トリックは偽の結論B'を強く推意させるためにB'と関連性の高い状況を並べて誤った前提を呼び出させた後、真の前提を提示することで視点が転換する異化作用を読み手にもたらすものと言える。
内田聖二『語用論の射程:語から談話・テクストへ』は、こうした誤った前提や結論と矛盾する出来事Bを提示することは、読み手を混乱させる(弱い推意)効果があるとしている。
関連動画
某洋楽のPVなど典型的な映像による叙述トリックの動画もあるが、ネタバレになるので直接は挙げない。
関連商品
やはりネタバレになるので、ここでは挙げないことにする。
関連項目
- 小説
- ミステリー
- 信頼できない語り手
- 折原一 - 作品の大半が叙述トリックなので「叙述トリックである」ことがネタバレにならない作家。
- 衝撃の結末 / 衝撃のラスト
- 予想の斜め上
- 思い込み
- 情報操作
- トリック
- 伏線
- 意味が分かると怖い話
親記事
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- なし
兄弟記事
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