鎖国とは、主に江戸時代の日本が外交、貿易を制限し、また国民の海外渡航を禁止した政策、及びその状況を指す。
・・・が、鎖国という言葉から想像される「国を鎖した」状況では全く無く、現在では「鎖国はなかった」「鎖国という言葉は適切ではない」という見地が一般的になりつつある。
ちなみに同時代のアジア諸国でも「海禁」と称して貿易、外交を制限する、日本と同様の政策が取られていた。ではなぜ、日本のみ「鎖国」という言葉が使われるようになったのか?
概要
鎖国と言う言葉は、1690年に来日したドイツ人ケンペルが書いて死後英国で出版された見聞録「日本誌」が日本で翻訳された際に生まれたものである。もともと当時の日本には鎖国と言う言葉はなかった。
一般的に鎖国と呼ばれる体制は、実際には「幕府が海外との通商、情報交換を独占する制限貿易及び外交体制」というべきものである。そもそもなぜ外交・貿易を制限する必要があるのか。
江戸時代初期、幕府の支配体制は磐石ではなかった。元豊臣側の西国大名はいつ謀反を起こしても不思議ではなかったし、それら全ての大名を監視するほどの力は江戸幕府にはなかった。なによりもまず、中央集権的独裁体制を確立しなければならなかった。それぞれの藩が勝手に貿易し、さらには幕府の知らない間に武器を輸入してはまずい。また外国の支援を受けて有力な藩が反乱を起こすようなことは防がなければならない。
そしてキリスト教の問題もある。当時アジアでは宣教師の布教活動が盛んだった。彼らの布教で非ヨーロッパ社会に新たに流入した異教の価値観は従来の統治機構との軋轢を生み、政治不安を生み、それに介入することが欧州諸国による植民地化の手段の一つともなっていた。また宣教師とともにやってくる外国人には人身売買を行うものもいた。こうしたことを懸念した幕府は宣教師(とそれについてくる商人の活動)を阻止するため何回も禁令を出したが効果がなく、ついには江戸初期最大の一揆である島原の乱がおこった(宗教一揆とされるが、実態は重税に対する農民一揆の側面も強い)。
これらのことから、徳川幕府は諸藩や領民の自由な貿易や外国人との接触を断ち、貿易も外交も幕府が独占する体制を作った。幕府は四つの外交窓口を作り、以下のように分けた。
もっとも重要な中国とオランダの外交は長崎の天領(幕府の直轄地)に作った出島で行われた。それ以外の外交はそれぞれ辺境の藩に交易や外交の特権を与え、幕府はこれらの藩を経由して外交と行った。交易の特権は、生産力に乏しい対馬や松前藩にとっては重要な収入源にもなった。
ヨーロッパとの外交は、最初イギリスとオランダだけに絞られた。後にイギリスはアジアでの貿易競争に敗れ撤退し、オランダだけが幕府と直接取引するようになった。それまではスペインやポルトガルなどのカトリック国が主要な貿易相手だったが、プロテスタントが主流のオランダは貿易はするがキリスト教の布教は求めず、幕府にとっては都合の良い貿易相手であった。もともと宣教はヨーロッパにおけるプロテスタント勢力の拡大に対抗するためのカトリックの布教活動である。長崎出島のオランダ商館長は年一回海外の情勢をまとめた報告書「阿蘭陀風説書」の提出を義務付けられ、幕府はオランダを通して欧州情勢を知ることができた。後の黒船来航も、幕府はオランダ経由で事前に知っていたという。
外交相手を限定するだけでなく、それらの国との貿易にもさらに制限がかけられた。当時交易で通貨として使われていた金銀の流出を防ぐため様々な制限がかけられ、物々交換もよく行われた。
名目上は中国の冊封支配をうけている琉球王国は薩摩藩との間に掟15条という条約を交わしており、中国と貿易を行うときは薩摩藩の監督を受けていた。琉球国の使者が江戸に上がるとき中国風の衣装を着ていたのは「薩摩藩は異国を支配している」という示威と琉球国は異国なので幕府の方針に違反していないというイメージを持たせる目的があったと思われる。キリスト教の禁教は遠く八重山諸島にも届いており洋上の船を監視する遠見台と呼ばれるものが今でも残っている。
こうした幕府の外交政策は長く徹底して行われたが、18世紀に入ると徐々に外国からの強い干渉を受けるようになる。
ロシア、イギリス、フランス、アメリカが自由な通商を求めて幕府との接触を試み、日本近海を外国船が多く航行するようになった。これらの国に対し幕府は外国船打払令を布告するなどして強硬な姿勢をとっていたが、アヘン戦争で中国が大敗すると欧米列強の脅威を悟り、その態度は徐々に軟化していった。長年海外との接触を制限し平和を享受してきた日本は、特に軍事技術において欧州と大きな遅れをとっていた。
外国勢力に対し毅然とした態度を取れない幕府の動揺は、約三百年続いた幕藩体制の盤石な基盤を崩す一因となった。
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