テティス(Θέτις, Thetis)とは、ギリシア神話に登場する海の女神である。
概要
ギリシア神話において海に関連した神は数多い。遍く海の王であるポセイドンのほか、原初の海たるポントス、穏やかな内海を統べる老神ネーレウス、外洋の海流を司るオーケアノス、オーケアノスの妻にして地下水や泉の女神テーテュース、元は漁師だったが不思議な海草を口にして半人半魚となったグラウコスなどがいる。
テティスはこのうちネーレウスの娘・ネーレーイスの一人であり、前述のテーテュースと名前こそ似ているが別の神格である。
ホメロスの叙事詩『イーリアス』において、「銀の足のテティス」の名で称えられ、変身と予言の技を持っているとされる。
またかつてオリュンポスで神々が反乱を起こしてゼウスが拘束された際、ただ一人味方をしてその窮地を救っている。その他にも鍛冶の神ヘーパイストス、酒の神ディオニュソスの苦境に際しても手を差し伸べるなど、救済者として描かれる物語が多い。
そうした背景もあってか、テティスはゼウスやポセイドンから求婚されるという破格の扱いを受けている。しかし託宣の女神テミスが「テティスは父親よりも優れた子を産み、その子は長じて神々をも超える武器を振るう」と予言。これにより両者はテティスを諦め、人間に嫁がせる事で大英雄を生み出す事を決めた。
かくしてテティスはアイアコスの子にしてイオールコスの英雄、プティーア王ペーレウスとの結婚を勧められる。しかしテティスはそれを拒んで逃げてしまった。
賢者ケイローンから知恵を授かったペーレウスは、洞窟で眠っている彼女を密かに縛り上げる。目覚めて驚いた女神は鳥や大木、虎、果ては炎や水にも姿を変えるが、ペーレウスはぐっとこらえて彼女を抱き締め続けた。想いの強さを感じたテティスは遂に折れてペーレウスを受け入れ、晴れて二人は婚儀を執り行う事となる。
ペーリオン山で執り行われた結婚式には全ての神々が招待され、大変華やかなものとなる。ところがただ一人、争いの女神エリスだけは招かれなかった。これを怒った女神は黄金の林檎を携えて宴席に現れ、林檎を投げ入れる。そこには「最も美しい女神へ」と記されていた。
これを見て林檎を所望したのは、神々の母ヘーラー、愛と美の女神アプロディーテー、知恵と戦の女神アテナだった。三者はいずれも譲らず、ゼウスに審判を求める。
が、誰を選んでも地雷を踏み抜くと判断したゼウスは「イーデー山の羊飼いパリスに審判を仰ぐがよい」と丸投げ。最終的にパリスはアプロディーテーを選ぶが、これが後のトロイア戦争の火種となってしまう。
一方、テティスはペーレウスとの間に一子アキレウスをもうけた。諸説あるが、テティスはアキレウスを不死にする事を思い立ち、これが原因でペーレウスと意見が別れ、海へ帰ってしまったという。
しかしテティスは夫を忘れた訳ではなく、ペーレウスがアルゴナウタイに参加した際には、危険極まりない岩礁に差し掛かった所で姉妹と共に姿を見せた。テティス自らが舵を取り、姉妹が岩礁から船を守る事で、一行はこの難所を切り抜けたという。
その後ペーレウスはトロイア戦争の終盤、かつて因縁によって殺した相手の息子達に攻められ、プティーアから亡命した。孫のネオプレトモスと出会った後、亡命先でその生涯を閉じたとされる。
またアキレウスについて、老いて平穏に生きながらえるか、トロイアとの戦争に臨んで名声と引き換えに死ぬかの運命を予知。後者の運命を回避させようと、9歳の我が子を女装させスキュロス島に送り、王の庇護下に置かせた。しかしこの策は、商人に化けて島を訪れた智将オデュッセウスによって破られる事となる。
トロイア戦争においても、テティスは我が子の為に努力を惜しまなかった。
総大将アガメムノーンとの諍いによって戦いを拒否したアキレウスの嘆きを聞き、テティスは我が子の無念を晴らす為にゼウスに言上する。すなわち、アガメムノーンがアキレウスに謝罪するまでトロイアの味方をしてアカイア(ギリシア連合軍)を苦しめるよう仕向けたのである。
一度は妻にと望んだ女神の哀訴を、ゼウスはやむなく聞き入れる。かくしてアカイアは神々の思惑により苦戦を強いられ、多くの諸将が傷つく事となった。
この状況を覆すべく、アキレウスの親友パトロクロスが出陣するも、トロイアを守備する実質上の総大将・ヘクトールに討たれてしまった。これを知ったアキレウスの嘆きに対し、テティスは再び姿を現し、戦えば必ず死ぬと諭す。しかし己の激情が原因で友を失った怒りに燃えるアキレウスは説得を受け入れず、テティスは我が子の死が避けられない事を悲しみつつ、新たな武具をしつらえる事を決意する。
テティスはかつてその身を救ったヘーパイストスの工房へと赴き、光り輝く武具を新調してもらった。これを纏ったアキレウスの戦働きはすさまじく、トロイア勢の虐殺した末、遂にヘクトールとの一騎打ちに勝利する。
だがアキレウスの怒りは冷めやらず、ヘクトールの亡骸を馬車に括り付けて引きずり回す事をやめなかった。これを哀れんだ神々により、テティスを通じてアキレウスに慈悲を願う言葉が伝えられる。更にヘクトールの父であるトロイア王プリアモスが単身密かに陣営を訪れ、涙ながらに我が子の返還を求めた。父と変わらぬ歳の老王の哀訴にアキレウスも思わず涙し、プリアモスを労ると、丁重にヘクトールの亡骸を返還したのである。
その後、アキレウスは唯一の急所である踵を矢に射抜かれ、予言の通りに死んだ。テティスは姉妹を連れて海の底から姿を現し、泣きながら遺体に衣を着せてその死を悼んだ。17日に及ぶ葬儀の後、火葬されたアキレウスは、親友パトロクロスの遺骨と共に黄金の壺に収められて葬られたという。
エウリーピデースの悲劇『アンドロマケー』では、その後の物語において、テティスがデウス・エクス・マキナとして描かれる。
トロイア戦争より帰国したアキレウスの子ネオプトレモスは、戦利品としてヘクトールの妻アンドロマケーを妾として連れ帰った。しかし正妻ヘルミオネーはこれを恨み、アンドロマケーを殺そうと企む。
アンドロマケーはテティスの神殿に逃れるが、ネオプトレモスはヘルミオネーに唆された従兄弟のオレステースによって殺された。するとテティスがその姿を表し、隠遁していた夫ペーレウスに対して孫の埋葬とオレステースの罪の告発を命じる。かくしてオレステースは復讐の女神エリーニュス達に追われ、アンドロマケーは命を長らえる事となった。
またペーレウスもテティスによって不死となり、妻と共にネーレウスの館で暮らす事となる。ペーレウスがテティスとの婚儀を執り行ったペーリオン山を懐かしく思う所で幕が下りる。
後世の創作
神々が集う壮麗な婚儀やアキレウスとの逸話は、後世の芸術家達の創作の題材としておおいにもてはやされた。
著名なところではドミニク・アングルの『ユピテルとテティス』(1811年)、ピーテル・パウル・ルーベンスの『ペレウスとテティスの結婚』(1636年)、『ウルカヌスからアキレウスの武具を受け取るテティス』(1630年)、フランソワ・ブーシェの『日没』(1752年)などがある。
1981年の映画『タイタンの戦い』では、テティスをマギー・スミスが演じる。変身と予言を行う海の女神であり、かつて魚に変身したゼウスに追い回された時も、サメに姿を変えて逃げたと笑い話にしている。
また、一子カリボスを溺愛する母でもある。しかしカリボスはその傲慢さからゼウスの怒りをかい、恐ろしい怪物に変身させられ、沼地へと追放されてしまった。
これを嘆いたテティスは、カリボスの婚約者であるヤッファの王女アンドロメダに呪いをかけた。すなわち、求婚者が謎を解かない限り死刑にされなければならず、これを破ればヤッファには恐ろしい災いが降りかかるとしたのである。
またゼウスの息子であるペルセウスが厚遇されるのを妬み、漁夫として平和に暮らしてきた彼をヤッファに転移させる。しかしペルセウスはゼウスの加護により難を逃れ、更にはアンドロメダに一目惚れ。襲い掛かってきたカリボスの右腕を切り落とし、見事謎を解く事に成功する。
息子の哀訴を聞いたテティスは、アンドロメダの母カシオペアが婚儀の席で口を滑らせ「女神テティスよりも美しい我が娘」と呼んだ無礼を理由とし、海の怪物クラーケンの生贄としてアンドロメダを捧げる事を要求。かくしてペルセウスは仲間を率いて、クラーケンを倒す唯一の方法――メドゥーサの首を求めて旅に出るのであった。
最終的にクラーケンはペルセウスによって倒され、妨害しようとしたカリボスも殺される。尚も恨みを募らせるテティスに対し、ゼウスはこれ以上の復讐は無意味であると諭し、彼らの物語を星として永遠に夜空に刻む事を決めるのだった。
関連動画
関連項目
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