パウケンシュラーク作戦(Pauken schlag)とは、第二次世界大戦中の1942年1月13日から始まったドイツ海軍によるアメリカ東海岸での通商破壊である。パウケンシュラークとはドイツ語で太鼓連打を意味する。Uボート主体だが約1ヶ月の間だけイタリアの潜水艦も参加していた。
概要
背景
1939年9月に第二次世界大戦が勃発すると、大西洋と北海にまたがる広大な海域はドイツ海軍とイギリス海軍が干戈を交える戦場となった。当初アメリカは参戦せずに中立国の立場を取っていたのだがその実態は中立とは名ばかり。露骨なまでのイギリスへの肩入れを行っていた。しかし、アメリカの参戦をどうにかして回避したいヒトラー総統は、開戦時にドイツ海軍司令部へ「米軍艦艇を巻き添えにしてはならない」と厳命し、いかなる攻撃も禁じた。
アメリカは中立を守るという名目で大西洋に安全水域を設け、自国の哨戒部隊を以って安全水域内から独英両国の艦艇を締め出した。…のだが、真の目的はイギリス海軍の支援だった。哨戒中にUボートを発見すると位置をイギリスに通報するなど、国際法違反の蛮行を繰り返した。1941年2月には安全水域は西経26度線にまで拡張され、ドイツ軍が進駐する危険性があるからとアイスランドへの派兵まで行うという横暴っぷりであった。それでもドイツは丁重に対応し、アメリカ艦艇を巻き込まないようUボートに相手の国籍を確認させてから攻撃するよう命じた。この頃まではアメリカ担当海域とイギリス担当海域が分かれており、Uボートは狩り場を狭められながらもイギリス担当海域内で暴れていた。しかし同年6月20日、米戦艦テキサスがイギリス担当海域内に入ったのを機に、米艦艇が大西洋の全海域で出現するようになった。こうなってしまっては、もはや配慮する事は出来ない。ドイツ海軍は「攻撃を受けたなら、相手がどの国籍だろうと反撃しても良い」と命令を出した。
そして1941年9月4日、アメリカ軍機に追い回されたU-652がついにブチ切れて、米駆逐艦グリアに雷撃(グリア号事件)。命中こそしなかったが、逆上したアメリカ海軍は9月15日に「商船を襲撃する独伊軍の艦艇は拿捕ないし撃沈する」と宣言。独米は宣戦布告なき戦争状態に突入した。これを機にUボート側も反撃するようになり、10月17日に米駆逐艦カーニーがU-568の雷撃で大破(カーニー号事件)、10月31日にはとうとう米駆逐艦ルーベン・ジェームズが撃沈された。このようにドイツとアメリカは宣戦布告前から水面下で命のやり取りをしていた。
パウケンシュラーク作戦
1941年12月8日、大日本帝國は米英蘭豪に対し宣戦布告。その日本と軍事同盟を組んでいたドイツも12月11日に対米宣戦布告し、いよいよ本格的に攻撃する口実を得る。
日本の参戦と同時に、ドイツ占領下フランスのパリに身を置くカール・デーニッツ提督は12隻のUボートをアメリカ東海岸側で活動させるべきとヒトラー総統に進言。当時のアメリカの輸送網は海運が多数を占めており、東海岸沖には獲物となりうる商船が沢山航行していたのである。12月12日、ヒトラー総統はこの進言を受け入れて認可し、西大西洋での通商破壊作戦「パウケンシュラーク」と命名された。デーニッツ提督のもとには91隻のUボートがいたが、大半が移動中、作戦中、修理中、地中海から出られない等の理由で使用できず、また航続距離の関係で作戦に投入できるのは航続距離に優れたIX型20隻に限定された。内訳はIXA型とIXB型が9隻、IXC型が11隻だったが、攻撃許可が下りた時に即座に投入出来るのはU-123、U-109、U-130、U-125、U-66、U-502の6隻に過ぎなかった。ひとまずこの6隻と第一波とし、フランスの軍港で準備を整えさせた。
12月18日、第一弾となるU-125とU-502が出発。しかし間もなくU-502は漏油のため引き返さざるを得なくなり、12月22日にロリアンへと戻った。12月23日にU-66、27日にU-109とU-130が出港。パウケンシュラーク作戦に従事するUボートは、魅力的な獲物と遭遇しない限り道中で敵船舶を攻撃する事は禁じられた。作戦を実行するにあたって一つ不安要素があった。アメリカ東海岸の詳細な海図が入手できなかったのである。このため、やむなくデーニッツ提督はガイドブックに付いている地図を持たせて作戦に臨ませたとか…。
Uボートの通信を傍受したイギリス軍はカナダ海軍に警告を送り、アメリカ海軍のアーネスト・J・キング提督にも伝えられた。更にイギリスは航路の変更や沿岸の停電を推奨したが、油断していたアメリカ軍は殆ど対策を講じる事は無かった。
1942年1月11日、U-123はアメリカ東海岸沖で英蒸気船サイクロプスを撃沈して最初に戦果を挙げた。アメリカ軍の警戒は大変緩く、港湾は堂々と明かりをつけ、商船は600m波長の無線を出し続け、電信員は絶えず船の位置や護衛艦艇の行動予定を発信し続けていた。これらの情報は当然Uボートも傍受し、極めて有効に活用された。1月12日、東海岸の警備を担うアドルフ・アンドリュース中将が「3~4隻のUボートが沿岸で作戦行動を起こそうとしている」という的確な警告を上層部に送った。しかしアメリカ海軍は「船団方式はUボートに多数の獲物を提供する」として彼の警告を突っぱね、商船の単独航行を改めようとしなかった。
1月13日、ハテラス岬東方にU-66、ロングアイランドの先端付近にU-123、ニュージャージー沖にU-125が到着。U-109とU-130はカナダの沖合いに到着し、敵の内懐に潜んだ海の狼たちが一斉に牙を剥いた。Uボートは昼間は航路を離れて潜航、夜間になると浮上して猛然と商船を襲った。戦時下だというのにアメリカの都市は灯火管制をしておらず、それが灯りとなって夜間でも商船の位置が丸見えだった。アメリカの商船は旧式のため速度が遅く、一度狙われたら逃げ切るのは困難だった。東海岸におけるアメリカ軍の防備体制は、実にガバガバであった。マサチューセッツからノースカロライナを哨戒する航空機は僅か103機のみと哨戒網はスカスカ同然と言えた。加えて時期も大変悪かった。ちょうどアメリカ海軍は駆逐艦を新型に刷新する途上で、旧式の駆逐艦は港内で係留されていて有効な迎撃が行えなかった。ニューヨーク港には13隻の駆逐艦が停泊していたが、近隣で暴れるU-123に手も足も出せなかったという。しかも太平洋沿岸部では、前年の日米開戦以来、日本海軍の潜水艦部隊による通商破壊作戦やアメリカ本土攻撃が続いており、対潜攻撃はそれらへの対処に手一杯という状態であった。
1月15日には第二陣の大型Uボート5隻がフランス沿岸を出発。5隻のUボートは1隻も欠けること無く、2月5日に全艦が東海岸より撤退し、計23隻(15万505トン)を撃沈する大戦果を得た。このうちU-123は獅子奮迅の活躍を見せ、23隻のうち3分の1はU-123の単独戦果だったという。U-123艦長ラインハルト・ハーデガン少佐に向けてデーニッツ提督が「ドラマーのハーデガンへ。ブラボー!ぎゅうぎゅう詰め」という祝電を送った。ロリアン軍港に帰投した5隻のうち、抜群の武功を立てたU-109のブライヒロート艦長は騎士十字勲章が授与。この快報はドイツ本国にも届き、更にUボートが派遣される事になった。
第二陣のUボート5隻はカリブ海に展開。作戦開始日は新月になる2月16日に定められ、さっそくU-156が2隻のタンカーを沈めた。勢いに乗ったU-156は密命であるアルバ島とキュラソー島の燃料タンク砲撃を試みたが、第一弾を発射した時に砲口が損傷し、砲員2名が負傷。損傷部分を削り落として第二弾を発射したが命中せず、沿岸警備隊の襲来によって撤退を強いられた。レーダー総司令は次の夜に再度砲撃するよう命じたが、敵の警備が厳重化。沿岸の明かりも全て消されて目標を発見できなかったので退却した。U-161は勇敢にも、カリブ海東部にあるトリニダード、ポート・オブ・スペイン、カストリーズ、セントルシアの港に侵入。港内に停泊していた船舶数隻を撃沈していった。2月21日、U-504は3隻の大型タンカーを撃沈。2月24日に米駆逐艦に追い回されるも、追跡を振り切ったうえで自動車輸送船を撃沈せしめた。2月25日から3月23日にかけてはイタリアの潜水艦も参加。タッツォーリ、フィンツィ、モロジーニの3隻がフロリダ・メキシコ湾間で通商破壊を行い、最低でも15隻の商船を撃沈している。迎撃する側のアメリカ軍は太平洋方面での日本陸海軍の猛攻で手一杯であり、有効な反撃を行えなかった。
当初は大型Uボートしか参加しなかったが、中型Uボートでも大西洋横断が可能だと分かると中型も派遣された。しかしヒトラー総統のアヤフヤな命令や作戦中止に振り回され、デーニッツ提督が自由に使えたのは12隻だけであった。そして同時に作戦行動できたのは8隻に留まった。
3月と4月はもっと戦果が挙がった。単独航行中の商船を狙う戦法に切り替えた事でより多くの商船を血祭りに上げられたのだ。U-123は3月中旬から4月末までに11隻を、U-160、U-203、U-552はそれぞれ5隻を撃沈した。大損害を受けた連合軍はようやく重い腰を上げた。沿岸の照明を落とすとともに海と空からの警戒を強め、獲物の商船も姿を消し始めた。4月14日、U-85を撃沈された事によりドイツ海軍に最初の損害が生じた。最も敵の警戒が強くなったフロリダ沖では、5月上旬に3隻のUボートが商船10隻を沈める程度で終わった。一方、南方のカリブ海では遅々としてUボート対策が進まず、相変わらず格好の狩り場だった。ドイツ海軍はUボートに補給を行う潜水補給艦、通称ミルヒクーを投入。補給艦の活躍によりUボートの活動範囲は拡充され、商船を狩り続けた。連合軍はミルヒクーの存在を知らず、はるか遠方のカリブ海までやってこれるはずが無いと油断し切っていた。ゆえに当海域のUボート対策が進まなかったのである。
獲物が少なくなった北米沿岸からは6隻が、東海岸からは4隻が抽出され、カリブ海に転戦。各方面からUボートが殺到した結果、カリブ海方面で活動するUボートは37隻にのぼり、5月と6月の2ヶ月だけで148隻(75万2000トン)が海の藻屑となった。この損害に驚いた連合軍は7月上旬になって重い腰を上げ、単独航行を禁止。船団方式に切り替え、しっかりとした護衛兵力も割くようになった。これに対抗すべくUボートも個人プレーをやめ、各艦の連携を重視するようになった。U-569は船団を襲撃し、一晩で7隻を撃沈した。その後もカリブ海やアメリカ東海岸では通商破壊が行われ、連合軍に出血を強い続けた。
結果
1942年6月までにUボートは合計585隻(308万1000トン)を沈め、連合軍の心胆を寒からしめた。最終的な戦果は609隻(310万トン)に達した。パウケンシュラーク作戦で沈められた連合軍商船は全体の喪失数の4分の1に匹敵し、数千人の船員と海兵隊員が波間に消えた。対するドイツ海軍はUボートを22隻失った程度で済んだ。通商破壊作戦としては大成功と言えるだろう。
ところが大西洋の戦いに勝利するには連合軍の建造数以上の商船を撃沈する必要があるのだが、ドイツの統計学者が調べた結果、毎月最低70万トンは撃沈しなければならなかった。華々しい戦果を挙げたパウケンシュラーク作戦の時ですら、この70万に達していなかったのである。Uボートの喪失数は21隻と戦果と比べると少なかったが、このままでは永久に勝つ事は出来ない。ドイツ本国では急ピッチでUボートの建造が行われ、6月末には140隻が行動可能になっていた。
Uボートの通商破壊が勝るか、連合軍の物量が勝るか。この時はまだ分からなかった。1943年8月2日に撃沈されたU-106が東海岸沖で最後に犠牲となったUボートだった。
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