U-161単語

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U-161とは、第二次世界大戦中にドイツ海軍が建造・運用したIXCUボートの1隻である。1941年7月8日工。通商破壊により連合軍艦13隻(6万1237トン)の戦果を挙げた。1943年9月27日バイーア東方の南大西洋にて、航空攻撃を受けて沈没

概要

IXCは、航続距離に優れた航洋タイプの大潜水艦である。原1936年に就役したIAとし、これを改良してIXを造り上げたが、小VIIC力に据えて優先建造すべしというも強く、ドイツ海軍上層部ではかなり議論が交わされた。実際にIXを建造してみると航続距離が長く、大西洋での通商破壊に向き、安全深度や水中速力にも優れる優秀艦だと判明。すぐさま小改良を施したバリエーション機が造られた。IXCもその一つである。ただし大ゆえに建造日数が掛かり、大量生産にはどうしても不向きと言わざるを得ない。

前級IXB型の設計をベースに艦体を0.26m延伸し、殻の間に燃料タンクを増設した事で、航続距離が1万3450里に達した。また揮所の潜望を外して2本に減らしている。またU-161はTMA機雷44個、TMB機雷66個を搭載可

IXCは合計54隻が生産。このうち機雷敷設力を持つのはU-161を含む19隻のみだったりする。

排水量1120トン、全長76.76m、全幅6.76m、燃料搭載量208トン、最大速力18.3ノット(水上)/7.3ノット(水中)、急速潜航時35、安全潜航深度100m、乗組員44名。武装は533mm魚雷発射管6門、魚雷22本、105mm甲1門、37mm単装機関1門、20mm単装機関1門。

艦歴

1939年9月25日ブレーメンドイツシフ・ウント・マシーネンバウAG発注1940年3月23日、ヤード番号700の仮称を与えられて起工、1941年3月1日、そして7月8日工を果たした。初代艦長にハンスルートヴィヒ・ヴィット少佐が着任するとともに訓練部隊の第4潜隊群へ編入。バルトで慣熟訓練を行う。

12月8日、同盟大日本帝國アメリカ宣戦布告ドイツ12月11日に対宣戦布告を行い、中立ゆえ今まで手出しが出来なかったアメリカ船舶に対する攻撃が解禁。これに伴ってカール・デーニッツ提督東海での大規模通商破壊ことパウケンシュラーク作戦ヒトラー総統に進言し、航続距離に優れるIX20隻の作戦投入が認可された。

1942年1月1日より第2潜隊群に所属。同時に二代艦長としてアルブレヒトアキレス大尉が着任。

1回目の戦闘航海

1942年1月3日アキレス艦長揮の下、キールを出港して第一次戦闘を開始。ブルンスビュッテルで一晩仮泊して護衛の到着を待ったのちノルウェー西北上していく。

1月8日、パウケンシュラークの補助作戦にあたるノイラン作戦への参加が決まり、2月新月期に合わせてカリブ通商破壊を行うべく、可及的速やかにロリアンに進出するよう命じられ、普段Uボートが使わないフェロー諸島メインランド間の域を通って北大西洋へ移動、敵に見つかる危険を冒して最短ルートアイルランド西方を南下し、1月15日ロリアンへ入港。

入港を済ませた後、アキレス艦長はU-67、U-129、U-156、U-502の艦長とともに作戦会議へ参加、カリブでの経験を持つハンブルクアメリカラインの元船長域の状況について説明した。1月16日から20日まで造所で入渠整備、21日と22日の両日を使って食糧の積載作業を行い、1月23日にトリムテストを実施。急速に戦備を整えていく。

遠大な大西洋を隔てた先にあるカリブには、キュラソーロイヤルダッチシェル所、イギリスが所有するトリニダーの製所、ベネズエラ田、オランダ所有のアルバ所等が散在。連合軍はベネズエラで産出した燃料をキュラソー経由でイギリスに輸送し、またアメリカ本土へ繋がるアルミニウムの輸送路もあるため、カリブ一帯は敵軍のアキレス腱と言えた。

2回目の戦闘航海

1月24日午後12時5分にロリアンを出撃。ビスケー湾を南西方向に向け、遠く離れたカリブ方面へと向かう。

1月31日14時3分、北東方向に向かう、2本のマストを備えた駆逐艦を発見。14時50分に突如駆逐艦が転針、U-161に向かってきたため急速潜航したものの、どうやら敵はU-161の存在に気付いていなかったらしく、何も仕掛けないまま通り過ぎていった。15時21分浮上。間もなく駆逐艦との接触が途絶えたので、U-161は作戦域への移動を再開する。

2月1日午前9時20分、カリブの入り口であるサン・ミゲルのアーネル灯台を見つけ、サン・ミゲルサンタ・マリアの間を通過、大圏航路を通りつつトリニダーに進む。この辺りにはドラゴンズマウスと呼ばれる、渦巻く危険な潮流があったが、ハンブルクアメリカライン元乗組員のアキレス艦長には本域を通過した経験があり難なく突破に成功。

2月17日午前0時にトリニダー北東へ到着。戦時中にも関わらず、往来する船舶は堂々と作業を点け、盛んにモールス信号によるやり取りが成されているなど、時そのものの光景殺気立つU-161を出迎え、獲物になりそうなものを探しながらトリニダー東進していく。午前4時45分、4隻編制で警中の巡視船を回避。

2月19日午前2時50分、大胆にもU-161はトリニダード・トバゴの停泊地に侵入、港内の船舶状況を確認し、午前5時32分、ポート・オブスペインに向けて艦尾発射管から魚雷2本を発射、停泊中の蒸気ブリティッシュ・コンサル蒸気キハナに命中・着底させる。しかし場所が浅瀬だったせいで2隻とも引き揚げられている。

雷撃後、サーチライトから逃れるべく、潜航と浮上を繰り返しながらベネズエラを西に移動するが、海岸は敵機のが厳しく、やむなく潜航しながら海岸線を離れた。

2月21日21時5分、水中聴音で獲物を探知したU-161は潜望深度まで浮上、5000トン級タンカー中立標識し、国旗は小さくして判読不明ながらおそらく星条旗と判断、発射管に魚雷を装填して雷撃準備を整える。21時13分、ポート・オブスペイン西北西20で、ON-20団から分離していたタンカーサース・シェル(8207トン)を雷撃、65後、2本の魚雷が命中してマストの高さまで柱が築かれ、右舷側へ大きく傾斜させるも、22時14分に敵機3機から爆撃を受け深50mまで一旦潜航退避。

翌22日午前1時41分、敵機の妨を掻い潜って距離500mより魚雷を発射し、24後に命中、これがトドメの一撃となり、サース・シェル尾を沈下させて急速に沈没していった。最後に潜望観察した時、首15mのみが水上に出ている状態だったという。こうして初戦果を得たU-161は1時間潜航して域を脱出。

2月23日午前6時43分、マルティニーク西方275里にて、ニューヨークからトリニダードに軍需品や一般貨物5000トンを輸送中の蒸気商リフ(7001トン)を雷撃し、左舷の第一倉前方に魚雷1本を命中させる。15分後、浮上したU-161は水上撃でトドメを刺そうとするが、リフエから大砲機関銃による強力な反撃を受けて潜航を強いられ、その後発射した2本の魚雷も外れてしまったので、アキレス艦長は「Qシップ(潜水艦をおびき出して撃沈する重武装の商)なのではないか?」と疑念を抱き、攻撃を断念して離脱。リフエは命からがら助かった。ところがセントルシア航されている途上で沈没して結局失われてしまった。

2月26日14時52分、距離7000mの低高度より敵機が襲来して潜航退避。爆雷のものと思われる3回の爆発音と衝撃がU-161を襲い、全ての位計が破損、複数の部屋照明消失、潤滑タンクからの漏といった各種損が発生するも、乗組員の速かつ適切な応急修理により事なきを得る。

3月7日17時59分、セントビンセント西方45里で、単独航行していた南アフリカ捕鯨ウニワレコ(9755トン)はU-161の雷撃を受け、2本のうち1本が命中、制御不能に陥って旋回しか出来なくなり、18時14分に尾へ魚雷を撃ち込まれた結果、体をっ二つに断裂させながら沈没死亡した18名を除く船長員32名がセントビンセントに上陸した。20時頃、U-161は潜航したままセントビンセントの横をすり抜け、ポートカスリーズ方面に移動。

3月10日午前4時49分、セントルシアのポートカスリーズ港に向けて魚雷2本を発射。最初の魚雷カナダ蒸気客レディネルソンに、2本魚雷蒸気ウムタタに命中し、両とも浅瀬に着底させたものの、後に引き揚げられて再就役している。

3月13日22時34分、暗闇の中を進むタンカーを発見。Uボートの出現を知っているのか無灯火で進んでいる様子だった。翌14日午前2時30分、グアドループ西方にて、ボーキサイトを載せて単独航行中のカナダ蒸気サルニアドック(1940トン)を雷撃、28後に1本が煙突付近に命中し、ボイラー爆発して僅か30沈没船長員20名全員死亡した。

3月15日午前10時42分、キュラソーからアンティグアへ単独移動中の沿警備隊・灯台補給アカシア(1130トン)を捕捉、相手は非武装だったので午前11時37分から午後12時11分まで水上撃を仕掛け、10.5cm弾68発、20mm機関弾92発、37mm機関弾70発を浴びせてアカシアを大破炎上へと追いやる。乗組員全員が艦を放棄したのち、セントクリストファー・ネイビス南西70里の地点で沈没アカシアアメリカ沿警備隊が失った一の船舶であった。14時47分、アカシアからの救難信号を受けたと思われる敵機が出現して潜航退避。

3月21日午前10時16分にタンカーを発見して追跡を開始、そして午前10時38分より距離3500mから水上撃を行う。敵タンカー尾をU-161に向けて逃走を図るが、その4分後、「エンパイア・ゴールド」を名乗りで反撃、ジグザグ運動を取りながら互いにしい撃戦を演じる。やがて弾が艦体付近に着弾したため撃を中止して潜航。午後12時11分、敵タンカースコールに紛れて姿が見えなくなった。今回の戦闘を以ってカリブを脱して帰路に就く。

3月28日午前4時20分、アゾレスを航行中、BdUより西経29度以東の全Uボート最高速特定域へ進撃するよう命じられるが、U-161は燃料残量不足により参加しなかった。

4月2日午前10時30分、ロリアンに帰投。今回の通商破壊で5隻撃沈と4隻撃破の戦果を挙げた。

3回目の戦闘航海

4月28日ロリアンを出撃、ビスケー湾を南西方向に抜けて北大西洋へと進出する。

再びカリブに向かう予定だったが、5月4日BdUはU-161、U-126、U-128に敵団攻撃のため最短ルートで南下すべしと命5月12日13時3分にU-126が敵団を発見し、U-161も接触に成功するも、護衛兵力に撃退されて見失ってしまう。その後、3隻は西から東、東から北へと捜索を実施、すると翌12日午前10時30分にU-161が再び団と接触、位置情報通報により間もなくU-126とU-128が応援に駆け付けた。しかし敵護衛兵力の妨で全艦撃退されて潜航を強いられる。以降接触は途絶えた。

5月23日ブラジル北東に到達したU-161はU-126、U-128とともに海岸付近の交通を探るよう示を受ける。南東には同盟イタリア潜水艦4隻が展開していた。5月29日まで偵察を行ってみた船舶の往来が確認されなかったので北西方向へ移動。僚艦2隻と縦一列の線を敷いているにも関わらず6月2日になってもぼしい船舶撃はく、当初の予定通りカリブのトリニダード方面に狩り場を移す。

6月11日ギアナ沿に沿って航行。時折飛来する敵哨戒機に警しながら獲物を探しめる。

6月16日14時10分、キュラソーウィレムスタット北東にて、ドミニカ帆船ヌエバ・アルタグシア(30トン)を発見、甲による威嚇射撃で停させる。ヌエバ・アルタグシアキュラソーに向かっていた事、全員を乗せるには救命ボートが足りない事から、アキレス艦長はキュラソーまで帆船を連れて行こうとするが、中で別の帆船コメルシオと遭遇したため船長員7名を移乗させ、ヌエバ・アルタグシアの積み荷から新鮮な果物を接収したのち爆薬で処分した。トウモロコシと載せ切れなかった果物に投棄されている。

20時5分、速力8ノットで敵団が航行しているのを発見、BdUから攻撃許可を得たU-161は翌15日午前2時25分に雷撃し、4000トン貨物船の撃沈を報告(該当し)。間もなく敵団を見失い、明けまで捜索を行ったものの発見に至らなかったため、魚雷を使い果たしてカリブより退却するU-159との合流地点に向かう。

6月20日午前1時3分、ケープ・デ・ラ・ベラU-159と合流、認識信号を交換した後、陸地の陰に移動して午前8時35分より燃料と食糧の補給を開始、アキレス艦長は望む物を全て手に入れられたため、お礼にレモンオレンジを贈った。午前10時40分に2隻は分離。

6月26日にU-161はコロン交通い事、悪に阻まれて通商破壊が上手く行かない事、中程度の航空が行われている事をBdUに報告。28日、燃料不足が深刻化したため、U-161、U-126、U-128に帰投命が出され、荒に揺さぶられながら離脱を開始。

7月2日19時40分よりプエルト・リモンの港に侵入、翌3日午前4時1分、港内で停泊中の汽魚雷2本を発射し、桟に横付け中のパナマサンパブロ(3305トン)の体中央部と船橋付近に命中、員1名及び港湾労働者23名が死亡するとともに、上部構造物だけが面に出ている格好で着底させた。今回も浅瀬に沈んでいたので後に引き揚げられたが、損傷のしさから全損と宣告されている。

7月11日よりカリブに侵入。バミューダ諸南方から北東方向へ移動しながら獲物を探しめる。

7月16日15時43分、セントヴァージン北方500里にて、速力10ノット、駆逐艦3隻と6隻の汽で編成されたAS-4団に2本の魚雷を発射、戦車52輌や自走砲18門、その他物資を輸送中の団旗艦・貨物船フェアポート(6165トン)に2本とも命中し、15分後に沈没させた。しかしその代償にU-161は9時間に渡る爆雷攻撃を受けて相応の被害をこうむる。

ウィンワード峡からイナグア東海を抜け、タークスカイコス諸カイコ峡を通って大西洋に脱出。7月21日モナ南方でU-508と合流し余った魚雷1本を譲渡。翌22日にはU-461から燃料と食糧8日分の補給を受ける。

8月7日ロリアンへ帰投。カリブやトリニダード方面の敵船舶は単独航行している事が多く、奇襲攻撃には持ってこいの場所であったが、U-161が帰投した頃、大西洋方面と同様に団方式が取られるようになり、以前より戦果が挙げづらくなってしまった。

4回目の戦闘航海

9月19日ロリアンを出撃、長大な航続距離を活かして今度は南アフリカ西方面に向かう。去る8月22日ブラジル連合へ加入したので、イギリスを運ぶ高価な冷凍団を狙えるようになり、デーニッツ提督フリータウン・ケープタウン間の域に補給艦XIVを含むUボート戦隊派遣したのである。

10月23日午前7時56分、フランスアフリカポイントノワール約6にて、ドイツの封鎖突破捜索の任を帯びていた軽巡洋艦フィービーへ魚雷4本を発射、左舷に2本が命中して乗組員57名が即死、59名が負傷した。深刻な損傷こそ与えたものの、フィービーはポイントノワールへ自ら座礁して沈没を免れている。翌24日船舶に対して攻撃を仕掛けたが、護衛の駆逐艦によって追い払われた。

コンゴ河口、バナナロアンジュ、カブリンダポイントノワールで遊しても戦果を挙げられず、10月29日、U-161とU-126はバナナから北上してタコラディ及びラゴスでの通商破壊を開始。11月5日に2隻の蒸気を、翌6日に1隻の蒸気を発見、いずれもタコラディに入港した。荒波と東への強い潮流のせいで浅瀬での航行は不可能だった。

11月8日23時47分、タコラディ南西60里にて、フリータウンからタコラディへ航行中のST-40団に魚雷4本を発射、ケーブルドラムトラックなどを甲に積載していた蒸気ウェストハムホー(5527トン)とベナルダーにそれぞれ命中し、ウェストハムは放棄されて30分後に沈没、ベナルダーは航行不能に陥ったものの翌日タコラディに航されて助かった。

11月28日午前8時14分、U-161はON-145団から分離した蒸気ジレボート(5760トン)を発見して攻撃開始、対するトジレボートもU-161の存在に気付いてジグザグ運動を行いながら発、思わぬ反撃を受けたU-161は一旦潜航してやり過ごす。13時48分に浮上して追跡を再開、翌29日午前0時37分、トジレボートに向けて魚雷2本を発射、72後、1本が命中して巨大な爆発が巻き起こり、破片がU-161の周囲1000m以内にまで降り注いだ。船長員56名、手5名全員死亡

12月8日から9日にかけて、補給艦U-461より燃料、潤滑2000リットル、飲料2000リットル、食糧14日分、の補給。これにより作戦活動期間が14日間延長された。

12月12日午前9時33分、汽発見に伴い追跡を開始、13時30分より急速潜航、そして14時4分に蒸気リプリー(4997トン)へ向けて魚雷2本発射、44後に2本とも命中して洋上停止させる。員は救命ボートを降ろして脱出し始めたが、一向に沈む気配がかったため、14時41分にトドメの魚雷を撃ち込んで撃沈。積み荷のパーム9000トン、マホガニー、ゴムもろとも海底に葬る。ボート上の生存者に尋問を行ったのち域を出発した。

12月22日夕刻、敵護送団を狙って雷撃するも失敗。敵団の針路と速力を通報して帰路に就く。

1943年1月9日ロリアンへ帰投。南アフリカでの戦果は、落ち気味だった北大西洋方面の戦果を補えるほど充実し、更に敵の護衛兵力を戦場から他の域へ分散させる副次効果ももたらした。

5回目の戦闘航海

1943年3月13日ロリアンを出撃。アメリカ東海して北大西洋を西進していく。

3月22日BdUはU-161とU-174に対し、日本の勢力圏とヨーロッパを往来している独の封鎖突破と合流してレーダー機器を譲渡するよう示。U-161はレーゲンスブルクとピエトロ・オルセオーロ、U-172カリンとイレーネを担当した。封鎖突破中立船舶を装っているため外見だけでは判別出来ない。そこで、レーゲンスブルクは識別マークとして、天時はミズンマストから尾にかけて洗濯物用のワイヤーり、悪時はミズンマストに消火ホースるす事とした。

3月23日日本占領下のバタビアからヨーロッパへ帰中の封鎖突破レーゲンスブルクと予定された位置で合流、3月27日には神戸ボルドー行きのイタリア封鎖突破ピエトロ・オルセオーロと合流している。

封鎖突破との会合任務を終えた2隻は西進しつつ、3月30日ドイツ海軍上層部に封鎖突破ビスケー湾到着予定日を報告、彼らが護衛を受けられるよう準備を整えた。4月8日頃にアメリカ東海作戦域へと到着し、U-129やU-174とともに通商破壊を行う。4月12日ナンタケット礁75キングフィッシャー水上機から攻撃を受ける。

4月26日、ケープセイブ南方で速力8~10ノットで航行中の敵団を発見、BdUより攻撃許可を得て、U-174とともに追跡するが、翌日エンジントラブルに見舞われてあえなく取り逃がしてしまった。一方、U-174は団に食い下がったものの、ニューファンドランド南西で、アメリカ海軍ロッキード・ベンチュラの攻撃を受けて撃沈された。ハリファックスカナダ東海ニューヨークノーフォークなど船舶交通量が多そうな場所で積極的な索敵を行うも実を結ばず、5月17日に燃料不足が深刻化してきたため帰路に就く。

5月18日14時35分、U-161は、ハリファックスに向かっているカナダ帆船アンジェラ(255トン)を発見して追跡を開始、翌19日午前11時30分、ボストン南東で停させ、船長員9名が救命ボートで脱出するのを見届けてから水上撃で撃沈した。後に救命ボートに巻き込まれ、駆逐艦ターナーに救助された時には生存者が2名にまで減っていたという。

5月29日U-229から燃料、パンバターソーセージ果物の補給を受ける。BdUは、約3ヶ前にU-333が対射撃ウェリントン爆撃機を撃墜した例を挙げ、「敵の航空攻撃に対してしい対射撃で応戦せよ」と命、また航空が厳しいビスカ域を突破するべく、東海に展開中のUボートで即席の集団を編制。U-161はU-229とタッグを組む事になり一緒にロリアン帰投をす。

中何事もく、6月7日ロリアンへ帰投。

6回目の戦闘航海

8月8日ロリアンを出撃、最後となる第六次戦闘を開始する。今やビスケー湾の制権はイギリス軍に握され、ビスケー湾から外に出ようとした86隻のUボートのうち、19隻が撃沈されていた。翌9日、東海方面に向かうU-664にユニットを譲渡するよう命じられ、8月13日にU-664と合流、命通りユニットを引き渡した。

この頃、同盟日本からは、ヒトラー総統償譲渡するU-1224の回航員を乗せた日本海軍潜水艦伊8(暗号フレッツィア)が、ペナンを出発して遠路はるばるフランスに向かっていた。8月2日伊8北上して北大西洋に入り、連絡が付いたドイツ海軍連合軍の対潜しい危険域を事突破させるべく、U-161に伊8と合流、連絡将校とメトックスレーダー逆探装置、操作員2名を移乗させるよう命じる。

合流地点に定されたアゾレスの近には敵護衛空母ボーグコア、サンテーと対潜装備を備えた護衛駆逐艦群が遊しており、既に10隻のUボートが護衛空母から発進した哨戒機の犠牲となっていた。

8月19日、U-161は伊8に「間は潜航して駆逐艦に探知されないよう待機せよ」「8機のJu88爆撃機フレッツィアを発見したら認識信号として赤色弾20発を発射する」「Ju88爆撃機との合流場所へ到着する際は3日前に報告せよ」「機雷原の安全航路は味方駆逐艦から通達される」といった注意事項を、ベルリン日本海軍武官を経由して伝える。線通信と同時に南進して伊8との合流予定地点に急行

8月20日曇天のアゾレス西方に到着。しかし伊8の姿が見えない。しばらく探し続けていると、伊8のものと思われる定符合が届き、方位測定をした旨を伝達、そして15時10分に両艦は邂逅を果たす。伊8からが発射され、1本のロープで伊8とU-161の位置を固定すると、ヤーン少尉ゴムボートに乗って伊8へ移乗、内野艦長と通訳の山中静三文官に挨拶し、手土産ヘネシーブランデー2本とレモン数個をプレゼントした。が荒れているので、重要なメトックスの譲渡はが穏やかになるまで延期する事とし、両艦は潜航してその時を待つ。

翌21日午前11時に2隻は合流地点で再度会同。ヤーン少尉と通信兵2名が乗り移り、新の逆探装置メトックスを譲渡・潜望支基上部に装備させる。その単純な作りに伊8側の乗組員は驚いた。しかし性日本の電探よりかに優れており、自軍の電探性の低さに恥ずかしさを覚えた彼らは、自製の電探を分解して隠してしまったエピソードがある。通信兵が敵の発信電波を捉え、ヤーン少尉が判読して潜航するかどうかを決める役割を担う。

重な贈り物を受け取った内野艦長は、お礼としてマレー産のコーヒーが入った一斗缶をU-161に贈ったところ、ドイツ人乗組員はとても喜び、アキレス艦長がタイプライターで打った礼状を先任将校がわざわざ持ってきたほど。ドイツ内でもコーヒーは欠乏していてこの贈り物は時勢にピッタリだったのだ。

官からののご挨拶に対し、私は本艦乗組員を代表して心からお礼申し上げます。このご挨拶により、々の伝統である本日の土曜日午後のコーヒーを、いっそう飾ってくれる事でしょう。官ならびに艦乗組員に対し、々はいつも航事を祈りますとともに、々の合言葉である『事と勝利と大きな獲物を』と、を大にして叫びます。 アルブレヒトアキレス大尉

やがて両艦は互いに武運長久を祈りながら分離。続いてU-161は伊8の航路をフランス方面のドイツ軍転送し、Ju88や駆逐艦による援護が受けられるよう下準備を整える。最新鋭の逆探装置を得た伊8遣独潜水艦作戦一往復に成功。U-161の助力が成功の一因なのは疑う余地がいだろう。ちなみに、この時贈ったメトックスは第四次訪独艦の伊29に引き継がれている。

伊8と別れた後、U-161はブラジル東海域へと向かう。ブラジル連合参戦以降、同地の航空基地はアメリカ海軍航空隊に開放され、かつては潜先として避難所的役割を果たしていたブラジル沿も、今や敵哨戒機が飛来する危ない場所と化していた。9月4日に南大西洋のん中で帰投中のU-198と合流して燃料補給を受ける。

9月20日午前10時50分、マルティン・ヴァス・ロック北方約240里で、単独航行中のセント・アスク(5472トン)はU-161から雷撃を受け、左舷後方の第5倉に命中、爆発衝撃でハッチが吹き飛ばされ、デリックが破壊され、僅か数分でデッキにまで浸が広がったので、員は2隻の大救命ボートに乗って脱出。頭蓋骨折死亡した手1名を除いて全員を脱した。

間もなくU-161は浮上。船長が乗る救命ボートへ向かい、船長、二等航士、三等線士を尋問するべく艦内に収容、残りの生存者には熱々のコーヒーが支給された。アキレス艦長は尋問の前にまずを沈めた事を謝罪、生存者が持っていた地図現在位置とサルヴァドール・ダ・バイーアへの針路を描き、2つのんで救命ボートに積むなど紳士的に接したが、同時にU-161の位置を通報しないよう線機を取り外している。また負傷者はドイツ人軍医によって手当てを受けた。その後、捕虜となった船長以外はボートに戻されている。

9月26日18時50分、ブラジル自動車運送イタパジェ(4998トン)は、アラゴアス州マセイオ南方32kmにてU-161から雷撃を受け、右舷に2本の魚雷が命中、4分以内に沈没して員16名と乗客4名が死亡した。その後、アラトゥ基地より飛来したアメリカ海軍マリナー飛行艇に攻撃されて潜航退避。この時は逃げ延びる事に成功したが…。

最期

1943年9月27日午前10時50分、サルヴァドール・ダ・バイーア東方にて、別のマリナー飛行艇VP-24にレーダー探知される。太陽を背に突っ込んでくるマリナーに対し、U-161は左旋回しつつ甲で反撃、しかしマリナーの勢いは止められず、6発の爆弾が投下されてU-161を柱の間に覆い隠した。

U-161は右への回避運動を開始しつつ撃で応戦。至近弾により、ブレット少尉ディーン・ビーラー通信兵に重傷を負わせ、マリナーのパイロットは「火はよりしく、より正確だった」と評した。U-161とマリナーは互いにしく撃ち合って死闘を演じる。艦尾から艦首にかけてマリナーが頭上を航過した際、更に2発の爆弾を投下、これにより致命傷を負ったU-161であったが、決死の応戦は続き、多数の命中弾を与えてマリナーを撃退せしめる。だが午前11時22分、U-161も力尽きて沈没してしまい乗組員53名全員死亡

マリナーと交代する形でベンチュラが当該域に出現するもU-161の跡を発見出来なかった。

連合軍側の資料によると、ブラジル東海域における、後部に追加の対空砲台を備えたタイプUボートの出現は初めてであり、調の結果「レーダー探知距離の拡大」「対兵装の強化」が認められている。また第10艦隊は空撮写真をもとにU-161の特徴的なスケッチした。

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