U-161とは、第二次世界大戦中にドイツ海軍が建造・運用したIXC型Uボートの1隻である。1941年7月8日竣工。通商破壊により連合軍艦船13隻(6万1237トン)の戦果を挙げた。1943年9月27日、バイーア東方の南大西洋にて、航空攻撃を受けて沈没。
概要
IXC型は、航続距離に優れた航洋タイプの大型潜水艦である。原型は1936年に就役したIA型とし、これを改良してIX型を造り上げたが、小型のVIIC型を主力に据えて優先建造すべしという声も強く、ドイツ海軍上層部ではかなり議論が交わされた。実際にIX型を建造してみると航続距離が長く、大西洋での通商破壊に向き、安全深度や水中速力にも優れる優秀艦だと判明。すぐさま小改良を施したバリエーション機が造られた。IXC型もその一つである。ただし大型ゆえに建造日数が掛かり、大量生産にはどうしても不向きと言わざるを得ない。
前級IXB型の設計をベースに艦体を0.26m延伸し、船殻の間に燃料タンクを増設した事で、航続距離が1万3450海里に達した。また指揮所の潜望鏡を外して2本に減らしている。またU-161はTMA機雷44個、TMB機雷66個を搭載可能。
IXC型は合計54隻が生産。このうち機雷敷設能力を持つのはU-161を含む19隻のみだったりする。
要目は排水量1120トン、全長76.76m、全幅6.76m、燃料搭載量208トン、最大速力18.3ノット(水上)/7.3ノット(水中)、急速潜航秒時35秒、安全潜航深度100m、乗組員44名。武装は533mm魚雷発射管6門、魚雷22本、105mm甲板砲1門、37mm単装機関砲1門、20mm単装機関砲1門。
艦歴
1939年9月25日、ブレーメンのドイツ・シフ・ウント・マシーネンバウAGに発注。1940年3月23日、ヤード番号700の仮称を与えられて起工、1941年3月1日進水、そして7月8日に無事竣工を果たした。初代艦長にハンス・ルートヴィヒ・ヴィット少佐が着任するとともに訓練部隊の第4潜水隊群へ編入。バルト海で慣熟訓練を行う。
12月8日、同盟国の大日本帝國がアメリカに宣戦布告、ドイツも12月11日に対米宣戦布告を行い、中立国ゆえ今まで手出しが出来なかったアメリカ船舶に対する攻撃が解禁。これに伴ってカール・デーニッツ提督は米東海岸沖での大規模通商破壊ことパウケンシュラーク作戦をヒトラー総統に進言し、航続距離に優れるIX型20隻の作戦投入が認可された。
1942年1月1日より第2潜水隊群に所属。同時に二代目艦長としてアルブレヒト・アキレス大尉が着任。
1回目の戦闘航海
1942年1月3日、アキレス艦長指揮の下、キールを出港して第一次戦闘航海を開始。ブルンスビュッテルで一晩仮泊して護衛の到着を待ったのちノルウェー西岸を北上していく。
1月8日、パウケンシュラークの補助作戦にあたるノイランド作戦への参加が決まり、2月の新月期に合わせてカリブ海で通商破壊を行うべく、可及的速やかにロリアンに進出するよう命じられ、普段Uボートが使わないフェロー諸島・メインランド島間の海域を通って北大西洋へ移動、敵に見つかる危険を冒して最短ルートのアイルランド西方を南下し、1月15日にロリアンへ入港。
入港を済ませた後、アキレス艦長はU-67、U-129、U-156、U-502の艦長とともに作戦会議へ参加、カリブ海での経験を持つハンブルク・アメリカラインの元船長が海域の状況について説明した。1月16日から20日まで造船所で入渠整備、21日と22日の両日を使って食糧の積載作業を行い、1月23日にトリムテストを実施。急速に戦備を整えていく。
遠大な大西洋を隔てた先にあるカリブ海には、キュラソー島のロイヤルダッチシェル製油所、イギリスが所有するトリニダード島の製油所、ベネズエラの油田、オランダ所有のアルバ島製油所等が散在。連合軍はベネズエラで産出した燃料をキュラソー経由でイギリス本国に輸送し、またアメリカ本土へ繋がるアルミニウムの輸送路もあるため、カリブ海一帯は敵軍のアキレス腱と言えた。
2回目の戦闘航海
1月24日午後12時5分にロリアンを出撃。ビスケー湾を南西方向に向け、遠く離れたカリブ海方面へと向かう。
1月31日14時3分、北東方向に向かう、2本のマストを備えた駆逐艦を発見。14時50分に突如駆逐艦が転針、U-161に向かってきたため急速潜航したものの、どうやら敵はU-161の存在に気付いていなかったらしく、何も仕掛けないまま通り過ぎていった。15時21分浮上。間もなく駆逐艦との接触が途絶えたので、U-161は作戦海域への移動を再開する。
2月1日午前9時20分、カリブ海の入り口であるサン・ミゲル島のアーネル灯台を見つけ、サン・ミゲル島とサンタ・マリア島の間を通過、大圏航路を通りつつトリニダード島に進む。この辺りにはドラゴンズ・マウスと呼ばれる、渦巻く危険な潮流があったが、ハンブルク・アメリカライン元乗組員のアキレス艦長には本海域を通過した経験があり難なく突破に成功。
2月17日午前0時にトリニダード島北東へ到着。戦時中にも関わらず、往来する船舶は堂々と作業灯を点け、盛んにモールス信号によるやり取りが成されているなど、平時そのものの光景が殺気立つU-161を出迎え、獲物になりそうなものを探しながらトリニダード島北岸を東進していく。午前4時45分、4隻編制で警戒中の巡視船を回避。
2月19日午前2時50分、大胆にもU-161はトリニダード・トバゴの停泊地に侵入、港内の船舶状況を確認し、午前5時32分、ポート・オブ・スペインに向けて艦尾発射管から魚雷2本を発射、停泊中の英蒸気船ブリティッシュ・コンサルと米蒸気船モキハナに命中・着底させる。しかし場所が浅瀬だったせいで2隻とも引き揚げられている。
雷撃後、サーチライトから逃れるべく、潜航と浮上を繰り返しながらベネズエラ北岸を西に移動するが、海岸沖は敵機の哨戒が厳しく、やむなく潜航しながら海岸線を離れた。
2月21日21時5分、水中聴音で獲物を探知したU-161は潜望鏡深度まで浮上、5000トン級タンカー、中立標識無し、国旗は小さくして判読不明ながらおそらく星条旗と判断、発射管に魚雷を装填して雷撃準備を整える。21時13分、ポート・オブ・スペイン西北西20海里沖で、ON-20船団から分離していた英タンカーサース・シェル(8207トン)を雷撃、65秒後、2本の魚雷が命中してマストの高さまで水柱が築かれ、右舷側へ大きく傾斜させるも、22時14分に敵機3機から爆撃を受け水深50mまで一旦潜航退避。
翌22日午前1時41分、敵機の妨害を掻い潜って距離500mより魚雷を発射し、24秒後に命中、これがトドメの一撃となり、サース・シェルは船尾を沈下させて急速に沈没していった。最後に潜望鏡観察した時、船首15mのみが水上に出ている状態だったという。こうして初戦果を得たU-161は1時間潜航して海域を脱出。
2月23日午前6時43分、マルティニーク島西方約275海里にて、ニューヨークからトリニダードに軍需品や一般貨物5000トンを輸送中の米蒸気商船リフエ(7001トン)を雷撃し、左舷の第一船倉前方に魚雷1本を命中させる。15分後、浮上したU-161は水上砲撃でトドメを刺そうとするが、リフエから大砲と機関銃による強力な反撃を受けて潜航を強いられ、その後発射した2本の魚雷も外れてしまったので、アキレス艦長は「Qシップ(潜水艦をおびき出して撃沈する重武装の商船)なのではないか?」と疑念を抱き、攻撃を断念して離脱。リフエは命からがら助かった。ところがセントルシアに曳航されている途上で沈没して結局失われてしまった。
2月26日14時52分、距離7000mの低高度より敵機が襲来して潜航退避。爆雷のものと思われる3回の爆発音と衝撃がU-161を襲い、全ての水位計が破損、複数の部屋で照明消失、潤滑油タンクからの漏油といった各種損害が発生するも、乗組員の迅速かつ適切な応急修理により事なきを得る。
3月7日17時59分、セントビンセント海峡西方45海里で、単独航行していた南アフリカ捕鯨母船ウニワレコ(9755トン)はU-161の雷撃を受け、2本のうち1本が命中、制御不能に陥って旋回しか出来なくなり、18時14分に船尾へ魚雷を撃ち込まれた結果、船体を真っ二つに断裂させながら沈没。死亡した18名を除く船長と船員32名がセントビンセント島に上陸した。20時頃、U-161は潜航したままセントビンセント島の横をすり抜け、ポートカストリーズ方面に移動。
3月10日午前4時49分、セントルシアのポートカストリーズ港に向けて魚雷2本を発射。最初の魚雷はカナダ蒸気客船レディ・ネルソンに、2本目の魚雷は英蒸気船ウムタタに命中し、両船とも浅瀬に着底させたものの、後に引き揚げられて再就役している。
3月13日22時34分、暗闇の中を進むタンカーを発見。Uボートの出現を知っているのか無灯火で進んでいる様子だった。翌14日午前2時30分、グアドループ島西方にて、ボーキサイトを載せて単独航行中のカナダ蒸気船サルニアドック(1940トン)を雷撃、28秒後に1本が煙突付近に命中し、ボイラーが爆発して僅か30秒で沈没。船長と船員20名全員が死亡した。
3月15日午前10時42分、キュラソー島からアンティグア島へ単独移動中の米沿岸警備隊・灯台補給船アカシア(1130トン)を捕捉、相手は非武装だったので午前11時37分から午後12時11分まで水上砲撃を仕掛け、10.5cm砲弾68発、20mm機関砲弾92発、37mm機関砲弾70発を浴びせてアカシアを大破炎上へと追いやる。乗組員全員が艦を放棄したのち、セントクリストファー・ネイビス南西70海里の地点で沈没。アカシアはアメリカ沿岸警備隊が失った唯一の船舶であった。14時47分、アカシアからの救難信号を受けたと思われる敵機が出現して潜航退避。
3月21日午前10時16分にタンカーを発見して追跡を開始、そして午前10時38分より距離3500mから水上砲撃を行う。敵タンカーは船尾をU-161に向けて逃走を図るが、その4分後、「エンパイア・ゴールド」を名乗り船尾砲で反撃、ジグザグ運動を取りながら互いに激しい砲撃戦を演じる。やがて砲弾が艦体付近に着弾したため砲撃を中止して潜航。午後12時11分、敵タンカーはスコールに紛れて姿が見えなくなった。今回の戦闘を以ってカリブ海を脱して帰路に就く。
3月28日午前4時20分、アゾレス諸島沖を航行中、BdUより西経29度以東の全Uボートに最高速で特定海域へ進撃するよう命じられるが、U-161は燃料残量不足により参加しなかった。
4月2日午前10時30分、ロリアンに帰投。今回の通商破壊で5隻撃沈と4隻撃破の戦果を挙げた。
3回目の戦闘航海
4月28日にロリアンを出撃、ビスケー湾を南西方向に抜けて北大西洋へと進出する。
再びカリブ海に向かう予定だったが、5月4日、BdUはU-161、U-126、U-128に敵船団攻撃のため最短ルートで南下すべしと命令。5月12日13時3分にU-126が敵船団を発見し、U-161も接触に成功するも、護衛兵力に撃退されて見失ってしまう。その後、3隻は西から東、東から北へと捜索を実施、すると翌12日午前10時30分にU-161が再び船団と接触、位置情報通報により間もなくU-126とU-128が応援に駆け付けた。しかし敵護衛兵力の妨害で全艦撃退されて潜航を強いられる。以降接触は途絶えた。
5月23日、ブラジル北東沖に到達したU-161はU-126、U-128とともに海岸付近の海上交通を探るよう指示を受ける。南東には同盟国イタリアの潜水艦4隻が展開していた。5月29日まで偵察を行ってみたが船舶の往来が確認されなかったので北西方向へ移動。僚艦2隻と縦一列の哨戒線を敷いているにも関わらず、6月2日になっても目ぼしい船舶の目撃は無く、当初の予定通りカリブ海のトリニダード方面に狩り場を移す。
6月11日、ギアナ沿岸に沿って航行。時折飛来する敵哨戒機に警戒しながら獲物を探し求める。
6月16日14時10分、キュラソー島ウィレムスタット北東にて、ドミニカの帆船ヌエバ・アルタグラシア(30トン)を発見、甲板砲による威嚇射撃で停船させる。ヌエバ・アルタグラシアはキュラソー島に向かっていた事、船員全員を乗せるには救命ボートが足りない事から、アキレス艦長はキュラソー島まで帆船を連れて行こうとするが、道中で別の帆船コメルシオと遭遇したため船長と船員7名を移乗させ、ヌエバ・アルタグラシアの積み荷から新鮮な果物と鶏を接収したのち爆薬で処分した。トウモロコシと載せ切れなかった果物は海に投棄されている。
20時5分、速力8ノットで敵船団が航行しているのを発見、BdUから攻撃許可を得たU-161は翌15日午前2時25分に雷撃し、4000トン級貨物船の撃沈を報告(該当船無し)。間もなく敵船団を見失い、夜明けまで捜索を行ったものの発見に至らなかったため、魚雷を使い果たしてカリブ海より退却するU-159との合流地点に向かう。
6月20日午前1時3分、ケープ・デ・ラ・ベラ沖でU-159と合流、認識信号を交換した後、陸地の陰に移動して午前8時35分より燃料と食糧の補給を開始、アキレス艦長は望む物を全て手に入れられたため、お礼にレモンとオレンジを贈った。午前10時40分に2隻は分離。
6月26日にU-161はコロン沖の海上交通が無い事、悪天候に阻まれて通商破壊が上手く行かない事、中程度の航空哨戒が行われている事をBdUに報告。28日、燃料不足が深刻化したため、U-161、U-126、U-128に帰投命令が出され、荒天に揺さぶられながら離脱を開始。
7月2日19時40分よりプエルト・リモンの港に侵入、翌3日午前4時1分、港内で停泊中の汽船に魚雷2本を発射し、桟橋に横付け中のパナマ商船サンパブロ(3305トン)の船体中央部と船橋付近に命中、船員1名及び港湾労働者23名が死亡するとともに、上部構造物だけが水面に出ている格好で着底させた。今回も浅瀬に沈んでいたので後に引き揚げられたが、損傷の激しさから全損と宣告されている。
7月11日よりカリブ海に侵入。バミューダ諸島南方から北東方向へ移動しながら獲物を探し求める。
7月16日15時43分、セントヴァージン諸島北方約500海里にて、速力10ノット、駆逐艦3隻と6隻の汽船で編成されたAS-4船団に2本の魚雷を発射、戦車52輌や自走砲18門、その他物資を輸送中の船団旗艦・米貨物船フェアポート(6165トン)に2本とも命中し、15分後に沈没させた。しかしその代償にU-161は9時間に渡る爆雷攻撃を受けて相応の被害をこうむる。
ウィンワード海峡からイナグア島南東海岸を抜け、タークス・カイコス諸島とカイコス海峡を通って大西洋に脱出。7月21日にモナ海峡南方でU-508と合流し余った魚雷1本を譲渡。翌22日にはU-461から燃料と食糧8日分の補給を受ける。
8月7日にロリアンへ帰投。カリブ海やトリニダード方面の敵船舶は単独航行している事が多く、奇襲攻撃には持ってこいの場所であったが、U-161が帰投した頃、大西洋方面と同様に船団方式が取られるようになり、以前より戦果が挙げづらくなってしまった。
4回目の戦闘航海
9月19日、ロリアンを出撃、長大な航続距離を活かして今度は南アフリカ西岸方面に向かう。去る8月22日、ブラジルが連合国へ加入したので、イギリスに肉を運ぶ高価な冷凍船団を狙えるようになり、デーニッツ提督はフリータウン・ケープタウン間の海域に補給艦XIV型を含むUボート戦隊を派遣したのである。
10月23日午前7時56分、フランス領赤道アフリカ、ポイント・ノワール約6海里沖にて、ドイツの封鎖突破船捜索の任を帯びていた英軽巡洋艦フィービーへ魚雷4本を発射、左舷に2本が命中して乗組員57名が即死、59名が負傷した。深刻な損傷こそ与えたものの、フィービーはポイント・ノワールへ自ら座礁して沈没を免れている。翌24日夜、船舶に対して攻撃を仕掛けたが、護衛の駆逐艦によって追い払われた。
コンゴ河口、バナナ、ロアンジュ、カブリンダ、ポイント・ノワール沖で遊弋しても戦果を挙げられず、10月29日、U-161とU-126はバナナ沖から北上してタコラディ及びラゴス沖での通商破壊を開始。11月5日に2隻の蒸気船を、翌6日に1隻の蒸気船を発見、いずれもタコラディに入港した。荒波と東への強い潮流のせいで浅瀬での航行は不可能だった。
11月8日23時47分、タコラディ南西60海里にて、フリータウンからタコラディへ航行中のST-40船団に魚雷4本を発射、ケーブルドラムやトラックなどを甲板に積載していた米蒸気船ウェスト・ハムホー(5527トン)と英商船ベナルダーにそれぞれ命中し、ウェスト・ハムは放棄されて30分後に沈没、ベナルダーは航行不能に陥ったものの翌日タコラディに曳航されて助かった。
11月28日午前8時14分、U-161はON-145船団から分離した蘭蒸気船トジレボート(5760トン)を発見して攻撃開始、対するトジレボートもU-161の存在に気付いてジグザグ運動を行いながら発砲、思わぬ反撃を受けたU-161は一旦潜航してやり過ごす。13時48分に浮上して追跡を再開、翌29日午前0時37分、トジレボートに向けて魚雷2本を発射、72秒後、1本が命中して巨大な爆発が巻き起こり、破片がU-161の周囲1000m以内にまで降り注いだ。船長、船員56名、砲手5名全員死亡。
12月8日から9日にかけて、補給艦U-461より燃料、潤滑油2000リットル、飲料水2000リットル、食糧14日分、真水の補給。これにより作戦活動期間が14日間延長された。
12月12日午前9時33分、汽船発見に伴い追跡を開始、13時30分より急速潜航、そして14時4分に英蒸気船リプリー(4997トン)へ向けて魚雷2本発射、44秒後に2本とも命中して洋上停止させる。船員は救命ボートを降ろして脱出し始めたが、一向に沈む気配が無かったため、14時41分にトドメの魚雷を撃ち込んで撃沈。積み荷のパーム油9000トン、マホガニー、ゴムもろとも海底に葬る。ボート上の生存者に尋問を行ったのち海域を出発した。
12月22日夕刻、敵護送船団を狙って雷撃するも失敗。敵船団の針路と速力を通報して帰路に就く。
1943年1月9日にロリアンへ帰投。南アフリカ沖での戦果は、落ち目気味だった北大西洋方面の戦果を補えるほど充実し、更に敵の護衛兵力を主戦場から他の海域へ分散させる副次効果ももたらした。
5回目の戦闘航海
1943年3月13日にロリアンを出撃。アメリカ東海岸を目指して北大西洋を西進していく。
3月22日、BdUはU-161とU-174に対し、日本の勢力圏とヨーロッパを往来している独伊の封鎖突破船と合流してレーダー機器を譲渡するよう指示。U-161はレーゲンスブルクとピエトロ・オルセオーロ、U-172はカリンとイレーネを担当した。封鎖突破船は中立船舶を装っているため外見だけでは判別出来ない。そこで、レーゲンスブルクは識別マークとして、晴天時はミズンマストから船尾にかけて洗濯物用のワイヤーを張り、悪天候時はミズンマストに消火ホースを吊るす事とした。
3月23日、日本占領下のバタビアからヨーロッパへ帰国中の封鎖突破船レーゲンスブルクと予定された位置で合流、3月27日には神戸発ボルドー行きのイタリア封鎖突破船ピエトロ・オルセオーロと合流している。
封鎖突破船との会合任務を終えた2隻は西進しつつ、3月30日、ドイツ海軍上層部に封鎖突破船のビスケー湾到着予定日を報告、彼らが護衛を受けられるよう準備を整えた。4月8日頃にアメリカ東海岸の作戦海域へと到着し、U-129やU-174とともに通商破壊を行う。4月12日にナンタケット礁75海里沖でキングフィッシャー水上機から攻撃を受ける。
4月26日、ケープセイブル南方で速力8~10ノットで航行中の敵船団を発見、BdUより攻撃許可を得て、U-174とともに追跡するが、翌日エンジントラブルに見舞われてあえなく取り逃がしてしまった。一方、U-174は船団に食い下がったものの、ニューファンドランド南西で、アメリカ海軍のロッキード・ベンチュラの攻撃を受けて撃沈された。ハリファックス沖、カナダ東海岸、ニューヨーク沖、ノーフォーク沖など船舶交通量が多そうな場所で積極的な索敵を行うも実を結ばず、5月17日に燃料不足が深刻化してきたため帰路に就く。
5月18日14時35分、U-161は、ハリファックスに向かっているカナダ帆船アンジェラス(255トン)を発見して追跡を開始、翌19日午前11時30分、ボストン南東で停船させ、船長と船員9名が救命ボートで脱出するのを見届けてから水上砲撃で撃沈した。後に救命ボートは嵐に巻き込まれ、米駆逐艦ターナーに救助された時には生存者が2名にまで減っていたという。
5月29日にU-229から燃料、パン、バター、ソーセージ、果物の補給を受ける。BdUは、約3ヶ月前にU-333が対空射撃でウェリントン爆撃機を撃墜した例を挙げ、「敵の航空攻撃に対して激しい対空射撃で応戦せよ」と命令、また航空哨戒が厳しいビスカヤ海域を突破するべく、米東海岸沖に展開中のUボートで即席の集団を編制。U-161はU-229とタッグを組む事になり一緒にロリアン帰投を目指す。
6回目の戦闘航海
8月8日にロリアンを出撃、最後となる第六次戦闘航海を開始する。今やビスケー湾の制空権はイギリス軍に完全掌握され、ビスケー湾から外海に出ようとした86隻のUボートのうち、19隻が撃沈されていた。翌9日、米東海岸方面に向かうU-664に主電源ユニットを譲渡するよう命じられ、8月13日にU-664と合流、命令通り主電源ユニットを引き渡した。
この頃、同盟国の日本からは、ヒトラー総統が無償譲渡するU-1224の回航員を乗せた日本海軍潜水艦伊8(暗号名フレッツィア)が、ペナンを出発して遠路はるばるフランスに向かっていた。8月2日、伊8は赤道を北上して北大西洋に入り、連絡が付いたドイツ海軍は連合軍の対潜哨戒が激しい危険海域を無事突破させるべく、U-161に伊8と合流、連絡将校とメトックスレーダー逆探装置、操作員2名を移乗させるよう命じる。
合流地点に指定されたアゾレス諸島の近海には敵護衛空母ボーグ、コア、サンテーと対潜装備を備えた護衛駆逐艦群が遊弋しており、既に10隻のUボートが護衛空母から発進した哨戒機の犠牲となっていた。
8月19日、U-161は伊8に「昼間は潜航して駆逐艦に探知されないよう待機せよ」「8機のJu88爆撃機がフレッツィアを発見したら認識信号として赤色星弾20発を発射する」「Ju88爆撃機との合流場所へ到着する際は3日前に報告せよ」「機雷原の安全航路は味方駆逐艦から通達される」といった注意事項を、ベルリンの日本海軍武官を経由して伝える。無線通信と同時に南進して伊8との合流予定地点に急行。
8月20日朝、曇天のアゾレス諸島西方に到着。しかし伊8の姿が見えない。しばらく探し続けていると、伊8のものと思われる指定符合が届き、方位測定をした旨を伝達、そして15時10分に両艦は邂逅を果たす。伊8から舫銃が発射され、1本のロープで伊8とU-161の位置を固定すると、ヤーン少尉がゴムボートに乗って伊8へ移乗、内野艦長と通訳の山中静三文官に挨拶し、手土産のヘネシーのブランデー2本とレモン数個をプレゼントした。海が荒れているので、重要なメトックスの譲渡は海が穏やかになるまで延期する事とし、両艦は潜航してその時を待つ。
翌21日午前11時に2隻は合流地点で再度会同。ヤーン少尉と通信兵2名が乗り移り、新型の逆探装置メトックスを譲渡・潜望鏡支基上部に装備させる。その単純な作りに伊8側の乗組員は驚いた。しかし性能は日本の電探より遥かに優れており、自軍の電探性能の低さに恥ずかしさを覚えた彼らは、自国製の電探を分解して隠してしまったエピソードがある。通信兵が敵の発信電波を捉え、ヤーン少尉が判読して潜航するかどうかを決める役割を担う。
貴重な贈り物を受け取った内野艦長は、お礼としてマレー産のコーヒーが入った一斗缶をU-161に贈ったところ、ドイツ人乗組員はとても喜び、アキレス艦長がタイプライターで打った礼状を先任将校がわざわざ持ってきたほど。ドイツ国内でもコーヒーは欠乏していてこの贈り物は時勢にピッタリだったのだ。
「貴官からの親愛な朝のご挨拶に対し、私は本艦乗組員を代表して心からお礼申し上げます。このご挨拶により、我々の伝統である本日の土曜日午後のコーヒーを、いっそう飾ってくれる事でしょう。貴官ならびに貴艦乗組員に対し、我々はいつも航海の無事を祈りますとともに、我々の合言葉である『無事と勝利と大きな獲物を』と、声を大にして叫びます。 アルブレヒト・アキレス大尉」
やがて両艦は互いに武運長久を祈りながら分離。続いてU-161は伊8の航路をフランス方面のドイツ軍へ転送し、Ju88や駆逐艦による援護が受けられるよう下準備を整える。最新鋭の逆探装置を得た伊8は遣独潜水艦作戦で唯一往復に成功。U-161の助力が成功の一因なのは疑う余地が無いだろう。ちなみに、この時贈ったメトックスは第四次訪独艦の伊29に引き継がれている。
伊8と別れた後、U-161はブラジル北東海域へと向かう。ブラジルの連合国参戦以降、同地の航空基地はアメリカ海軍航空隊に開放され、かつては潜伏先として避難所的役割を果たしていたブラジル沿岸も、今や敵哨戒機が飛来する危ない場所と化していた。9月4日に南大西洋の真ん中で帰投中のU-198と合流して燃料補給を受ける。
9月20日午前10時50分、マルティン・ヴァス・ロックス北方約240海里で、単独航行中の英商船セント・アスク(5472トン)はU-161から雷撃を受け、左舷後方の第5船倉に命中、爆発の衝撃でハッチが吹き飛ばされ、デリックが破壊され、僅か数分でデッキにまで浸水が広がったので、船員は2隻の大型救命ボートに乗って脱出。頭蓋骨骨折で死亡した砲手1名を除いて全員が船を脱した。
間もなくU-161は浮上。船長が乗る救命ボートへ向かい、船長、二等航海士、三等無線士を尋問するべく艦内に収容、残りの生存者には熱々のコーヒーが支給された。アキレス艦長は尋問の前にまず船を沈めた事を謝罪、生存者が持っていた地図に現在位置とサルヴァドール・ダ・バイーアへの針路を描き、2つの缶に水を汲んで救命ボートに積むなど紳士的に接したが、同時にU-161の位置を通報しないよう無線機を取り外している。また負傷者はドイツ人軍医によって手当てを受けた。その後、捕虜となった船長以外はボートに戻されている。
9月26日18時50分、ブラジルの自動車運送船イタパジェ(4998トン)は、アラゴアス州マセイオ南方32kmにてU-161から雷撃を受け、右舷に2本の魚雷が命中、4分以内に沈没して船員16名と乗客4名が死亡した。その後、アラトゥ基地より飛来したアメリカ海軍マリナー飛行艇に攻撃されて潜航退避。この時は逃げ延びる事に成功したが…。
最期
1943年9月27日午前10時50分、サルヴァドール・ダ・バイーア東方にて、別のマリナー飛行艇VP-24にレーダー探知される。太陽を背に突っ込んでくるマリナーに対し、U-161は左旋回しつつ甲板砲で反撃、しかしマリナーの勢いは止められず、6発の爆弾が投下されてU-161を水柱の間に覆い隠した。
U-161は右への回避運動を開始しつつ砲撃で応戦。至近弾により、ブレット少尉とディーン・ビーラー通信兵に重傷を負わせ、マリナーのパイロットは「砲火はより激しく、より正確だった」と評した。U-161とマリナーは互いに激しく撃ち合って死闘を演じる。艦尾から艦首にかけてマリナーが頭上を航過した際、更に2発の爆弾を投下、これにより致命傷を負ったU-161であったが、決死の応戦は続き、多数の命中弾を与えてマリナーを撃退せしめる。だが午前11時22分、U-161も力尽きて沈没してしまい乗組員53名全員が死亡。
マリナーと交代する形でベンチュラが当該海域に出現するもU-161の痕跡を発見出来なかった。
連合軍側の資料によると、ブラジル北東海域における、司令塔後部に追加の対空砲台を備えたタイプのUボートの出現は初めてであり、調査の結果「レーダー探知距離の拡大」「対空兵装の強化」が認められている。また米第10艦隊は空撮写真をもとにU-161の特徴的な司令塔をスケッチした。
関連項目
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