プライマリーバランス(基礎的財政収支)とは、中央政府の財政の様子を示す指標である。
英語でPrimary Balanceと表記し、PBと略される。
概要
定義
プライマリーバランスは次の式で表現できる。
プライマリーバランス=税収等-政策経費
税収等というのは税収と税外収入を足したものである。
政策経費というものは歳出額そのものではない。歳出額から国債費(国債の利子支払いや満期国債の元本返済)を引いた数字になる。
ゆえにプライマリーバランスは次のような式で表すことができる。
プライマリーバランス黒字
プライマリーバランスがプラスなら、政策経費よりも税収等が多い状態であり、税収等で政策経費を全てまかないつつ国債費の一部または全部を税収等で支払う状態である。このことをプライマリーバランス黒字とか財政黒字と言う。
プライマリーバランス黒字にも4つの段階がある。
プライマリーバランス均衡
プライマリーバランスがゼロなら、政策経費と税収等が等しい状態であり、税収等で政策経費を全てまかないつつ国債費の全部を国債新規発行で得た資金で支払う状態である。このことを財政均衡とも言う。
国債の利払いのすべてと満期国債の元本返済のすべてを国債新規発行でまかなうので、政府累積債務がわずかに増加する。
プライマリーバランス赤字
プライマリーバランスがマイナスなら、政策経費よりも税収等が少ない状態であり、税収等に加えて新規国債発行で政策経費をまかなっている状態である。このことをプライマリーバランス赤字とか財政赤字と言う。
国債の利払いのすべてと満期国債の元本返済のすべてと政策経費の一部を国債新規発行でまかなうので、政府累積債務が増加する。
プライマリーバランス黒字化方針
プライマリーバランス黒字化方針の導入
日本においては平成時代(1989年~2019年)に入ってから政府累積債務の増加が問題視されるようになった。
1995年11月の臨時国会で武村正義大蔵大臣が「財政危機宣言」をした。
2001年に小泉純一郎内閣が骨太の方針2001を発表したが、そこで初めてプライマリーバランス黒字化が明記された。それ以降、歴代内閣がプライマリーバランス黒字化を目標に掲げるようになった。こういう方針を財政再建とか緊縮財政と呼ぶ。
「政府累積債務とプライマリーバランスが国家の経済の状況を最も正確に表している」と考え、プライマリーバランスを黒字化させて政府累積債務を均衡状態に近づけようとすることを均衡財政論という。つまり平成時代以降の日本政府は均衡財政論が主流の国である。
経済学では政府累積債務やプライマリーバランスを重視しない
経済学者が経済の状況を測定するときに最も頻繁に使う経済統計は、実質GDPとインフレ率と失業率の3つである[1]。そして経済学者はその3種類の中でも実質GDPを最も重視する[2]。
つまり、政府累積債務やプライマリーバランスというのは経済学において実質GDPやインフレ率や失業率よりも優先度の低い数値である。
政府累積債務やプライマリーバランスを実質GDPやインフレ率や失業率よりも優先する政治家や官僚がいるとしたら、その人々は経済学の基本を無視していることになる。
プライマリーバランスの黒字化や均衡化の後に不況が生まれた例
アメリカ合衆国
現代貨幣理論(MMT)の提唱者として有名なL・ランダル・レイがアメリカ合衆国の財政史を調べたところ次のような事実が判明した。プライマリーバランス黒字化を達成するとその後に大規模な不景気が訪れるというものである。
財政黒字期 | 政府債務削減幅 | 景気後退 | 不景気名 |
---|---|---|---|
1817~21年 | -29% | 1819年 | 1819年恐慌 |
1823~36年 | -100% | 1837年 | 1837年恐慌 |
1852~57年 | -59% | 1857年 | 1857年恐慌 |
1867~73年 | -27% | 1873年 | 1873年恐慌 |
1880~93年 | -50%以上 | 1893年 | 1893年恐慌 |
1920~30年 | -約33% | 1929年 | 世界恐慌 |
1998~2001年 | 不明 | 2001年 | ITバブル崩壊 |
※この表の資料・・・L・ランダル・レイの記事、クリントノミクス英語版Wikipedia記事
※1823~1836年の政府債務削減幅-100%とは、政府債務が完全にゼロになったという意味。アンドリュー・ジャクソン大統領が達成した。これは米国史上唯一の出来事である。
※1998~2001年に財政黒字になったのは分かっているが、政府債務削減幅は正確な数字が分からなかった。
1980年代~1990年代の日本
日本において、財政黒字に最も近づいたとされるのが1991~1993年度である。好景気になり税収が伸びたので特例国債を発行せずに済ませた。それと同時に景気が悪化し始めた。株価が急落し始めたのが1990年3~4月で、内閣府が発表した景気後退の時期は1991年3月~1993年10月である。
もう少し詳しく状況を示すと以下のようになる。
特例国債 | 備考 | |
---|---|---|
1984年(昭和59年) | 6兆3714億円 | |
1985年(昭和60年) | 6兆0050億円 | |
1986年(昭和61年) | 5兆0060億円 | |
1987年(昭和62年) | 2兆5382億円 | 好景気 |
1988年(昭和63年) | 9565億円 | 好景気 |
1989年(平成元年) | 2085億円 | 好景気 |
1990年(平成2年) | 9689億円 | 大不況に突入 |
1991年(平成3年) | 0億円 | 大不況 |
1992年(平成4年) | 0億円 | 大不況 |
1993年(平成5年) | 0億円 | 大不況 |
※この表の資料・・・財務省資料
1990年(平成2年)の9689億円は、湾岸戦争に対する戦費負担をアメリカ合衆国に求められたので特例国債を発行して得たものである。このときの特例国債法の正式名称は「湾岸地域における平和回復活動を支援するため平成二年度において緊急に講ずべき財政上の措置に必要な財源の確保に係る臨時措置に関する法律」である。特例国債を日本市場に売却して得た9689億円を米ドルに両替し、得られた米ドルをアメリカ合衆国に送金した。このため純資本流出の増加額が9689億円となった。経済学の論理なら純資本流出が純輸出に等しいので、純輸出の増加額が9689億円になったことになる。
プライマリーバランス黒字化や均衡化の後に不況が生まれる原因の考察
プライマリーバランス黒字化や均衡化のあとに不況が生まれる原因の1つは、プライマリーバランス黒字化や均衡化の影響で政府購入や消費が減ってクラウディングアウトが十分に発生しなくなって過剰投資が生まれたことである。
過剰投資が生まれるとバブル経済になり、そのうちにバブル崩壊となり、負の需要ショックが大規模に発生する。1929年の世界恐慌や1990年の日本のバブル崩壊や2007年のサブプライムローン問題はいずれも住宅の過剰投資が原因とされているし、2001年のITバブル崩壊もIT関連株への過剰投資が原因とされている。
プライマリーバランスを赤字にして拡張的な財政政策を行って政府購入や消費を増やしてクラウディングアウトを発生させれば、投資が減り、過剰投資が生まれず、不況が生まれない。
しかしプライマリーバランスを黒字や均衡にして縮小的な財政政策を行って政府購入や消費を減らしてクラウディングアウトを発生させなければ、投資が増え、過剰投資が生まれ、不況が生まれる。
特に、生産設備が揃っていて採算性のある投資の余地が少ない先進国でプライマリーバランスを黒字化させたり均衡化させたりすると、過剰投資が生まれやすく、不況が生まれやすい。
プライマリーバランスの黒字化や均衡化の後に不況が生まれなかった例
1964年までの日本
1964年以前の日本は税収や税外収入だけで予算を組んでおり、プライマリーバランスが均衡の状態だった。
しかし、1964年以前の日本は深刻な不況に襲われることがなかった。
1964年以前の日本の考察
1964年以前の日本がプライマリーバランスの均衡状態を維持していたのに不況が生まれなかった原因の1つは、採算性のある投資の余地が多い発展途上国だったことである。
1964年以前の日本は、生産設備が十分に揃っていない発展途上国で、採算性のある投資の余地が多く、採算性のない投資に手を出す必要性がなく、過剰投資が生まれにくい状態だった。
そういった要因があったので、プライマリーバランスを均衡状態にして政府購入や消費を抑え込んで投資を増えやすくしても、企業が過剰投資に手を出さずに済み、不況にならなかった。
2012年から2019年までのドイツ
2012年から2019年までのドイツは財政黒字を達成している(記事)。
2020年にコロナ禍の影響で実質GDPが落ち込んで不況になったが(記事)、逆に言うと2019年までは不況に襲われずにすんでいた。
2012年から2019年までのドイツの考察
2012年から2019年までのドイツの財政黒字はかなり特殊な状況に起因するものと考えられている。ドイツはEUに加盟して統合通貨ユーロを導入している。このユーロがドイツの経済力に比べてかなりの通貨安となっており、製造業大国ドイツの輸出を大規模に増加させている。貿易黒字が恒常化して好景気が続き、その恩恵で税収が増えて財政黒字になっている。
ちなみにEUと統合通貨ユーロはドイツ一人勝ちの状態をもたらしている。ドイツの財政黒字は統合通貨ユーロが原因であるのだが、その統合通貨ユーロのせいでドイツ以外のEU加盟各国は積極財政の政策を実行できず不況に喘いでいる。このためEUは「ドイツ第四帝国」と表現されるほどである。
生産設備が揃っていて採算性のある投資の余地が少ない先進国でプライマリーバランスを黒字化させたり均衡化させたりすると、過剰投資が生まれやすく、不況が生まれやすい。しかし2012年から2019年までのドイツは統合通貨ユーロという安い通貨に恵まれていて純輸出が伸びていたので、国内の供給能力が過剰投資に向かわず純輸出に向かっており、過剰投資が発生せずに済んだ。
1964年以前の日本政府の借金
1964年以前の日本政府は外国通貨を借りていた
1964年以前の日本政府は自国通貨建て国債を発行せず、プライマリーバランスの均衡を保ち続けていた。
しかし、その時代の日本政府は、固定相場制を維持するために固定相場制の対象となる米ドルを借り入れていた。
ガリオア資金とエロア資金
1945年に日本政府が降伏した。その翌年の1946年から1951年まで日本政府はアメリカ合衆国の軍事予算からガリオア資金とエロア資金を受け取っていた。この両資金による援助額の総額は約18億米ドルで、現在の価値に換算すれば約12兆円にも上る巨額の援助だった。
援助が始まった当初はアメリカ合衆国による無償援助という触れ込みだったが、1948年1月になってアメリカ合衆国の態度が急変し、日本政府に対して返済を要求した。交渉の末、日本政府が返済するのは約5億米ドルになった。つまり、1946年から1951年までの日本政府は約13億米ドルを無償で受け取り約5億米ドルを借り入れていた。
※この項の資料・・・ガリオア・エロア資金なかりせば 外務省
世界銀行
日本は1951年9月になってサンフランシスコ平和条約に調印し、1952年4月28日に同条約が発効したことでやっと独立国として主権を回復した。
1952年8月になって日本は世界銀行(世銀)に加盟した。その翌年の1953年から世銀は日本に対して巨額の融資をするようになった。世銀の融資は8億6,300万米ドルにも上り、世銀が融資した件数は31件にもなった。
世銀からの最後の融資は1966年で、この翌年の1967年に日本は投資適格国から卒業することになった。
※この項の資料・・・日本が世界銀行から貸出を受けた31プロジェクトとは? 世銀
固定相場制の維持
1964年以前の日本政府は米ドルを無償で受け取ったり借り入れたりしたが、その米ドルは固定相場制の維持に使われた。日本政府が米ドルを借り入れて中央銀行である日本銀行に預け、日本銀行が固定相場制の維持のために米ドルを使っていた。つまり日本政府は借り入れた米ドルを政策経費として使っていなかったので、プライマリーバランスの赤字とならなかった。
世銀から米ドルを借りていた時代は、各企業が東海道新幹線や火力発電所やダムや高速道路や製鉄所や自動車工場などの建設をしており、外国為替相場において日本円売り・米ドル買いをして米ドルを入手しつつその米ドルで建設のための物資を海外から購入していた。つまり企業が外国為替相場において日本円安・米ドル高の圧力を掛けていた。
それに対して日本銀行が世銀から日本政府を経由して送り込まれた米ドルを売って日本円買い・米ドル売りを行い、日本円高・米ドル安の圧力を掛け、固定相場制を維持していた。
このため「世銀から借りた米ドルは東海道新幹線や火力発電所やダムや高速道路や製鉄所や自動車工場などの建設に使われた」と表現してもおおむね正しい。世銀もそのように表現している(資料)。
1965年以降の日本政府は自国通貨を借りるようになった
1965年に特例公債法が戦後初めて成立し、1966年に財政法第4条に基づく建設国債が戦後初めて発行された。これらの年からプライマリーバランスの赤字化が進んでいく。
日本政府が世銀から米ドルを最後に借り入れたのが1966年で、それ以降の日本政府は米ドルを借り入れていない。
関連リンク
関連コトバンク記事
関連Wikipedia記事
その他
関連項目
脚注
- *『マンキュー マクロ経済学Ⅰ 入門編 第3版(東洋経済新報社)N・グレゴリー・マンキュー』5ページ、26ページ
- *『マンキュー マクロ経済学Ⅰ 入門編 第3版(東洋経済新報社)N・グレゴリー・マンキュー』65ページ
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