上野秀政(?~?)とは、戦国時代の武将である。
概要
おそらく足利義昭がアレしていた存在を、上野氏に入名字させた存在。以後も、足利義昭が織田信長への戦いに至る状態に引き入れた、反織田信長近臣の代表格。
なお、上野信孝とは一ミリも関係ないのだが、なぜかネットではこの系統の扱いにされている。
そもそも上野清信と上野秀政について
上野信孝死後の、上野氏をとてつもなくややこしくする存在として、上野民部大輔家と一ミリも関係ないのに登場する、足利義昭近臣であるこの上野秀政がいる
この上野秀政であるが、『永禄六年諸役人付』に堀弥八郎、当御若衆也と書かれており、後世肥後細川氏に仕えた子孫が『綿考輯録』にあの人将軍の寵童から上野氏に入った存在ですと設定しているので、足利義昭がアレしていた存在を入名字させたのだろうと思われる。
この上野秀政をさらにややこしくする存在として、上野氏の分家筋の上野中務大輔家の上野清信の存在である。つまり、上野中務大輔を名乗る上野氏が上野秀政と上野清信の2人登場し、両者が同一人物なのか別人なのか、正直よくわかっていないのである。
というか、『室町殿日記』の史実かどうかも分からない上野中務大輔は足利義晴期に2回程度登場するくらいなので、そもそも実はこの上野清信・上野秀政かもわからない(というか武田信虎を迎えに行ったりと、実際のことかもわからないので、記しておくだけにする)。
ちなみに、この上野清信は、『義昭興廃記』によると、細川藤孝とともに足利義昭を助けに行った存在らしい。なのだが、『室町殿日記』では、この役目は上野民部大輔になっており、すでに死んでるはずの上野信孝などと関連付けられることもある。
なお、上野清信はどうも『義昭興廃記』、『朝倉記』といった軍記や、『後鑑』、『綿考輯録』といったかなり後世の二次史料くらいにしか出てこない、上野中務大輔の諱としてくっついている謎の存在であり、木下昌規や久野雅司がまとめた足利義輝や足利義昭の、一次史料をもとにした家臣リストには出てこない(ぶっちゃけ実在しないんじゃね?)。なので、あくまでも、以下は、上野秀政という人物のみを取り扱う。
堀弥八郎から上野秀政―主君との二人三脚―
この上野秀政であるが、『言継卿記』の永禄11年(1568年)10月22日条に御供衆として出てくる。どうやら一色藤長とともに山科言継と山科家領の回復について折衝したり、和田惟政と禁裏御料所率分銭の交渉役などを務めている。
また、『言継卿記』の元亀2年(1571年)9月24日の摂津への出陣の幕府軍の中や、『兼見卿記』元亀3年(1572年)4月16日では三好軍に攻撃されている、安見右近亡き後の安見新七郎救援に、佐久間信盛や摂津三守護を筆頭にした織田信長・足利義昭の連合軍の中にいる、「上中」がおそらくそれにあたる。少なくとも、足利義昭と織田信長が協力していたころは、黙々と働いていたようだ。
ところが、この上野秀政は武田信玄との回路を持っていた。『綿考輯録』にある比叡山焼き討ちに武田信玄と一緒になって非難したはともかく、武田信玄に近い立場の存在だったのは事実なようだ。なお、武田信玄が上野秀政に宛てた織田信長マジないわー的な文書が残っているが、ちょっといろいろとおかしいので偽文書の可能性が割と高い。加えて、『松尾神社文書』等を見ると、織田信長の命で所領放棄をさせられたようである。また、久野雅司の推測ではあるものの、発給文書を見た限り、二重政権のどちらにも関与していたからこそ、幕府に一本化しようとしたのではないかともいわれている。
こうしたことが積もりに積もって、反織田信長の急先鋒となっていき、足利義昭の家中で細川藤孝や明智光秀を代表とする親織田信長勢力とは相反する存在となる。なお、『綿考輯録』ではこの人物は上野清信になっているが、一次史料では上野秀政しか出てこない。なお『イエズス会年報』には、織田信長と匹敵しており織田信長を不快に思わせた幕臣・上野殿が出てくるが、これも上野秀政ではないかとされる。
かくして、足利義昭は、武田信玄が西上する段階で、この元寵童の上野秀政の言うことを聞いてしまい、盛大に織田信長を離反してしまう。一方、天正元年(1573年)8月3日付の「毛利家文書」によると、上野信秀や三淵藤英らの離反によって真木嶋城の立てこもりに失敗したとあるので、上野秀政とは異なり、上野民部大輔家は織田信長に降っていったのだろう。
ちなみに、上野秀政は足利義昭の和睦等の織田信長との窓口を務めており、この時期の文書にやたらと出てくる存在の一人である。
また、『イエズス会年報』では、織田信長が「上野殿」が悪いと考えていたことが、ルイス・フロイスの証言として残っているが、これがおそらく上野秀政である。
なお、『萩藩閥閲録』の柳沢靭負の箇所によると、元亀3年には柳沢元政への使者として上野秀政が派遣されている。なので、毛利氏とは以前から回路を持っていたのであろう。
大和守になって以後
かくして、上野大和守を名乗った上野秀政が、以後は足利義昭に仕えていった。ちなみに、上野秀政は『礼銭遣方注文写』によると、真木嶋昭光ほどの額ではないが、順番としては細川輝経と畠山昭清の間の2番目に位置付けられている。
以後、『萩藩閥閲録』、『毛利家文書』、『吉川家文書』、『小早川家文書』等で上野秀政がいわゆる「鞆幕府」サイドで活動していたことが読み取れる。なお、筆者が確認した年代の下限は『古志文書』の天正8年(1579年)閏3月2日で、古志重信に使者として九州に行くことを伝えている。
ただし、ここで問題となるのが、以後豊臣秀吉に足利義昭が降った後、上野中務が『太閤記』等にまた登場することである。
ここで、上野秀政と上野清信は別人だとすると、この上野中務は上野清信だし、降伏した結果公家成・諸大夫成の序列に沿うことになるので、大和守の任官がなかったことになったとすると、これが上野秀政でも問題はない(ていうか上野清信ってやっぱり上野秀政を分割してできた物語上の存在では…)。
かくして、足利義昭が死んだとき、この上野中書の息子の上野勘左衛門、上野御吉が剃髪したことが、『鹿苑日録』に記されている。なお、木下昌規は、これを上野秀政としている。
上野秀政の子孫は、肥後細川氏に仕えたという。なお、後述の通り、名字は奪われ、郡という名字になった…らしいのだが、肥後細川家の家中に、上野中務大輔秀政の子孫、上野案十郎家というまた別の家が出てくる。ということで、この伝承が事実かは不明。
付け加えると、『丹後旧事記』、『宮津府志』、『与謝郡誌』等に丹後国の松尾、上世屋あたりに上野氏がいたとの伝承が載っており、『与謝郡誌』にはこの上野中務太輔の息子・上野甚太夫が幕府滅亡後一色氏を頼ったとあるらしいのだが、これまた事実かは不明。
余談―上野秀政と上野信孝について―
なお、この上野秀政が上野信孝の子供・上野清信の養子であるというネットでコピペされている謎の系図は、『綿考輯録』2巻の永禄12年2月15日の条の誤解釈というか、論理の飛躍というか、そんな感じである。この条では、上野清信と荒川輝宗の家臣同士が喧嘩になり、細川藤孝が荒川輝宗側に立ったことを恨んだ上野清信が足利義昭に細川藤孝を殺すよう進言し、織田信長が細川藤孝を助けたという記述の、補足である。
以下、長いがちょっと引用したい。
是よりして弥清信と御不和にて漸々にも御前も疎くなり、清信は時を窺ひ、折々に讒を構候と也、
義昭公清信を愛せられ候訳は、清信に女子有、甚美にして義昭公是を御寵愛、其上男子なけれはとて、一乗院におはしましける時よりの寵童堀孫八郎と云ものを清信か養子とせらる、後上野大和守秀政と云、此者元は山城国駒野の土民なり、彼を憎む者も多候哉、其比の落書に
考ニ一書に藤孝君の御狂歌と有ハいふかし、
此秀政重々の非義ありける哉、義昭公御法体以後、槙嶋玄蕃昭光に仰て、泉水山にて誅せられ候、秀政は昭光が聟成ゆへ、秀政か子を育ミ置、、後に忠興君に達して御家人と被成候、其時の御意に、上野は当家に対して敵なれは、家号を改めよと被仰、郡主馬名字をあたへ、郡勘右衛門と名乗候なり、
一書、上野清信は山城国地下人成しか、童形の時、堀孫八郎と号し、南都にて義昭公江近侍、寵愛のあまり後に上野民部少輔信孝か養子と成、上野中務少輔清信と云、彼をにくむ者多候て、右の狂歌有、又一書に、中務か子上野六左衛門 一に五左衛門と云もの忠興君に御奉公に参り、五百石被下候、其時の仰に、訳を不知して、礼を受たりと思ふものも有へし、親の中務か幽斎君の御事を色々さゝへ候得とも、おこほ様とゆかりたるゆへに被召置候也、無御存とおもふへからす、又是意趣に思ふ事にてハなしと被仰候と云々、考に上野清信其身駒野の土民、又養子秀政土民成しとの事、不分明、然れとも上野清信といふ人義輝公御代より有て、義昭公江・若・越・濃御漂泊の砌も、藤孝君と同様に所々御使なとも相勤見へ申候間、南都にての寵童を清信養子に被下候との事実なるへき歟、又清信か子六左衛門を被召出あるひハ秀政か子を被召出との両説も不分明、また室町日記に、清信は義昭公御法体無程病死とあり、
――『綿考輯録』
長くなってすまなかったが、大事なことがたくさんここから見えてくるので、要点をまとめたい。
要約すると、肥後細川家で100年以上たったころに、ウチにいる上野君の出自なんかみんな言ってること違うんだけど、おかしくね?というのが『綿考輯録』がここで言っていることなのである。つまり、上野清信の養子の上野秀政の遺児を連れてきただの、上野清信の息子を召し抱えただの言ってるけどさ、そもそも足利義昭の寵童だったのは上野清信と上野秀政のどっちなんすかね?、と100年以上たって『明智軍記』や『江源武鑑』を引用するガバガバっぷりの本にすら、突っ込まれている、というだけの箇所なのである。
まあ、上野秀政という足利義昭とアレしていただけで取り立てられた寵臣は、既に謎の存在と化していた。そこでいくつか列挙してみて、退けられた一説に出てきたのが、上野清信が上野信孝の養子とかいう謎の証言であり、それが上野清信の養子が上野秀政なんだから上野清信は上野信孝の実子だろ、という謎の論理の飛躍を00年代以降のネットで勝手にされた、というのが、上野信孝の系統に上野秀政がいる、というのが割とある(だって、上野信孝の後に上野清信が続いている系図、『寛政重修諸家譜』にも『系図簒要』にも出てこないから、紙の辞書には載ってるの見たことないんだもん…)(ちなみに、『姓氏家系大辞典』に至っては立項すらされてない)。
なお、真木嶋城立てこもりに失敗した同じく2巻の元亀4年7月の条で、真木嶋君は昔っからウチに優しかったよね、それに比べて上野テメエこの野郎的な個所で、ポロっとさらに矛盾する情報が出てくる。
右上野清信其後逆心仕、義昭公より御征伐被仰付、郡大和守・槙島玄蕃頭御両人ニ而討果申候 此儀備後国仙水山合戦之砌と言伝
――『綿考輯録』
ここで出てくる、郡大和守、上野氏が郡氏に苗字を変えさせられ、かつ官途からいうと、真木嶋昭光と上野秀政が上野清信を殺したってコト…?ということになる気がするが、1か所目の引用で真木嶋昭光が上野秀政を殺して娘婿だったので遺児を云々と盛大に矛盾している(ていうか上野清信は病死じゃなかったんかい)。
なお、ここで、上野秀政、および上野清信がいつ死んだのかももはやふわふわしてるのがわかる。なので、それぞれのエピソードが本当なのかどうか、そもそも上野清信っていたのか、答えは多分『綿考輯録』を書いた人間すら匙を投げたのだろう。
補足
信長の野望に出たことなどない。
関連項目
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