大久保清連続殺人事件とは、1971年に発生した連続強姦殺人事件である。
概要
1971年3月~5月の僅か41日間の間に、8人もの女性を殺害した連続殺人事件。画家を騙って女性をナンパしては車に乗せてドライブ(その数150人近いとされる)。複数の女性と肉体関係を持ったが、抵抗したり、警察・検察との関係を匂わせた者は容赦なく殺害した。事件の内容から「婦女誘拐事件」「婦女暴行事件」と表現されることもある。
その凶悪性と歪んだ人格によって引き起こされた稀代の連続殺人として知られ、何度かドラマ化されている(ビートたけしが大久保を演じた作品もある)。
大久保清の経歴と人物像
1935年1月17日、群馬県碓氷郡八幡村(現在は高崎市)に生まれる。長男が夭逝し、次男は性格が親の好みに合わなかったので、三男の大久保は両親から「僕ちゃん」と呼ばれ溺愛されて育った。一方で父は性的倒錯した人物だったらしく、兄いわく子供の前で性行為をしていたとされ(のち兄の妻にも手を出している)、これが大久保の性格に影響を与えた可能性もある。
大久保の性的倒錯の片鱗は小学6年生の時に早くも現れた。麦畑に幼女を連れ込むと、性器に石を詰め込む性的暴行をした。当然被害者の親から抗議を受けたが、我が子可愛い母は「お医者さんごっこ」と主張した。
中学卒業後は職を転々とし、一時は上京したこともあったが、どこも長続きしなかった。そんな1955年7月、女子高生を強姦したことで懲役1年6か月、執行猶予3年(初犯なので軽め)の判決が下る。だが懲りない大久保は同じ年の12月にまた強姦事件を起こしたため懲役2年、前回の執行猶予を取り消し、合わせて懲役3年6か月の実刑判決が下った。
ところが大久保は一日でも早く出所したかったのか、真面目な態度で刑に服したことで模範囚とされ、6か月早く1959年12月に仮釈放された。だがやっぱり大久保は翌年4月に強姦未遂を起こしている。この事件は示談が成立したので立件されなかった。
1962年、1年の交際を経て女性と結婚するが、交際時は偽名を使っており、結婚時に「大久保家に養子入りして名前も変えた」というバレバレの嘘をついた。この嘘はバレたが、かつて強姦事件で服役していたことは黙っていた。この時期、「谷川伊凡」のペンネームで『頌歌』という詩集を自費出版したが、この詩集が後年大きな役割を果たすことになる。1964年、結婚してようやく心機一転したのか、大久保は牛乳屋を始める。だが、他の牛乳屋の少年が牛乳瓶を盗んだことに腹を立てて2万円を脅し取る事件を起こしたため、今度は恐喝で逮捕された。この時は懲役1年、執行猶予4年。この事件をきっかけに妻に犯罪歴を知られてしまう。このような中で男子・女子の2子をもうけた。
1966年12月、またまた懲りずに女子高生をナンパして強姦、翌1967年2月にも20歳の女性を強姦する。これでまた逮捕された大久保は先の牛乳屋の恐喝事件の執行猶予を取り消され、あわせて懲役4年6か月の刑が下った。
やっぱり一日でも早く出所したい大久保は今回も模範囚として刑に服し、所長からの表彰を4度も受けるほどだった。だが一方、妻からは離婚を切り出され、大久保は出所するまでは待って欲しいと嘆願した。出所後に店を開くという更生計画を提出したこともあり、1971年3月2日に仮釈放された。
だが妻は子供を連れて実家に帰っており、離婚の意志を一切変えなかった。更に両親や兄も大久保の妻に別居を勧めていた事を知ると、家族への仕返しを目的に一連の殺人事件を行うことを決意する。
事件発生
大久保は更生計画で店を開くとしていたため、出所3日目にそれを理由に父にねだり、最新・流行の白いスポーツカーを買ってもらった。そしてこの車が連続殺人の舞台となる。
ベレー帽とルパシカを身にまとった大久保は画家を騙り、毎日このスポーツカーを走らせては、若い女性をナンパしていた。釈放から逮捕まで73日間あったが、この期間で9537キロを走行、1日約170キロ走っていたとされる。
大久保はロシア人のクォーターであり、割とイケメンだったと言われる。127人の女性に声をかけると35人が車に乗ったとされている。うち十数名と肉体関係を持った。だが、女性が抵抗するなどした結果、最低でも8人の女性が殺害された。
- 1971年3月31日、17歳の女子高生と肉体関係を結ぶが、嘘がバレたので殺害。(第1の犠牲者)
- 1971年4月6日、17歳のウェイトレスと肉体関係を結ぶが、相手が「身内に検察官がいる」と言ったので殺害。(第2の犠牲者)
- 1971年4月11日、20歳の事務員を強姦。
- 1971年4月17日、19歳の県庁職員のナンパに成功するが、相手が「正体を知っている」と言ったので殺害。(第3の犠牲者)
- 1971年4月18日、17歳の女子高生のナンパに成功するが、相手が「父親が警察官」と言ったので殺害(第4の犠牲者)。
- 1971年4月27日、16歳の女子高生のナンパに成功するが、相手が「父親が警察官」と言ったので殺害(第5の犠牲者)
- 1971年5月3日、18歳の電電公社社員のナンパに成功するが、相手が過去を詮索してきたので殺害。(第6の犠牲者)
- 1971年5月9日、21歳の事務員のナンパに成功するが、性行為を拒否されたので強姦して殺害。(第7の犠牲者)
- 1971年5月10日、20歳の知り合いの無職女性を誘い、性行為の後に殺害。(第8の犠牲者)
大久保はこれまでの強姦事件で相手が警察に訴えたことで前科持ちにされたため、同年代の女性を徹底的に殺害してやろうとしていた。そして憎き家族への嫌がらせをしたかった。すべてはそんな身勝手な無差別連続殺人事件だった、と推測されている(後述するが大久保は最後まで動機を説明しなかった)。
群馬県内で突然若い女性の行方不明事件が相次ぎ騒然とする中、5月10日、その前日に殺されている第7の犠牲者の兄が、自分の会社の社員や知人を集めて大規模な捜索隊を結成し、警察と連携して行方を捜すようになった。すると兄が妹の自転車が置き去りにされているのを発見したため、そこを見張っていると現場に大久保が現れ、指紋を消すような行動を始めたので、不審に思った兄が声をかけると大久保は何も言わず車でその場を去った。兄は車種とナンバーを記憶しており、警察に通報すると共に車販売店の協力を得て該当車の持ち主が大久保であることを突き止めた。
5月12日より、兄ら捜索隊は自動車70台を駆使して大久保の行方を追い、翌13日にカーチェイスの末に遂に大久保の身柄を確保して、警察へと突き出した。
逮捕後
わいせつ目的誘拐罪で逮捕はしたが、警察は何の物証も持っていなかった。その為拘留期限が切れそうになるが、4月11日の強姦事件の被害者が名乗り出たため、この罪で大久保を再逮捕することができた。そして第7の犠牲者を殺害したことは認めたが、遺体のありかや他の事件に関しては黙秘した。遺体がなければ殺人で起訴するのは難しくなる。このため何の情報もないまま、群馬県警はしらみつぶしに遺体を捜索する羽目になった。捜索は5000箇所にも及んだという。(なおこの翌年1972年には悪名高き「山岳ベース事件」が起こり、群馬県警は再び遺体を掘る作業を強いられるのであった)
5月21日、榛名湖近くの公園に謎の土盛りがあるのを管理人が見つけ、掘ったところ第1の犠牲者の遺体が見つかったが、大久保はその犯行を認めなかった。
「警察や両親・兄への反抗」として黙秘や虚言を続ける大久保に対し、警察はある警部がメインとなって大久保の心を開かせるという作戦に転じた。警部は大久保がかつて詩集を出版したことに目をつけ、大久保自作の詩や、大久保が好きな詩人の詩、あるときは警部自身が作った詩を朗読して大久保の心をやわらげた結果、5月27日、遂に第7の犠牲者の遺体が発見された。6月27日には第4の犠牲者の遺体が発見された。
だが、それでもなお大久保は落ちず、供述と引き換えに無理難題を要求したりする日々が過ぎ、逮捕から2か月が過ぎようとしていた。そこで警察庁が直々に事件に介入することになり、様々な方策を打ち出した。例えば拘留者の多い前橋警察署から、誰も拘留されていない松井田警察署に移して孤立化させた。これらが効いたのか7月下旬に大久保は次々と殺害と遺棄の供述を始め、ようやく全ての遺体発見へと至った。
裁判へ
大久保は強姦致傷罪、殺人罪、死体遺棄罪などで起訴された。初公判では罪状について全面的に認めた。が、それ以降は豹変して弁護士を解任したり裁判官を告訴したりと支離滅裂な行動に出る。新たに付いた国選弁護人は大久保から言葉を引き出そうとするが失敗に終わり、とうとう最後まで謝罪の言葉は無く、犯行動機も述べなかった。
1973年2月22日、裁判官は冒頭から主文を読み上げ、大久保清に死刑を言い渡した(大抵の死刑判決では主文は後回しにされる。主文で死刑と言われた被告人が動揺する可能性があるため)。大久保は控訴しなかったため、死刑が確定した。
1976年1月22日、死刑執行。確定から3年という早い執行であった。一説によれば、死刑執行を告げられた大久保は腰を抜かして失禁し立ち上がることが出来ず、刑務官に左右から引きずられるように死刑台に上げられたとも言われる。
関連項目
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