「辛亥革命」を起こし、君主制国家であった清朝を打倒して共和制国家である中華民国を築き上げた人物である。
概要
海外を転々としたことで有名である。まず清朝中国に生まれるが、若くして兄を頼ってハワイに赴き、そこで西洋思想を知る。34歳の頃、清朝打倒を掲げて中国に戻るも蜂起に失敗して日本-アメリカ-イギリスと逃避した。以降しばらくの間清朝革命資金を集めるため世界各地を渡り歩くことになる。
その頃の日本は日露戦争に勝利し、これにより白人至上主義で以って支配されていた中東~東南アジアが独立の意識を持つようになった。折しも渡り歩いた際にその様を目にした孫文は、故国中国に於いてもモンゴリアンや満州人に支配されている漢民族という様を思い起こし、日露戦争とその波及を革命思想に据えることを決心した。
一方、その頃の清はアロー号事件(アヘン戦争)と義和団の乱、日清戦争などにより国威が完全に失墜していたため、革命によって中国を漢民族の手に取り戻さんとする火種はあちこちにあった。また明治維新を果たした日本を横に控えるものの、清朝の政治体制は全く近代化されておらず、その上近代化の試み(洋務運動)も清朝保守派勢力により奏効しなかったため、清朝はもはや中国人民に於いて支配に足る王朝ではなくなっていた。
遍歴後日本に亡命し機会をうかがっていた孫文は、機運が整ったとみるや満を持して辛亥革命を起こして清朝を打倒し中華民国を樹立する。しかし、樹立後は各地に乱立する各軍閥と争うことになった。
そこで孫文は北の共産主義国・ソビエト連邦や中国共産党と接触(国共合作)、この後押しを得て中国を統一しようと試みる。しかしその翌年に「革命未だ成らず」で始まる有名な遺言を残して北京に客死する。
余談だがHoI2において中国共産党がチートマジックを使って中国全土を奪ってしまえるのはこのためである。
特に末期に於いてソビエト連邦と接触を持ったことが原因となり、その後中華民国は「国民党」として中国共産党と争い、後の中国における共産主義の台頭に一役買ってしまった。だがしかし革命が起きないままでいると必ずや英独露仏日と満州族により中国国土はずたずたに分割統治されていたため、仕方がなかったという側面もあるだろう。
ニコニコ動画では
ニコ動では孫文そのものの動画はさほど上げられていない(というかキーワード検索では孫文台(孫堅)を使った三国志大戦動画の方が多い)。
だが何よりも書いておくべきはミツバチ(遊助)の空耳であろう。実際あれは何と言っているのだろう?
関連動画
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関連項目
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