小御所会議単語

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小御所会議とは慶応3年12月9日(グレゴリオ暦1868年1月3日)に行われた、新政府発足後最初の政府会議である。

概要

この日京都の御所において薩摩軸とする政変が勃発し、岩倉具視が画策した王政復古の宣言によって幕府の他旧来の摂関制度などが絶され、新政府の発足が決定されると共に総裁・議定・参与の三職の設置が決まった。

同日、参内した卿・大名・諸士が小御所に召集され、新政府発足後の最初の会議が行われた。参加者は御簾に隔てられた上座に臨席する明治天皇の他、総裁の有栖川宮熾仁親王、議定の仁和寺宮嘉王、山階宮王、中山忠能正親町三条実愛中御門経之大原重徳、万里小路博房岩倉具視長谷信篤、橋本実梁ら皇族・卿の人員。徳慶勝、松平春嶽浅野茂勲、山内容堂島津茂久の五大名。そして特に出席を許された大久保一蔵後藤象二郎将曹ら諸士が末席に詰めていた。冠の者が宮中の会議に出席し、発言まで許されたのは歴史上初めての事であった。

辞官納地問題

会議の始まりに中山徳川慶喜の処遇について、政権を朝廷に返上したものの、これまでの失政に対して本当に反正(正にかえる)が見られるのか疑わしいとして謝罪及び官位の辞任と幕府直轄領800万石の差し出しをめた。松平春嶽山内容堂は異を唱え、政権返上という英断を行った徳川慶喜をこの会議に呼ぶべきであるとした。また容堂は、慶喜に対する要を陰険な手段と非難し、幼天子を擁して二・三の卿が権を得ようとしているのであろうと大を上げた。『岩倉実記』によると、この時岩倉具視は、今日の挙は全て宸断(天皇の判断)によって行われた事であり、幼天子とは礼であると一したという。

この後、嶽、容堂、後藤象二郎ら慶喜に同情的ないわゆる政体と、岩倉大久保一蔵ら慶喜に懐疑的ないわゆる武討幕の間で論が続き、大久保日記によれば以下のような模様であった。

五時、小御所にて御評議、越容堂大論、卿を挫き傍若人なり。岩倉堂々論破に堪えず、君々御議論、容堂々御異論、止むを得ず予席を進み論に及び後藤中を取りて論ず。越土の論は直様慶喜を召されとの趣きにて、全く扶幕の論なり。一応御勘考、御退座、其内後藤より予に々談論之有り得ども、かねて決定の論を以って敢えて動ぜず、越尾終に御受にて二条に御行向、御尽御決し相成り。再度小御所にて御評議、尾越より御受在らせられ、三字頃尽く御退散

(『大久保利通日記』)

岩倉大久保は、慶喜が辞官納地を受け入れるなら新政府の構成員として迎え入れるとしたが議論がまとまらず、一時休憩を挟んだ。この時席外にいた西郷吉之助は「短刀一本あれば片付く」と助言し、それを伝え聴いた岩倉は「一呼吸の間に決せん」と息巻いた。それが浅野茂勲や将曹から、大久保と論争していた後藤に伝わった為、身の危険を感じた後藤が容堂にこれ以上抵抗するのは不利だと諌めたという。これらの逸話が事実かどうか定かではないが、この会議で慶喜の処遇を巡ってしい対立が起こった事は事実で、会議の結論は慶喜に辞官納地を命じる事で決まりはしたものの、なお波乱を内包しつつ事態が推移していく事になる。

鳥羽伏見開戦まで

12月10日、徳慶勝と松平春嶽の二人は、王政復古将軍職辞任の承認並びに辞官納地について報告するため徳川慶喜の居た二条を訪れた。これを聞いた旧幕臣や会津士達は激怒し、もはや薩摩を討つべきであるという論調が湧き上がった。慶喜は官位を一つ下げる事、領地の一部を新政府に献上するつもりだが、配下の将兵達が落ち着いてから自ら願う、また会津や桑名の者達は後日帰させると伝え、12日に二条を離れ、大坂城に向かった。

13日、慶喜は旧幕軍、会津等を従えて大坂城に入ったが、その後新政府に対し辞官納地の可否について報告する事はかった。これは慶喜自身の謀略以外に、慶喜を取り巻く人々が強硬論に傾いた事も原因となったと見られる。ただし、通商・交通の要所である大坂に転居した事自体は慶喜にとって京都に圧を加えやすい有利な状況を惹起した。同日、岩倉大久保に対し、このまま強硬策で行くか、嶽や慶勝に交渉を任せ、慶喜が反正の態度を見せれば新政府に参入させる融和策に切り替えるかで相談した。折から薩摩の強硬な態度に辟易していたのは在士のみならず、同盟しているはずの長州士からも疑問のが上がり、果ては薩摩内部からも大久保西郷の強硬路線に反発のが上がっていた。大久保は止む妥協し、慶喜との交渉を嶽と慶勝に委任する事になった。

14日から16日にかけてイギリスフランスアメリカオランダイタリアプロシアの各使が慶喜に対して会見をめた。慶喜はこれに応じ、朝廷からは勅命によって諸大名が上京するまでの間、自分が政権を一任されていると表明し、更に京都で今行われている事は「数名の諸侯」による「兇暴の所業」で、「幼を挟み、慮に託し、私心を行い万民を悩ますは見るにびず」とった。そして「追々全の衆論を以て、政体を定るまでは、条約を履み、各と約せし諸件を一々執り行ひ、始終の交際を全うするは余が任にある事なるは諒せらるべし」と、権は依然として自らにあると宣言した。

16日、旧幕臣の永井尚志が上京し、嶽と後藤と会談した。この会談で慶喜が内大臣を辞任し、その勅許が下りた後に参内して議定に就任させる事、残る納地問題については論で決するという事で合意され、岩倉もこの案に同意した。18日に永井はその情報を持って大坂に戻った。

19日、慶喜は薩摩を非難する文書を大付・戸川に持たせ上京させた。いわゆる『挙正退奸の表』であるが、戸田から新政府への提出を要請された岩倉はこれを却下した。

23日、24日には納地問題が再度浮上し、嶽、慶勝、容堂、後藤らが慶喜に対する領地返上の要に反対し、両日に行われた政府会議で沙汰書にあった領地返上の文字削除され、この問題は下の論をもって決めるべきとされた。負担についても徳氏にのみ負わせず諸大名にも相応の負担を要する事となった。岩倉はこの会議には体調不良と称して出席せず、領地返上の文を消された大久保は窮地に立たされた。

26日、嶽と慶勝は再度大坂城を訪れ、上記の件を伝えると28日に慶喜から請書を渡され、30日に帰。明けて慶応4年1月1日越前士・中根江が岩倉の屋敷を訪れ、慶喜が武装兵を伴わずに上京するつもりである事を伝えると、岩倉は辞官納地と謝罪が行われれば、慶喜を議定に就任させるつもりであると回答した。翌2日の政府会議では大久保松平容保・定敬兄弟を帰させた上で慶喜を上京させるべきという所まで妥協していた。ここに至り大久保西郷全に孤立しかけたが、全く予想外情報がもたらされ状況が急変する。

12月24日、以前西郷関東に放った益満休之助伊牟田、相楽総三ら工作員達が、薩摩京都留守居方の活動中止の命無視して撹乱工作を起こしていた所、報復として旧幕府に命じられた庄内三田薩摩邸を焼き討ちした。江戸の旧幕府は大付・滝川具挙を使者に立ててこの急報を大坂に伝えた。28日、滝川大坂城にこの報せをもたらすと、旧幕臣、会津・桑名両兵は歓を上げ、開戦の機運が一気に高まった。慶喜にも既に止める事は出来なくなっており、また慶喜自身これまでの薩摩の態度への怒りもあった為か、臣下達の薩摩討伐のを敢えて退けようとしなかった。そして慶喜の名義で書かれた『討の表』を持った滝川は、称一万五千人の兵をもって京都に向かった。

臣慶喜、謹んで去九日以来の御事体を恐察奉りえば、一々朝廷の御意にこれなく、全く修理大夫(島津茂久)奸臣ども陰謀より出では、下の共に知る所、殊に江戸長崎・野州・相州処々乱坊及び劫盗儀も、全く同来のにより、東西応し、皇を乱り所業別の通りにて、人共に憎む所に御座候間、前文の奸臣どもお引渡し下されたく、万一御採用相成らずわば、止むを得ず誅戮を加え申すべく

(『討の表』)

1月3日、軍勢が迫っていることを知った大久保は、京都に侵入されれば新政府は崩壊すると岩倉に「必死言上」し開戦を促した。西郷は既に開戦するづもりで12月下旬には以下の覚書を作成し、準備を進めていた。

一 御決策相成りわば一発、玉印(天皇)御微行の方よろしかるべきやのこ
一 相発し節に臨み、堂々と輦を移され方よろしかるべきやのこ
一 山陰にお掛りあらせてよろしかるべきやのこ
一 朝廷ては総裁お止まり相成りよろしかるべきやのこ
一 浪(大坂)の戦いと相成りわば、地にては依然として御動座これなき方よろしかるべきやのこと。
一 中卿(中山忠能)は是非お供相成らずては相済まず、その外幾人にてよろしかるべきや、お供の人数、輿丁、人夫などの手当も調べ置きようとのこと
一 御警衛の人数相究めようとのこと
一 岩卿(岩倉具視)は如何にも跡にお踏み止まり、弾丸矢石を犯し充分御戦闘のつもり

同日、新政府総裁の有栖川宮熾仁親王は慶喜に対し、「今日大兵伏見表へ押し出し趣、如何に思し召され。都下人心動揺にも及ぶべく間、御沙汰これありまで、上京の儀見合わすべくこと」と、上京中止の沙汰を通達した。

2日には既に兵庫湾で停泊していた薩摩軍艦と、榎本武揚揮する旧幕府の軍艦による上戦が起きており、内戦勃発はもはや避けられない情勢になっていた。越前士・中根江は迫り来る幕府滅亡の予感を暗澹たる思いで日記っていた。

滝川播磨守殿その外、江戸表より兵隊と共に汽にて着坂これあり。東地の悪説、かつ二十五日邸攻撃の始末など敷演これあり。この表の奸状を合わせて伐の儀をし、下地除姦の説も起こりたるを、内府(慶喜)御恭順の御意を以て、理ながら御鎮圧なし置かれたる坂地麾下の人心、一挙に煽動誑惑せられしかば、満立地に沸の勢いとなり、憤慨の党奮して、閣(老中板倉勝静)その他を圧迫説倒し、事ついに敗れに帰し、形勢一変、専ら伐除姦の兵事に及び、内府といえども如何ともなし給うべからざるに至りしなりとぞ。、徳氏に祚(さいわい)せず。嗚呼。

(中根江『丁卯日記』)

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