東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件とは、1988年から1989年、昭和から平成に移る前後にかけて起こった連続殺人事件である。
正式名称は「警察庁広域重要指定117号事件」。犯人の名前をとって宮崎勤事件とも言われる。
概要
当時26歳の男性が、4歳から7歳までの幼い女児達を誘拐し、後に殺害した事件。事件名を言われてもピンと来ない人の多くは宮崎勤の名を出せばどういった事件か思い出してくれることだろう。
己の身勝手な性欲と自己顕示欲のために年端も行かない女児を殺害し、さらにその後、遺族の感情を逆撫でする行動をとるなど、その犯行は極めて残虐性の強いものだった。
その猟奇性と残虐性から、犯人の宮崎勤に対しては、検察側から死刑が求刑された。
しかし、物証の多さ、弁護側が公判中の精神鑑定を申請し、鑑定のために審理が中断されたことなどから、審理は長期化した。
結果、1990年3月の初公判から、第一審(東京地裁)で1997年4月、死刑判決が言い渡されるまでに7年、最高裁判決(2006年1月)で死刑が確定するまでに、16年もの月日を要した。
しかし、2006年1月17日に最高裁で宮崎の上告が棄却され、死刑が確定することに。宮崎から申し立てられた判決の訂正申し立ても、翌2月に棄却され、死刑が確定した。
そして、最高裁での確定からわずか2年5か月後の2008年6月17日、法務大臣・鳩山邦夫の死刑執行命令により、東京拘置所にて、宮崎(没年45歳)の死刑が執行された。
※ちなみに、死刑囚の中でも確定からかなり早期に執行された例としては、控訴取り下げで死刑が確定してからわずか1年で執行された、大教大付属池田小学校児童殺傷事件の宅間守がいるが、あちらは控訴を取り下げており、死刑の早期執行を望む旨を自ら表明していた。
一方、宮崎は一貫して無罪を主張しており、最高裁まで争っていたことから、宮崎の死刑執行は、歴代死刑囚の中でも異例のスピード執行として話題となった。
今、オタクに対する「事件起こしそう」などと言ったことに始まる偏見は、この事件を発端に起こったものであると言われている。
犯人が起こした主な殺害事件
- 1988年8月22日 - 埼玉県入間市内にて第一の事件発生、4歳の女児Aを誘拐、殺害。
- 1988年10月3日 - 埼玉県飯能市内にて第二の事件発生、7歳の女児Bを誘拐、殺害。
- 1988年12月8日 - 埼玉県川越市内にて第三の事件発生、4歳の女児Cを誘拐、殺害。
- 1989年6月6日 - 東京都江東区にて第四の事件発生、5歳の女児Dを殺害。
第一の被害者
歩道橋にて事件は起こる。宮崎は「涼しいところに行かない?」と女児Aを誘って、車で東京都八王子市の山林へ猥褻行為を目的に連れ込む。ところが、山林の中で女児Aが急に泣きだしたため、午後6時30頃に幼女Aを押し倒して、絞殺。
翌23日、宮崎はレンタルビデオ店でビデオカメラをレンタルしてから殺害現場に戻ると、遺体にイタズラをしながらビデオ撮影を行った。
遺体はその後、第三の事件で殺された被害者女児Cの父が「遺体だけでも戻って何より…」と語ったのを見た宮崎が、女児Aの遺体頭部を野焼きしたうえで、遺族に怪文字などと一緒に同封して返却した。
その後、手足の骨は女児Aが殺害されてから1年後、東京都五日市町の山林にて発見された。
葬儀の際にも、宮崎は「今田勇子」名義で怪文書を送りつけた。その中には「(女児Aの)葬儀をあげてくださるとのことで、ありがとうございます」などを始め長々と記されており、挑発的な文面に遺族達は激しく憤った。
第二の被害者
小学校の近くで発生。「道を教えて欲しい」と迷い人を偽り女児Bに接近、誘拐した。そして、そのまま車で東京都八王子市の新多摩変電所まで向かい、そこから徒歩で日向峰まで行くと、午後5時頃に絞殺。その後宮崎は遺体にイタズラしていたが、その時点で女児Bは瀕死ながらも生きていたようで、痙攣したため恐怖を感じて逃走した。
第一の被害者同様、遺族に遺骨を送りつけようとしていたが、遺体の場所がわからなかったため断念した。この時の帰り道で車が脱輪し、通りがかった他の車に救助を求めたことで足がつき、宮崎が移動手段に使っている車が日産のラングレーであったことや、付けていたナンバープレートが3桁の数字であるなど、有力な手がかりとなった。
殺害から一年経とうかという時、遺体はこの時点で逮捕されていた宮崎の供述を元に、第一の被害者と同じ東京都五日市町の山林で衣類と白骨遺体が見つかった。
第三の被害者
被害者自宅団地付近で発生。遊んでいた女児Cに「温かいところに行こう」と誘って誘拐。車で移動中、女児Cが泣き始めたため途中で停車、「お風呂に入ろう」などと言って服を脱がせ、女児の裸をカメラで撮影していたが、また泣きだしたので午後7時過ぎに絞殺した。
遺体は殺害から6日後と早急に発見された。横瀬川の河川敷で宮崎が遺棄した女児Cの衣類が見つかり、続いて遺体が名栗村の山林で発見された。
この時の被害者父親の発言が、意図せず宮崎に「被害者遺族へ遺体を送りつける」という行動を起こさせるきっかけとなってしまった。
第四の被害者
公園で発生。遊んでいた女児Dに「写真撮ってあげる」などとして近づき、車で連れ出す。離れた場所に移動した後、ご機嫌とりにチューインガムを渡すも、宮崎は女児Dに生来の身体障害(手を回すことが出来ない)を笑われ、激昂して絞殺した。
帰宅途中にレンタルビデオ屋でカメラをレンタルし、帰宅後遺体の身体を拭いて綺麗にした後でイタズラを行い、いつものように撮影を始めた。
女児Dの遺体のみ、長らく宮崎の手元にあった。しかし、数日後には遺体の匂いがきつくなったため、宮崎は女児Dの身体をバラバラに切断し、あちこちに遺棄した。
この時、頭部は頭髪と歯を全て抜いたという。その間、女児Dの指に醤油をかけて食べたり、ビニールに溜まりに溜まった血を飲んだりなどした。
二ヶ月後、東京都奥多摩町の山林で宮崎の供述を便りに頭部の一部が発見された。
第五の被害者(未遂)
宮崎勤が逮捕された事件。7月23日、東京都八王子市において「写真を撮らせて欲しい」と宮崎は姉妹に近づいた。危険を察知した姉はすぐに帰宅して父にこのことを報告、父は宮崎の後を追った。
車の中で宮崎は全裸の女児を撮影しようとしていたが、ついに女児の父が追いついて身柄を取り押さえられ、さらに通報によって駆けつけた警察に現行犯逮捕された。
逮捕後、宮崎の自供によって上記の四つの事件が宮崎勤の手によって行われたものであると判明した。
事件の影響
冒頭でも記したように、この事件は、従来まったくと言っていいほど世間において認知されていなかった、「オタク」の存在を、極めて不本意な形で世に広めることとなった。
現代人がオタクに対して「気持ち悪い」「怖い」「犯罪者予備軍」といったイメージを持つ理由の一つは、この事件に際して行われた報道が強く影響を及ぼしている(もちろん、一部のオタクの身勝手な行動はそれに上乗せされている)。
この事件がきっかけで、宮崎が好んで閲覧していたホラー系の映画は自粛を余儀なくされてしまう。さらに今日までに至るオタクバッシングも相当に加熱していた。
宮崎勤の部屋は本やビデオにうめつくされ、特に本は床に山積みされていたが、報道陣はわざと猥褻な本を上に置いて取材を行ったとされる。ちなみに宮崎が所持していた約6000点ビデオや本の中で、猥褻関連の内容の割合はむしろ少なかったとも言われている。
それより何より、この事件で印象が変わったのは「普段あまり目立たない人」に対する印象だろう。この事件が起きるまで、目立たない(おとなしい)人が殺人事件を起こすはずがないというイメージが強かったが、この事件以降は「むしろ何を考えているかわからず、何をしでかすか読めなくて、恐ろしい」という印象を植えつけた。
加害者のその後
犯行を行った宮崎勤は、供述で意味不明な内容を散々口走った。
「覚めない夢の中でやった」
「ネズミ人間が現れた」
などといった発言を知る者も多いだろう。このため、責任能力の有無が審判されたが、結局宮崎勤に責任能力の欠如が認められることはなかった。
宮崎はその後も反省や謝罪の態度を見せることはなく、死刑確定後もその判定を不服とし、判決後に出した著書では、むしろ「あほか」などと著したことで、遺族や世間の怒りは筆舌に尽くし難いものとなった。結局彼の口から遺族への謝罪や反省の弁が語られることは最期までなかった。
宮崎は女児達を絞殺という形で殺していたが、当の本人は「怖い」という理由で薬殺刑を望んだ。しかし日本でそんなことが出来るわけはなく、絞首台へと送られた。
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