武田義信(たけだ・よしのぶ 1538 ~ 1567)とは、甲斐の戦国武将である。
概要
甲斐武田氏の後継者であったが、謀叛を企てた疑いにより廃嫡・幽閉され、30歳でこの世を去った。ある意味、桶狭間のとばっちりを一番食らった人物かもしれない。
彼の死により、諏訪氏を継ぐはずだった勝頼が後継者に指名される事になる。
生涯
武田の後継者として
父は甲斐の戦国大名・武田信玄(晴信)、母はその正室である三条の方。『義』の字は13代将軍・足利義輝から賜ったもの。
1554年、甲相駿三国同盟が完成し、その一環として今川義元の娘・嶺松院を妻に迎えている。三組の夫婦の中では最も早く、1552年に結婚した。(ちなみに嶺松院の母は信玄の姉なので、二人はいとこ同士)
1554年に17歳で初陣を飾り、1561年の第四次川中島の戦いでは上杉謙信の本陣を奇襲するなどの功を挙げたという。
こうして甲斐源氏嫡流たる武田氏の後継者に相応しい人生を順調に歩んでいる、かに見えた。だがその一方で、戦国の情勢は大きく変化しつつあった…その渦に義信は巻き込まれていく。
義信事件
暗雲は1560年、桶狭間の戦いで舅・今川義元が討死した事から始まる。義元の突然の死により、今川領国は大混乱に陥った。特に三河では松平元康(のちの徳川家康)が自立して、1562年には織田信長と清洲同盟を結び、今川領を侵食し始める。
一方武田家はというと、1561年の第四次川中島の戦いをもって北信濃の争いが収拾へと向かっていた。越後の上杉謙信(政虎)は関東管領の座を継ぎ、関東の北条征伐に注力するようになる。
こうした状況から、武田家中では「遠い北信・越後への出兵は止め、近くの駿河を叩く」という新たな方針が浮かび上がっていた。だがそれは当然、三国同盟からの脱退を意味する。
武田信玄は駿河侵攻を基本路線と考えていたが、それに反発する親今川派の家臣も存在しており、今川から妻を迎えていた義信もまた親今川の立場にあったと考えられている。実際に義信自身がどれくらい積極的に信玄と対立していたのかは今となっては分からないが、少なくとも親今川派の旗頭に据えられていた事は、この後の展開から見ても間違いなさそうである。
1565年。信玄は織田信長と同盟を成立させ、四男・諏訪勝頼の妻に信長の養女を迎え入れた。そして同年10月、義信は信玄暗殺計画に関わった疑いから幽閉されてしまう。駿河侵攻は決定的なものとなった。
同時期に、義信の側近を務めていた飯富虎昌、長坂源五郎(奥近習六人衆の一人・長坂昌国であるとも別人とも)、曽根周防守(奥近習六人衆の一人・曽根昌世の子とされる)といった面々が信玄暗殺計画の首謀者として誅殺・粛清された。この計画の存在を信玄に伝えたのは飯富虎昌の弟、のちの山県昌景であったと言われている。
幽閉された義信は2年後の1567年に死去した。2022年に研究された史料によって病死であると判明した。彼の死に伴い、氏真は嶺松院を駿河へ帰国させる様に要請した。信玄は帰らせる事に難色を示したとされる。氏真が色々手続きを済ませ、最終的に駿河に戻った嶺松院は、出家して貞春尼と称した。江戸時代に、貞春尼は嫡男の教育を取り仕切る役職を貰い(御介錯上臈)徳川秀忠の教育をして徳川家に仕えていた史料が見つかっている。
その後
信玄が織田信長や徳川家康と同盟した事や、氏真が北条氏康と共に永禄10年に甲斐に対して塩止め(塩の禁輸政策)を行った事や義信の件を機に上杉謙信との同盟を考え始め、氏真と謙信で内密に交渉を行う(この時、氏真が北条と武田との協議事項や機密事項を上杉側に漏洩する重大な同盟違反をしている)など、甲斐と駿河の関係が緊迫する状態が続き、永禄11年に信玄は今川と上杉の交渉に関する情報を得ていたとされる。信玄は「今川と上杉が通じ、示しあわせて武田を滅亡させようとしている」と北条氏に理解を求める書状を送っている。足利義昭と織田信長の仲介によって徳川と武田で同盟を結んだ。
翌1568年、ガタガタの今川を支えていたゴッドマザー・寿桂尼も死去。信玄は北条氏に今川領の分割を提案するが、北条氏はこれを拒絶し、武田・北条間の同盟も手切れとなる。信玄は徳川(松平)氏と組む方針に転換し、同年末から駿河侵攻が始まった。
1569年に戦国大名・今川氏は滅亡し、1570年には北条の援軍も追い返して駿河を支配下に置いたが、一方で上杉謙信と北条氏政が越相同盟を結んでおり、また武田家は織田・徳川との関係も悪化させてしまい、孤立状態に陥ってしまう。
次弟・海野竜芳は盲目、三弟は早世していたため、四弟・武田勝頼が新たに後継者に指名されるが…。
義信事件推考
義信事件については当時の史料がほとんど残されておらず、その内情は不明な部分がとても多い。
同時期に勝頼が信長の養女(実父は遠山氏)を妻に迎えている事は、元々勝頼は諏訪氏の後継として信濃・高遠城に拠っていたので、西の抑えとして信長との関係を結ばせるのは自然といえば自然なのだが。義信は織田との同盟に反対していたされる。
「父子(信玄と義信)の仲を引き裂こうとする密謀が発覚した」「義信との親子関係に問題はない」という趣旨の手紙を小幡源五郎に送ったとされている。親今川の首謀者たちは即粛清されているが、義信については幽閉止まりというこの扱いをどう判断すべきか。想像の余地は広い。
まあ、そもそも義信が後継者としての素質に優れていたかどうかについても不明な部分が多いので、結局のところ議論するだけ不毛になってしまう。結果としては、武田信玄は父も息子も自ら排除した人物という事になり、こうした少々強引な拡大策の積み重ねが最終的に武田家の首を絞めた、という点は間違いなさそうだが…。
子孫など
嶺松院との間には女子が一人または二人いたといわれるが詳細も消息も不明。嶺松院自身は1612年に死去した。
また、熊本藩細川家に仕えた岩間正成(六兵衛)という人物は武田信玄の孫とされており、その父は義信という説と、武田信清(信玄七男)という説がある。勝頼の家臣である岩間正頼の養子となって、武田滅亡後に小笠原秀政に仕えた後、秀政の娘が細川忠利に嫁ぐ際(1609年)に付き従い、そのまま代々細川家に仕えたという。『肥後藩主要系図』に拠れば、1647年に死去。
補足
シリーズ皆勤賞。勝頼とはどっこいどっこいの能力値という時期が長かったのだが、天道あたりからガクッと能力を落とされてしまった。「創造」では勝頼にも仁科盛信にも全能力で負けてしまっている…。しかし評価しようにも、上述の通り実働期間が短すぎて評価しづらいのも事実。
義信事件は多くの作品でイベントとして登場する。作品によっては、イベント発生直後にCPUの武田&今川が同盟を結び直してしまい「義信とは何だったのか」とプレイヤーを唖然とさせてしまう事もあるw
ちなみに「戦国立志伝」で彼をプレイヤーに選択して1562年シナリオ(織徳同盟)を開始すると、開始翌月に義信事件が発生 → 問答無用で死亡、という厳しすぎる現実が待っている(最速でEDを見る事が出来る、といわれる)。
軍事能力 | 内政能力 | |||||||||||||||
戦国群雄伝(S1) | 戦闘 | 76 | 政治 | 55 | 魅力 | 92 | 野望 | 77 | ||||||||
武将風雲録(S1) | 戦闘 | 68 | 政治 | 64 | 魅力 | 79 | 野望 | 20 | 教養 | 67 | ||||||
覇王伝 | 采配 | 75 | 戦闘 | 73 | 智謀 | 32 | 政治 | 64 | 野望 | 20 | ||||||
天翔記 | 戦才 | 154(A) | 智才 | 104(C) | 政才 | 138(B) | 魅力 | 78 | 野望 | 60 | ||||||
将星録 | 戦闘 | 80 | 智謀 | 59 | 政治 | 62 | ||||||||||
烈風伝 | 采配 | 79 | 戦闘 | 75 | 智謀 | 46 | 政治 | 54 | ||||||||
嵐世記 | 采配 | 69 | 智謀 | 24 | 政治 | 39 | 野望 | 68 | ||||||||
蒼天録 | 統率 | 72 | 知略 | 24 | 政治 | 40 | ||||||||||
天下創世 | 統率 | 72 | 知略 | 25 | 政治 | 40 | 教養 | 61 | ||||||||
革新 | 統率 | 80 | 武勇 | 79 | 知略 | 30 | 政治 | 45 | ||||||||
天道 | 統率 | 68 | 武勇 | 62 | 知略 | 30 | 政治 | 45 | ||||||||
創造 | 統率 | 65 | 武勇 | 58 | 知略 | 38 | 政治 | 48 | ||||||||
大志 | 統率 | 64 | 武勇 | 76 | 知略 | 41 | 内政 | 47 | 外政 | 42 |
関連動画
関連商品
関連コミュニティ
関連項目
- 武田信玄
- 武田勝頼
- 飯富虎昌
- 今川義元
- 戦国時代の人物の一覧
- 1
- 0pt