第二次護憲運動単語

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第二次護憲運動とは、1924年大正13年)に発生した、一連の政治運動である。

同じく大正時代に起こり、「玉座を以て胸と為し、詔勅を以て弾丸に代え」で知られる第一次護運動と並んで、戦前日本政治立憲主義を擁護する運動であったことからこの名がついている。

前史

①原敬内閣(1918.9-1921.11)

米騒動をきっかけに倒れた寺内正毅内閣に代わって1918年大正7年)に発足した原敬内閣は、務大臣の多くを立憲政友会の党員で占めたほか、史上初めて総理大臣衆議院から輩出されたため、日本初の本格的な政党内閣と言われる。[1]
民宰相」と呼ばれた原敬は、パリ講和会議選挙権の要件であった10円を3円までに引き下げたほか、皇太子裕仁王(後の昭和天皇)の欧州訪問や彼の婚約者の久邇宮良女王に関するいざこざ、いわゆる宮中某重大事件を適切に処理。政友会内部でも内務大臣の床次二郎や法制局長横田千之助といったポスト原が育ち、政党政治が順調に育ちつつあったのだが……

②高橋是清内閣(1921.11-1922.6)

1921年11月、原敬は東京駅で暗殺されてしまう。現職首相暗殺という日本政治史上初の事態[2]を受け、これを機に政変となっては悪しき前例になる、とする元老の意向により、蔵相高橋是清を首班とした高橋是清内閣が成立。政友会政権が継続することとなった。しかし、生きていれば元老になりえたとまで言われた原ほどのカリスマ高橋にはく、政友会内部では床次と横田の後継者争いを中心に閥争いが化。高橋内閣は内紛によって行き詰まり、7かほどで総辞職となってしまう。

もちろんそうなれば、今度は明確に失政による総辞職であるため、後継には政会総裁である加藤高明が総理大臣となり政権交代が起こるべきだったのだが……

③加藤友三郎内閣(1922.6-1923.9)

加藤高明は元老に嫌われていた。閥を嫌う党人だったのは原敬も同じなのだが、加藤の方は原とは異なり元老とのっ向からの対立も辞さなかったため、元老であった松方正義西園寺望からの評価は高いとは言えなかった。そこで、非党の人物を首相に据えるいわゆる中間内閣を、ということで、このとき海軍大臣で、2月ワシントン海軍軍縮会議をまとめた実績のある加藤三郎を第一の補とし、彼が辞退した場合に加藤高明を総理推薦する、いわゆる加藤にあらずんば加藤プランを立てる。加藤相は当初は辞退するつもりだったが、加藤総裁というか政会に政権を渡したくない政友会が加藤相を翻意させ、ここに加藤三郎内閣が成立し、政友会は閣外協力の形で政権を支援することとなった。

穏健で政党政治にも理解があった加藤内閣では穏当な政治が行われ、特に大きな事件もなく進んだ。翌1924年5月に控えた衆議院任期満了まではこのまま続くかと思われたのだが……

④第二次山本権兵衛内閣(1923.9-1924.1)

加藤は持病の大腸がんが悪化。療養するも、1923年8月24日に在任のまま病死してしまう。次の内閣が組織されるまでは外務大臣内田康哉が臨時代理を務めることになった。

後継首相選びでは、あと一年もないうちに総選挙があるのだから政党人に政権を委ねるのはそれからでも遅くないだろうと考えた西園寺元老は、選挙までのつなぎとして、加藤三郎と同じ海軍の重鎮で、1913年に一度首相を経験している山本兵衛総理大臣とすることを決める。9月1日関東大震災が起こると、臨時代理がいるとはいえ首相不在の政治空白のままではこの未曾有の大災害を乗り切れるはずもなく、組閣の動きが加速。翌9月2日二次山本兵衛内閣が成立し、都復の傍ら、来たるべき選挙に向けてつなぎの役割を果たせればよかったのだが……

⑤清浦圭吾内閣(1924.1-1924.6)

わずか4か後の1923年12月27日
摂政である皇太子裕仁王が御料皇居から国会議事堂[3]へと向かうさなか、虎ノ門を通り過ぎようとしたところ、群衆から飛び出てきた青年難波大助が警戦を突破。そのままステッキに偽装した散弾銃を御料に発するという、いわゆる虎ノ門事件が起こる。
裕仁王に怪はなかったものの、皇太子の暗殺未遂という大事件を受け、山本兵衛以下閣僚全員が引責により辞表を提出。皇太子は慰留したものの山本の意思は固く、ここに山本内閣は総辞職となった。

やはり選挙が近い以上非政党の人物を中継ぎとして内閣に据えるべきという方針は堅持され、後継には貴族院の大会研究会の出身で、今は枢密院議長であった清浦白羽の矢が立った。ここに清浦内閣が成立する。

護憲運動

清浦は原敬の時代から政友会としく、政友会の協力のもと政権運営を行うつもりであった。しかしあくまでも中間内閣である建前上、閣僚には貴族院から自身の所属会研究会の人員を中心に固めることになった。

しかしやりすぎてしまった。清浦内閣は陸海軍相以外全員(枢密院の清浦本人は除く)貴族院議員であったのだ。加藤山本内閣でさえ衆議院、ひいては政友会からの閣僚がいたにも関わらず清浦内閣ではそれさえ排除されてしまったのである。仕方ない事情があったとはいえ非政党政治の政権が三代続いているどころか、衆議院議員内閣に参加できなくなったという事実は、大日本帝国憲法の精神に反するとして衆議院議員達から大きな反発を受けることになる。特に、政友会からの政権奪取の機会を何度も奪われてきた加藤高明率いる政会は反清浦を鮮明にし、護運動と称して倒閣をはかる。

政会は護、つまり打倒清浦という点では政友会とも協力できるだろうと考え、政友会に協力を要請するが、政友会内では清浦の事情を擁護派も根強く、政友会は清浦への姿勢で内紛が起こり、最終的には擁護派は床次を総裁とする政友本党を結成して政友会から分裂し、清浦への閣外協力の立場に立つ。

擁護派が分裂」というと、あまり大したことはないように聞こえるかもしれないが、これは大変なことであった。政友会から分裂して新党結成という形になったのは、あくまで総裁の高橋是清が反清浦だったからで、結果として政友会の議員のうち過半数が政友本党に流れていったのである。当時278議席を持っていた政友会であったが、うち149人が政友本党に脱党、政友会に残ったのは129人だけだった。

しかも、当時政会は103しか議席がかったため、つまり政友本党が衆議院第1党ということになるのである。清浦からすれば、自分はあくまでもつなぎで、政党とは距離を置かざるを得ないはずだったが、衆議院第1党が与党として転がり込んできたということになる。これを見て清浦は政権続投の可性を見いだす。

高橋是清率いる政友会、加藤高明率いる政会、そして犬養毅率いる革新倶楽部の三党でを結成し、内閣不信任案の提出が間近になると、清浦は自ら衆議院を解散。第15回衆議院議員総選挙が始まろうとしていた……のだが、関東大震災混乱選挙人名簿の作成が遅れ、結局投票日は任期満了の時と大して変わらない1924年5月だった。

原以降政党政治の機運が高まっていた民意を上手く捉え、民衆vs.貴族院の対立構図を作り出すことに成功した護に対し、明らか選挙管理内閣でありながら長期政権立に欲を出した清浦と政友本党は有権者の支持を大きくは得られず、 選挙の結果は護286に対し、政友本党116と護の圧勝に終わる。しかも、152まで議席を伸ばした政会に対し、政友本党はおろか政友会も革新倶楽部も議席を減らすという事実上の政会の一人勝ちの様相を呈した。この結果をうけ西園寺望は摂政宮に加藤高明を次なる総理大臣として推薦。大命降下があり、1924年6月加藤高明内閣が発足した。

その後

加藤高明は総理大臣として普通選挙法、治安維持法などを成立させたが、まず治安維持法をめぐって革新倶楽部内が分裂し犬養毅が政友会に合流。また、政友会が総裁に長州閥で陸軍軍人の田中義一を迎える[4]など突然元老西園寺に媚び始める。特に政会とのつなぎ役であった法大横田千之助が急逝すると政友会は政友本党と提携して自ら護を崩壊させ議会多数となって加藤高明を総辞職に追い込む。しかし、自身もをかけていた横田の遺志を無視した動きに西園寺元老が激怒加藤は好かないが、民意に基づかない政権交代はそれ以上に容認しがたいとして、総辞職を差し戻して改めて大命降下。加藤内閣がもう少し存続することになる。

その後、加藤が病死すると同じく政会の若槻次郎内閣が誕生。昭和金融恐慌の対応をミスり若槻内閣が倒れると田中義一の政友会に政権が移り、いわゆる政の常がしばらくの間存続していくことになる。

なお、普通選挙法が通ったことで選挙の規模が非常に大きくなったことは、そのための資金をどうするかという問題を政治家たちに突きつけることになる。加藤高明自身は妻が三菱財閥創設者岩崎弥太郎の長女であったため政治資金には特に困らなかったが、多くの政治家はそうもいかない。政治家は資金獲得のために財界と癒着──いわゆる政治とカネの問題が深刻化していき、最終的には国民に見放されるまでになるのだが、それはまた別のお話。

参考文献

関連項目

脚注

  1. *「本格的な」と妙にぼかされた表現なのは、1898年大隈重信内閣も閣僚のほとんどが政党員だったため、政党内閣の初まりをこちらに見ることも出来るため。しかし大はこの時衆議員どころか貴族院にも議席がなかった。
  2. *現在までに現職で暗殺されたのは原と五・一五事件犬養毅のみ、退職後に広げれば伊藤博文浜口雄幸、斎藤実、高橋是清安倍晋三がいる
  3. *当時は現国会議事堂の完成前であり、仮議事堂が霞が関1丁にあった
  4. *その後総理としては治安維持法強化を始め軍・対外強硬路線の政策を取り、軍縮自由義路線の政会の対立党として政友会を位置づけていく。浜口雄幸の統帥権干犯問題を煽ったのもこのような事情がある
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