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伊藤博文とは、
1.日本の政治家(1841(天保12年)~1909(明治42年))
2.将棋のプロ棋士。関西所属。
本項では1について説明する。
概要
長州藩が治めていた周防国熊毛郡束荷村の百姓・林十蔵の長男として生まれた。幼名利助。十蔵が仕えた足軽・伊藤直右衛門の孫養子となったため、自身も足軽の身分に転じた。
安政4年(1857年)2月、伊藤は萩藩士・来原良蔵と出会い、来原から学問を学んだ。萩に帰国後、来原に紹介された松下村塾に入門。吉田松陰から教えを受けた事をきっかけにやがて幕末の討幕運動に参加。志士の一人となる。
明治新政府発足後、その一員として参加。長州藩閥の代表的な政治家となる。海外から技術・制度を取り入れ、富国強兵・殖産興業に尽力。
大久保利通暗殺後、自由民権運動を圧迫しつつも諸外国に倣って立憲政治を薦めるべく、プロイセン~ドイツ帝国の国情が日本に合っていると考えて同国の憲法を参考とし、大日本帝国憲法を制定、日本を東アジア初の立憲国家とした。
なお帝国憲法の制定前、明治18年(1885年)には内閣制度制定により、日本初の内閣総理大臣に就任している。なお44歳での総理大臣就任は2015年現在でも最年少記録である。
日清戦争の講和条約では日本側の全権大使となる。一方、日露戦争前にはロシアとの協調路線を目論むが、日英同盟締結によって頓挫した。
日露戦争後、大韓帝国の保護国化を進め、韓国統監となる。
国際協調路線を重視する伊藤は、大陸進出政策をとる山縣有朋・寺内正毅らが唱えていた韓国の直接統治化(朝鮮併合)に消極的であったが、その保護国化政策によって民族主義運動家の反感を買い、満洲のハルビン駅でテロリスト・安重根の凶弾に斃れ、生涯を閉じた。享年68。(なお、伊藤の死から29年後、安の息子・安俊生は、伊藤の子・伊藤文吉に謝罪して和解している。)
明治を通じて日本を列強国の一因としたこと、日本の近代化を推し進めた人物として、今なおその評価は高い。
昭和後期の千円紙幣(C千円銀行券)の肖像に採用されている。
逸話
- 女性好きであった事はとみに有名。最初の妻とは浮気が原因で離縁したが、後添いとなった梅子夫人(先妻との離婚原因)は女遊びを咎める事はなく、本邸に同居する愛人達にも心配りを忘れなかったとという。夫婦仲も円満で、伊藤の死後は私財を整理して愛人達に手当を渡し、長年の労をねぎらった。
- あだなは「箒」で、これは女性が掃いて捨てるほど傍にいた事からつけられた。高熱に浮かされている時も芸者二人を侍らせていたほどで、明治天皇から「程々にするように」と苦言を呈されている。
- 一方で、地方で芸者遊びをする時は一流どころから少しランクが下の芸者を指名していた。その土地における一流の芸者には地元の有力者が後ろにおり、揉め事になる事を避ける為だったという。
- 質素な生活を送っており、私財もほとんど持たなかった。初代内閣総理大臣という事もあって多数の高級品を贈られたが、惜しげもなく他人に贈っている。
- 本邸の滄浪閣では警護もつけず単身で散歩をし、ふらりと農家に立ち寄っては米や野菜の値段を尋ね、畑の畔に座ったまま暮らしぶりを聞くなど、飾らない人となりで親しまれた。地元の祭りにも祝い酒を贈るなど気配りを行い、地元民には「大将(てえしょう)」と呼ばれ慕われていたという。
- 文久3年(1863年)、藩命により井上馨ら5名でイギリス渡航した際にまず渡航理由を尋ねられ、「海軍(Navy)を研究する」と言おうとして「Navigation(航海術)」と言い間違えた為、船の上では水夫同様の散々な扱いを受けた。艱難辛苦の果てにロンドンに到着後、聴講生としてロンドン大学に留学。しかし1年後に四カ国艦隊による長州藩攻撃(下関戦争)の報を知り急遽帰国、開戦阻止を志すが失敗。伊藤は戦後の和議において通辞を務め、香港のような土地の租借だけは何とか阻止したという。後年長州ファイブ(Choshu Five)としてロンドン大学に顕彰碑が建てられ、2006年には映画『長州ファイブ』が製作された。
- 明治21年(1888年)、下関にて周囲の反対を押し切ってふぐを賞味する。長らくふぐは毒魚として食べる事を禁止されていたが、その美味さを気に入った伊藤は当時の山口県知事にふぐ解禁を要請。以後ふぐが食べられるきっかけになったとされている。
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関連項目
- | 初代 | 第2代 |
- | 伊藤博文(無所属) 1885~1888 |
黒田清隆 (無所属) 1888~1889 |
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