大日本帝国憲法(旧字体:大日本帝國憲法)は、1889年(明治22年)2月11日に発布、1890年(明治23年)11月29日に施行された、大日本帝国の憲法。日本国憲法施行後の現在では、明治憲法、帝国憲法、旧憲法などと呼ばれる。
1890年の施行以来、日本国憲法施行の1947年(昭和22年)まで57年間一切改正されることがなかった憲法であり、日本の近代政治の根幹と位置付けられていた。
概要
大日本帝国憲法(以下:帝国憲法)は、ヨーロッパの近代立憲君主制の憲法を参考にして作られた憲法である。条文は全部で7章76条まで存在し、大和言葉や歴史的仮名遣いが用いられているのが特徴である。
作成にあたって、伊藤博文が政府の名で欧州に派遣され、欧州現地の憲法を研究することになった。その中で現地の法学者から、「各国の憲法を学ぶには、各国の歴史も学ぶ必要がある」との助言を受け、プロイセン(プロシア)の憲法が日本の国情に適していると判断し、これを参考として憲法を作成した。
なおこれに先駆け、日本においては自由民権運動が盛り上がっており、民間の手による憲法草案も作成されていたが(私擬憲法)、政府の手で作成された帝国憲法へ取りいられることはなかった。また、これら自由民権運動に対しては新聞紙条例、集会条例などを発して抑圧する姿勢を見せている。
尤も、当時の日本はまだ明治維新から20年程度しか経ておらず、幕藩体制の名残も残っていて「統一した国民意識」というものが確立されていない状況であり、日本の保守派では絶対君主制の導入を図る声も上がっていた。
帝国憲法の内容を検証するにあたっては、日本の現状に適しており、なおかつ天皇を中心とした国民の統一意識を形成する一方で、議会に一定の権限を持たせる各方面へのバランスをとった憲法を導入する必要があった、当時のこのような政情も理解しておく必要があるといえるだろう。
憲法の草案を作成したのは伊藤博文や井上毅らであるが、憲法の発布は明治天皇が首相の黒田清隆に手渡すという「欽定憲法」の形が取られている。憲法の発布に対し、自由民権論者の高田早苗などが賞賛するなど世間は概ね高評価を下した。一方、福澤諭吉は憲法が内乱を経ず制定されたことを好意的に受け止めつつも、人民の精神が自立しない状態で憲政に投入することを不安視したと言われている。
憲法の問題点
大日本帝国憲法は、第1条が定めているとおり立憲君主制を掲げた憲法である。君主の権限を憲法で制限するのが立憲君主制である。
この憲法において、主権者と定められているのは「天皇」であり、これは美濃部達吉らが唱えた「天皇機関説」でも否定してはいない。
天皇機関説によれば、いくつもある「主権」のうち「統治権の主体」は「国家」が有し、「国家意思の最高決定権」は「天皇」に属するとされた。憲法施行時には、「天皇は、自分のために統治を行う」という天皇主権説(先述した「統治権の主体」も「天皇」に属する)が解釈の主流を占めていたが、論争を経て1920年代には美濃部らが唱えた「天皇は、国家人民の為に統治を行う」という天皇機関説が解釈の主流となった。大正天皇の摂政を経て天皇となった昭和天皇も、この説を当然のように受け入れた。
この解釈に基づき、大正時代には民本主義・政党政治が花開くことになる。
しかし、帝国憲法は三権分立を取り入れ、帝国議会・国務大臣・裁判所に関する条文を定めていたものの、「内閣」「総理大臣」に関する規定を定めていなかった。これはプロイセン憲法に倣ったためであり、行政権に天皇の意向を反映させる目的があったためであるが、大正が終わり昭和に入ると、この「内閣」「総理大臣」に関する規定が無かったことが日本の憲政に災いをもたらすことになった。
「内閣」「総理大臣」(首相)に関する規定がないということは、「首相」「政府」というものは憲法上は「名目だけで実権を持たない」ものとなる。ここに軍部が着目し、「軍は天皇に直属する(憲法11条)とあるのだから、実権がない政府には従わなくても良い」と独断行動を行うようになった。統帥権干犯問題の勃発である。
元々、軍部に対しては元勲が睨みを効かせており、それゆえこの問題は明治・大正年間には顕在化することがなかった。しかし昭和の頃には元勲の多くが世を去っており、結果として軍部の台頭、そして独断行動を止める存在がなくなったのである。
そして軍部の台頭は政党政治をも弱体化させた。1935年(昭和10年)には天皇機関説事件が起こり、政府は国体明徴声明を発して機関説を否定するに至った。これにより、帝国憲法の立憲主義による統治理念も否定されることとなり、立憲政治は実体を失った。
帝国憲法条文の概要
全文は大日本帝国憲法(全文) 国会図書館の記事を参照。
天皇について
第1条 大日本帝国ハ萬世一系ノ天皇之ヲ統治ス
(大日本帝国は万世一系の天皇がこれを統治する)
第3条 天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス
(天皇は神聖なものであり、侵してはならない)
第4条 天皇ハ国ノ元首ニシテ統治権ヲ総攬シ此ノ憲法ノ条規ニ依リテ之ヲ行フ
(天皇は国の元首であり、統治権を総覧し、この憲法の条規に基づいてこれを行う)
第9条 天皇ハ法律ヲ執行スル爲ニ又ハ公共ノ安寧秩序ヲ保持シ及臣民ノ幸福ヲ增進スル爲ニ必要ナル命令ヲ發シ又ハ發セシム
但シ命令ヲ以テ法律ヲ變更スルコトヲ得ス
(天皇は法律を執行するため、または公共の安寧秩序を保持し臣民の幸福を増進するために、必要な命令を発し、発せさせる)
(ただし命令をもって法律を変更することは出来ない)
第13条 天皇ハ戦ヲ宣シ和ヲ講シ及諸般ノ条約ヲ締結ス
(天皇は宣戦・講和し、また諸般の条約を締結する)
第55条 国務各大臣ハ天皇ヲ輔弼シ其ノ責ニ任ス
(国務各大臣は天皇を輔弼し、その責任を負う)
第1条において、大日本帝国は天皇を君主とする立憲君主国であることを規定しており、第3条でその神聖不可侵を定めている。
この第3条があるために、天皇が国政に関して責任を伴う(名誉を汚す恐れのある)ことがあってはならないとされ、第55条で規定された天皇を輔弼(天皇がなすべきことについて進言し、その責任を追うこと)する国務大臣が実際の国政を行い、その責任を負うと解釈された。
また第4条は天皇が日本の元首であり、統治権を取りまとめて持つが、その行使は憲法の条規に基づいて行わなければならないとし、立憲君主制を明示している。
その他の条文でも、三権などが天皇に属しているとされているものの、実務上は天皇が単独で行使できるものとはなっておらず、各機関(帝国議会、裁判所など)にその実権が存在する内容、運用とされていた。
一方、第9条(独立命令による法規制定)や第13条(条約締結)のように議会の制約なしに権限を天皇が行使できる条文が存在するなど、他の立憲君主国でもみられないほど、君主である天皇に広範な権限(天皇大権)が与えられている要素もあった。
尤も、実際の運用上でこれらの権限が天皇の単独意志により行使された事例はなく、内閣が天皇の了承を経て行使することが常であったと言われている。
また天皇大権の一つとして、軍の統帥権を定めた第11条は、統帥事項を政府から独立させ、陸海軍当局の直轄とさせる根拠となり、昭和期に上述の統帥権干犯問題の要因となった。
ニコニコ動画に関係有りそうな条文
第26条 日本臣民ハ法律ニ定メタル場合ヲ除ク外信書ノ秘密ヲ侵サルヽコトナシ
(日本臣民は法律に定めがある場合を除き、信書の秘密を犯されない)
第27条 日本臣民ハ其ノ所有権ヲ侵サルヽコトナシ
2. 公益ノ為必要ナル処分ハ法律ノ定ムル所ニ依ル
(日本臣民はその所有権を犯されない)
(公益のために処分を必要とする場合、法律の定める所による)
第28条 日本臣民ハ安寧秩序ヲ妨ケス及臣民タルノ義務ニ背カサル限ニ於テ信教ノ自由ヲ有ス
(日本臣民は安寧秩序を妨げず、かつ臣民としての義務に背かない限り、信教の自由を有する)
第29条 日本臣民ハ法律ノ範囲内ニ於テ言論著作印行集会及結社ノ自由ヲ有ス
(日本臣民は法律の範囲内において、言論、著作、出版、集会、結社の自由を有する)
「臣民の自由、権利」に関して「法律の留保」や「安寧秩序」に基づく制限が設けられているのが特徴となっている。
これらの権利は、天皇から臣民へ与えられた「恩恵的権利」とみなされており、基本的人権を永久不可侵の自然権とみなし、「公共の福祉」に反する場合に限って制限できる現行の日本国憲法とは異なるものと、通説では解釈されている。
つまり、立法手続きに基づけば無制限にそれらの権利へ制約をかけることが可能と考えられ、現実に帝国憲法下では不敬罪、新聞紙法、出版法、映画法、治安警察法、治安維持法等に基づいて言論の自由、表現の自由、結社の自由、出版の自由などが厳しく制限された。日本国憲法第21条第2項で明確に禁止されている「検閲」(行政権が主体となるもの)も、帝国憲法下では上記した法律等を根拠に実施されていた。
尤も、現行憲法においても「公共の福祉」に反するとして人権を規制する場合は法律で制限する形を取るため、帝国憲法との差はその規制の大きさの差に過ぎないと考える向きも存在し、憲法でこれらの自由の保護が規定されただけでも、当時としては充分先進的であったと考えられる事もある。
改正条項
第73条 将来此ノ憲法ノ条項ヲ改正スルノ必要アルトキハ勅命ヲ以テ議案ヲ帝国議会ノ議ニ付スヘシ
2. 此ノ場合ニ於テ両議院ハ各々其ノ総員3分ノ2以上出席スルニ非サレハ議事ヲ開クコトヲ得ス
出席議員3分ノ2以上ノ多数ヲ得ルニ非サレハ改正ノ議決ヲ為スコトヲ得ス
(将来この憲法の条項を改正する必要があるときは、勅令をもって議案を国会に提出しなければならない)
(この場合、両議院は各々その総議員の3分の2以上の出席が無ければ議事を開くことはできない)
(出席議員の3分の2以上の賛成を得られなければ、改正の議決をすることができない)
第75条 憲法及皇室典範ハ摂政ヲ置クノ間之ヲ変更スルコトヲ得ス
(憲法及び皇室典範は、摂政を置く間はこれを変更することはできない)
1946年(昭和21年)11月公布、1947年(昭和22年)5月施行の日本国憲法はこの第73条、また公式令の第3条第1項・第2項(帝国憲法改正の場合の文書形体を規定)に基づき、昭和天皇と各国務大臣の署名を記した「上諭」を付与し、大日本帝国憲法を改正する形で制定されたことになっている。
日本国憲法
朕は、日本國民の總意に基いて、新日本建設の礎が、定まるに至つたことを、深くよろこび、樞密顧問の諮詢及び帝國憲法第七十三條による帝國議會の議決を經た帝國憲法の改正を裁可し、ここにこれを公布せしめる。
御名 御璽
昭和二十一年十一月三日
内閣総理大臣
兼外務大臣 吉田茂
(以下、各国務大臣)
しかしながら、その「上諭」が天皇の裁可を得て憲法を改正する形、すなわち欽定憲法の体裁をとっているのに対し、日本国憲法の「前文」は日本国民がこの憲法を制定するという民定憲法の体裁をとっており、その制定主体、また主権の移動などについての整合性は議論の対象となっている。
また帝国憲法の第75条は憲法・皇室典範を摂政を置く間は改正できないことを規定しており(摂政を置くような国の有事において、それに乗じた改憲をさせないために規定)、第二次大戦後のGHQによる占領下となるとそれ以上の有事(主権者である天皇の意志が反映できない状態)となることから、その状態で改正を行った現行憲法と現行皇室典範に関しては、無効であるという意見が存在する(日本国憲法無効論を参照)。
その他、憲法改正の発議権は第73条で「勅命ヲ以テ」とあるように天皇が有しており、帝国議会には存在しないと解釈されていた。
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