イツセイとは、1948年生まれの日本の競走馬・種牡馬である。栗毛の牡馬。
戦後間もない日本競馬に幻の馬と共に現れ、2000m以下に限ればその幻の馬以外には1度も先着を許さなかった。中央競馬最古のマイル重賞、第1回安田記念の勝ち馬。
※当記事では活躍した当時に合わせて旧馬齢表記(現在の表記+1歳)を使用しています。
父セフトは数々の伝説的逸話を持つ快速馬ザテトラークの血を引き、戦前の官営牧場に輸入されたアイルランド産の大種牡馬。競走馬時代は短距離で活躍していたものの、2年目の産駒からは菊花賞を勝ったハヤタケが登場、戦後に入ってからは2位に2倍の差を付け5年連続でリーディングサイアーとなった。当時の種牡馬の中では特に牝馬クラシックに強く、また産駒の仕上がりも早く朝日杯3歳S、阪神3歳Sなど3歳重賞にも強かった。
母レボアモンドは母系に日本最初のリーディングサイアーイボアを持つ良血牝馬。イツセイは初仔セフトフアインから4年開いた末生まれた待望の2頭目の産駒である。
母父レイモンドは当時日本で大活躍していた名種牡馬トウルヌソルと同じゲインズバラを父に持ち、現役で活動していた種牡馬でもあった。代表産駒はイツセイと同期でライバルの1頭トラツクオー、母の父としては地方競馬出身のダービー馬ゴールデンウエーブを出している。
1948年5月14日に北海道浦河町の鎌田三郎氏によって生産され、岩崎利明氏に購入された後「イツセイ」と名付けられた。イツセイという馬名の表記は当時の日本競馬では拗音・促音が使えなかったためで、読みは「イッセイ(一勢)」、英語表記でも「Issei」と表記されている。日本の妖怪イツマデの親戚とかではない。
その後3歳となったイツセイは東京競馬場に厩舎を構え、当時すでに5大クラシック全てに勝利していたリーディングトレーナー「大尾形」こと尾形藤吉厩舎に入厩した。
1950年11月5日の東京芝1200mで行われる未出走戦に尾形厩舎所属の八木沢勝美騎手を鞍上にデビュー。1番人気に応える5馬身差の圧勝で華々しくデビューを飾った。2戦目の10万下条件戦でも後の天皇賞(秋)2着馬ヒロホマレを退け連勝。3戦目のオープン戦では後々までライバルとして数々の激戦を演じるミツハタと初めて顔を合わせたが、初対決は1馬身半差でイツセイに軍配が上がり、3戦全勝の成績で年末の3歳重賞朝日盃3歳ステークスへと駒を進めた。
1950年、第2回となる朝日盃3歳ステークス(当時芝1100m)でイツセイは2番人気に支持された。1番人気は夏にデビューしてからここまで5戦5勝。うちレコード勝ち4回と圧倒的な強さを見せるイツセイと同じセフトを父に持つトキノミノル。3番人気はここまで全て複勝圏内で2週間前に行われた阪神3歳ステークスで2着に入った後地元中山に戻ってきたトラツクオーだった。同じ全勝馬同士、イツセイが得意とする短距離戦で初の敗北をもたらしてやりたかったところだったが、結果はトキノミノルに4馬身差を付けられて初敗北を喫した。しかし3着トラツクオーとそこからハナ差のミツハタは同じく4馬身千切り、イツセイも強さを十分見せつけての2着であった。その後イツセイは年末の朝日盃と同条件のオープン戦に出走し、トラツクオーを2着に破って勝利。3歳時は5戦4勝とした。
4歳時は主戦騎手を八木沢騎手の兄弟子であり尾形厩舎のエースでもある保田隆芳騎手に交代し、3月の4歳戦から始動。皐月賞を意識して距離を伸ばし、中山芝1800m戦とこれまで最も長い距離であったが、2着ミツハタに半馬身差で勝利した。2戦目の選抜ハンデキャップ戦ではここが始動戦のトキノミノルと2回目の対戦となったが、トキノミノルによる3馬身差のレコード勝ちを前に再び2着に敗れた。次走のオープン戦では再びミツハタを破って勝利したが、その次のオープン戦では再びトキノミノルに敗れ2着。皐月賞前週のレースではトラツクオーに2馬身半差で破るなどトキノミノル以外の同世代には全勝して皐月賞の日を迎えた。
1951年の皐月賞はまさにトキノミノルの為にあると言っても過言ではない日であった。ここまで圧倒的な強さで8戦全勝の活躍は普段競馬を知らない大衆にも広く伝わっており、これまでの観客動員数を大きく更新し、トキノミノルは現在も破られていない単勝支持率73.3%の1番人気に推され、戦後初の単勝元返しが発生した。そんな中イツセイはこれまでと同じように2番人気に推されたが、これまでの対戦と同じくトキノミノルに先頭を奪われ、直線に入ってからも必死で追いすがったものの結局そのままトキノミノルが皐月賞どころか芝2000mの日本レコードで優勝する中、3着ミツハタを何とかハナ差凌いで2着を確保することしかできなかった。しかし朝日盃で初めて対戦した時には4馬身あった差は2馬身に縮まり、ハナ差のミツハタの後ろには8馬身もの大差をつけていた。ゴール版前を撮影した白黒写真には上位3頭しか映っておらず、この3頭が世代で抜けていることを改めて示していた。
その後イツセイは打倒トキノミノル、そして世代の頂点につくことを目指して調教を積み、6月のクラシック二冠目東京優駿(芝2400m)へ向かう。1951年の日本ダービーは観客数7万人とこれまでにない数の観衆が押し寄せ、東京競馬場ではやむなく内馬場を開放することまでしていた。皐月賞ほどではなかったもののやはり1番人気はトキノミノルで、イツセイはまたも2番人気。皐月賞でハナ差の3着だったミツハタは26頭立ての21番と外枠に入ってしまったためか5番人気に人気を落とし、変わって牝馬のオリオンが3番人気に推された。レースではそのオリオンがスタート直後に先頭を奪って逃げ、トキノミノルは珍しく控えた。イツセイはそのトキノミノルを見ながら8~9番手あたりの「ダービーポジション」に付け、先行集団を伺った。その後トキノミノルは3コーナー前でペースを上げて先頭に立ち、そのままの足色で東京競馬場の直線を悠々と走り抜けていく。残り400mを切った所でイツセイがトキノミノルを捉えるべく猛烈な勢いで追い込みをかけ、最終直線はこの2頭の一騎打ちとなった。1完歩毎にどんどん差を詰めていくイツセイではあったが、トキノミノルが変則三冠馬クリフジの記録を塗り替えてレコードで勝利する中、1馬身半及ばずまたも2着。しかし皐月賞とは違い3着のミツハタを5馬身後方へ置き去りにし、1着トキノミノルとの差はこれまでで最小の1馬身半。かつてどうやっても追いつけなかったその背中はもうすぐそこまで見えてきていた。イツセイはダービー翌週の4歳戦を自身初となるレコードで快勝し、これまでで一番の充実期を迎えた。きっと次こそは追いつける。きっと次こそは勝てる。そう思った矢先、トキノミノルは破傷風により急逝してしまう。ついに捕まえられると思われたその姿は、決着をつける前に幻となってその手の間から消え去ってしまったのだった。
イツセイにとって永遠のライバルと言ってもいいトキノミノルが去っても、イツセイの競走生活が終わったわけではもちろん無かった。これまで世代の2番手として走ってきたこともあって、イツセイは世代の筆頭として期待を寄せられた。次走のオープン戦では2着に7馬身差を付けて勝利しその期待に応えて見せ、イツセイは7月1日に行われるマイル重賞第1回安田賞へと向かった。「日本ダービーの生みの親」、そして後年JRAが発足した時にはその初代理事長ともなる安田伊左衛門氏の名がつけられたこの競走は、当時としては非常に珍しい1600mの短距離重賞として新設された。当時はハンデ戦だった為イツセイは4歳馬にもかかわらず2番目の斤量からは7kg差、最も軽い同じ4歳のアラシヤマからは何と14kgも離れた64kgを背負うことになった。ハンデ戦時代の安田記念で他に64kgを背負ったのは第7回で2着だったハクチカラが唯一で、この時のハクチカラは5歳だった為、64kgを背負った4歳馬はイツセイだけである。しかし当日イツセイは当然のように圧倒的1番人気になり、2着に3馬身差を付けてレコード勝ち[1]。余裕の走りで安田記念の第1回優勝馬、そして64kgを背負って勝利した唯一の競走馬にもなった。
その後夏の休養を取ったイツセイは9月のオープン戦から復帰し、ここでも64kgを背負わされたものの重馬場の中2着に大差をつけ勝利して翌週行われる毎日王冠(当時芝2500m)へ出走する。2500mは今まで走ってきた距離ではダービーを超えて最も長くなったが。ここでもイツセイは1番人気に推された。しかしイツセイはここで皐月賞、ダービーで先着してきた同期のミツハタに1と4分の3馬身差で2着に敗れ、デビューから17戦目にして初めてトキノミノル以外の馬に先着を許すことになった。ただ次走の芝2000m戦では当年に天皇賞(秋)をレコード勝ちするハタカゼを7馬身差で下し、続くカブトヤマ記念(当時芝2000m)でも不良馬場の中ミツハタを5馬身差でリベンジし重賞2勝目を挙げ、クラシック最終戦である菊花賞へ向かった。
菊花賞ではこれまで何度も対戦し毎日王冠では2着に敗れたこともあるライバルミツハタが何故か出走しなかったこともあり、今は亡きトキノミノルに代わる世代の筆頭として、イツセイはクラシック三冠では初めて1番人気、それも圧倒的な支持率での1番人気に支持された。2番人気はダービーで21着に大敗した後からここまで通算16戦し、チャレンジカップを制して重賞馬となっていたサチホマレ、3番人気は桜花賞2着の実績を持つ強豪牝馬クモワカ続いていた。ミツハタがいない今回、今まで1度も先着されたことが無い馬が相手とあっては負ける要素もないと思われたが、結果は5番人気のトラツクオーが2着サチホマレとの叩き合いをクビ差制して優勝する中、イツセイは2頭から6馬身離された3着に敗れ、デビュー以来19戦にわたって続いていた連対記録もここで遂に途切れてしまった。その後イツセイは当時菊花賞後に行われていたセントライト記念、中山特別(どちらも芝2400m)に相次いで出走したが、何れもミツハタの前に敗れ、4歳時はこれが最終戦となった。
翌年イツセイと陣営は当時の古馬の大目標である天皇賞には向かわず、イツセイが力を発揮できる2000m以下のレースを中心にローテを組んだ。当時の短距離レースは殆どが平場のハンデ戦で、4歳時の成績から重い斤量を背負わされるイツセイは本来不利なはずだったのだが、3月のハンデ戦(芝2000m)を不良馬場の中68kgを背負って6馬身差で勝利したのを皮切りに、5月まで4戦して67~69kgを背負い3~7馬身差を付ける圧巻の内容で5連勝。短距離とはいえ天皇賞より10キロ近く重い斤量でこの強さ、陣営も短距離だけでなくチャンスがあるとみれば2000mを超える重賞にも挑戦したが、5月中旬の東京杯(芝2400m)、6月の目黒記念(春)(芝2500m)はどちらもこの年の天皇賞(春)をレコードタイムで制した同期ミツハタに阻まれた。しかし得意の1800m戦では70kgを背負ってレコードで大差勝ち、2000m戦では73kgを背負ってライバルミツハタを返り討ちにするなど、衰え知らずの強さを見せ続け、第2回安田賞が行われる前日に東京芝1800mのオープン戦に再び73kgを背負って8馬身差で勝利し引退した。ちなみに翌日行われた安田賞を制したスウヰイスーのタイムより、3月に東京芝1600mを7キロ重い斤量で走ったイツセイのタイムの方が、丁度1秒早かった。
引退後は北海道の日高で種牡馬入りし、リーディングサイアーセフトの後継として期待を集めた。産駒の中からは1958年の皐月賞馬タイセイホープが現れ、同期ではクモワカと並び大きな成功を収めた。その後は当時まだ大きな生産規模を持っていた本土の馬産地に渡り、青森県や岩手県で種牡馬生活を送った。1966年2月に種牡馬を引退、最期の地が何処だったのかは今もわかっていない。
イツセイが現役だった1950年代初頭は、戦前の軍馬育成の流れがまだ色濃く残っていた時代、日本競馬の短距離のレースはまだまだ整備される前で、日本で最も歴史ある短距離重賞スプリンターズステークスなど影も形もなく、それどころか大阪杯や宝塚記念でさえまだ設立される前の事であった。そんな中欧州の伝説的な短距離馬の血を引いたイツセイは、2000m以下ではどんな馬場でも、どんなに重い斤量を背負っても、32戦の競走生活の中で遂にトキノミノル以外には一度も前を走らせることは無かった。デビューから続いた19戦連続連対は数だけならシンザンと並ぶ大記録。4度のレコード勝ちに古馬になってから得意距離で2着につけた着差は3馬身から大差までと、52年の成績はまさに圧倒的なものだった。同期にミツハタ、トラツクオーという歴史に名を刻む名ステイヤーがいた事もあって2000mを超える距離の競走ではついに一度も勝つことは出来ず、21勝したうち重賞は2勝だけと飛びぬけた成績を残すことは出来なかったが、2勝したうちの一つである安田賞は中央競馬最古の伝統あるマイル戦として回数を重ね、グレード制が導入されたと同時にハンデ戦から定量戦へ、今や日本のみならず世界でもトップクラスのマイルGIへと成長した。いつの日か「トキノミノルに勝てなかった馬」から「世界一のマイル戦の初代優勝馬」へ、イツセイの名前は多くの名馬が名を連ねる安田記念の1番上、第1回の優勝馬の名前が刻まれたその場所に、今も輝いている。
| *セフト Theft 1932 鹿毛 |
Tetratema 1917 芦毛 |
The Tetrarch | Roi Herode |
| Vahren | |||
| Scotch Gift | Symington | ||
| Maund | |||
| Voleuse 1920 鹿毛 |
Volta | Valens | |
| Agnes Velasquez | |||
| Sun Worship | Sundridge | ||
| octrine | |||
| レボアモンド 1937 鹿毛 FNo.42 |
*レイモンド 1930 鹿毛 |
Gainsborough | Bayardo |
| Rosedrop | |||
| Nipisiquit | Buchan | ||
| Herself | |||
| レボア 1922 鹿毛 |
*イボア | Hackler | |
| Lady Gough | |||
| 第二レインボウ | *ブレアーモアー | ||
| *レインボウ | |||
| 競走馬の4代血統表 | |||
クロス:Sundridge 4×5(9.38%)、Ayrshire 5×5(6.25%)
掲示板
1 ななしのよっしん
2023/08/11(金) 15:55:56 ID: ieqoVGGOfF
おお、イツセイの記事もあるのか
大川慶次郎氏が競馬予想に自信を持つようになった切っ掛けの馬だね
トキノミノル、イツセイ、ミツハタ、トラツクオー、ヒロホマレ...と凄い世代だな
そのうちトラツクオーの記事もできるといいな
2 ななしのよっしん
2023/10/14(土) 23:54:10 ID: g0wbmTOQAL
3 ななしのよっしん
2023/10/15(日) 11:01:00 ID: ieqoVGGOfF
昔の馬のシルコレとしては多分いちばん有名な馬なんじゃないかな
急上昇ワード改
最終更新:2025/12/21(日) 08:00
最終更新:2025/12/21(日) 08:00
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