ヴァロワ朝(1328~1589)とは中世フランスの王朝である。
1328年にカペー朝の男系が断絶したため、ヴァロワ親王家からフィリップ6世が即位して始まった。その歴史にはまずイングランドとの百年戦争があり、中盤にはイタリア戦争、晩年にはユグノー戦争と対外戦争と大規模な内乱、国際戦争があった。
途中ヴァロワ=オルレアン家、ヴァロワ=アングレーム家と移り変わりながら13代王のアンリ3世を結びとして政権はブルボン朝へと移動する(ブルボン家もヴァロワ朝の傍系であるが)。
フランスはヴァロワ歴代王の治世の中で封建的な中世から、システムと法律によって王が国を一元的に統治する近代的国家へと移行していく。そして次代のブルボン王朝においてそれは絶対王政という形を経て完成に向かっていった。
ヴァロワ朝が始まった当初、英王エドワード3世はフランス王に臣下の礼をとり両国の関係は悪くなかった。しかし初代フィリップ6世はイングランドと対立していたスコットランドを支援し、更にイングランドが仏内に持っていた領土に手を出そうとしたため英仏間の緊張が高まり、ガスコーニュを巡って両者の関係は完全に破綻。エドワード3世の母親はカペー朝の王フィリップ4世の娘であったため、彼は「私はカペー朝のフィリップ4世の(女系の)孫である。私こそがフランス王位継承者にふさわしい」と主張してフランスに宣戦布告した。世に謂う百年戦争の勃発である。
国土の広さでは勝っていたフランスであったが国内の安定は悪かった。エドワード3世はその結びつきの悪さを利用する作戦にでる。まず仏王と仲の悪かったフランドル諸都市を味方につけて、ついでブルターニュに軍隊を駐屯させることに成功した。1346年には王自らノルマンディーに上陸、クレシーにおいてフランス軍と衝突した(クレシーの戦い)。イングランドのエドワード黒太子率いる長弓隊はフランスの旧弊である騎兵隊と弩兵を散々に打ち破り、イギリスが大勝した。更に翌年にはエドワードはフランスの主要都市カレーを占領している。
フィリップ6世の後を襲ったジャン2世もポワティエの戦いでイングランドに破れロンドンに幽閉されてしまう。だが、その息子のシャルル王太子は父親不在の逆境にも負けず、1357年に起きたエティエンヌ・マルセルによるパリ革命やジャックリーの農民反乱など多くの苦難を乗り越え、イングランドとブレティニー・カレー条約で講和するまでに至った。
その後、シャルルは父親の死と共にシャルル5世として即位する。シャルル5世は即位の前から膨大な戦費を捻出するために、貨幣改鋳や新課税など財政強化策を実行していた。これまで王とは名ばかりで実権に乏しかったフランス王家がついにフランス全体を代表し、フランスのために税をかけることができるようになったのである。シャルル5世の生み出した直接税の戸別税(タイユ)と、間接税としての消費税(エード)、塩税(ガベル)は後のフランスの礎となった。このことからシャルル5世は税金の父とも呼ばれる。
シャルル5世の後をついだのはわずか12歳のシャルル6世であった。彼は今にいうところの癲癇や統合失調症に似た精神疾患を持っており、そのため国政は4人の叔父たちに任されることになった。こうなると自然発生するのは宮廷内の派閥争いである。まずシャルルの従兄弟のブルゴーニュ公(ジャン無畏公)が王弟オルレアン公を暗殺し、宮廷内での発言力を高めた。これに対して南フランスの貴族がアルマニャック伯を掲げて対立したため、15世紀のはじめ、フランス宮廷はブルゴーニュ派とアルマニャック派の二つに分かれてしまった。
この頃イングランドではプランタジネット朝からランカスター朝に代わっていたが、百年戦争はまだ続いていた。イングランド王ヘンリ5世はかつて英領だったアキテーヌ等の返還と王位継承権を主張して戦火は再び盛り上がる。1415年、ノルマンディーに上陸したヘンリ5世がアルマニャック派を主体とするフランス軍をアザンクールの戦いにて破った。このためアルマニャック派は権力を失い、パリは再びブルゴーニュ派の独壇場になった……かと思いきや、1419年にはブルゴーニュ派の首領、ジャン無畏公が暗殺される。
ジャンの息子のフィリップはこの暗殺はアルマニャック派の王太子(後のシャルル7世)の仕業だと確信し、ヘンリ5世とトロワの和約を結んでこれと同盟した。ヘンリ5世はシャルル6世の娘と結婚しため、彼の息子であるヘンリには王の(女系の)孫として再び王位継承権が発生する。こうした中でシャルル6世が死ぬと、王太子シャルルはシャルル7世として、イングランド王ヘンリはヘンリ6世として同時に「我こそフランス王なり」と声をあげた。
その後しばらくこう着状態が続いたが、アルマニャック派の都市オルレアンが包囲されていたとき、かのジャンヌ・ダルクがシャルルの下を訪れる。ジャンヌに鼓舞されたシャルルの軍は勇気百倍にオルレアンを解放し、イングランドをパテーで破り、シャルルは正式にフランス王として即位することができた。その後、ジャンヌはブルゴーニュ派のいるパリを攻撃するが失敗。後に捕虜となって火刑に処させる。一方でシャルル7世は一気呵成にイングランドを打ち破り、カレーを除く全イングランド勢力を大陸から駆逐することに成功する。
シャルル7世の子、ルイ11世は貴族に対する統制と一段と強めた。これに不満を持った貴族はフランスの強邦ブルゴーニュのシャルル突進公を中心とする反対勢力を築いたが『遍在する蜘蛛』とあだ名されるルイの権謀術数によりその力は徐々に削がれ、1477年にはナンシーの戦いでルイはシャルル突進公を破り、かつての大領邦ブルゴーニュ公国もやがて解体に向かっていった。この14、15世紀のフランスは恒常的な国家的課税の誕生、国内の有力領邦の解体が始まり、封建制が瓦解し、近代国家の萌芽が見え始める時代であった。
1483年にルイ11世が死去すると、その子シャルル8世が13歳で王位についた。彼はフランク帝国の英雄シャルルマーニュをリスペクトし、当時勢いを増していたオスマン帝国からキリスト教徒を救い出す騎士になることを夢みる少年王であった。シャルルは成人すると最終目標である十字軍の前段階として、口実をつけてイタリアへ侵攻を開始した。1494年、イタリア戦争の勃発である。強力な傭兵部隊を味方にナポリまで進軍したシャルルであったがその身勝手な侵略行為に、ローマ教皇、ヴェネツィア、ミラノ公、神聖ローマ皇帝などが結託した反フランス同盟が形成され、シャルルは撤退を余儀なくされた。
無念のうちに死亡したシャルル8世であるが、彼には跡継ぎがいなかったためヴァロワ=オルレアン家のルイ12世がフランス王に即位した。彼もまたイタリアへの野望を抱き、一時は教皇を味方につけてナポリ、ミラノまで侵攻するが、再び反フランスの神聖同盟に包囲されすごすごと自領に逃げ帰っている。
彼もまた男子を持たなかったため今度はヴァロワ=アングレーム家のフランソワ1世が即位して、その年に早速イタリアに侵攻。アリニャーノの戦いで勝利をおさめてミラノを再占領した。1516年には教皇レオ10世と政教協約(コンコルダート)を成立させ、翌年には神聖ローマ皇帝とノワイヨン条約で和解した。
1519年に神聖ローマ皇帝マクシミリアンが死去するとフランソワ1世は何と次期ドイツ皇帝の選挙戦に打って出たが敗退し、皇帝には本命のハプスブルク家のスペイン国王カルロス1世、ドイツでいうところのカール5世が即位した。これをきっかけにフランスはハプスブルク家を敵対視するようになり、後の30年戦争の伏線となっていく。
ついでイタリア戦線が再燃。フランスは劣勢となりフランソワも捕虜となった。虜囚のフランソワは領土を放棄する条約に調印させられるが、自由の身になった途端にそれを反故にしてしまう。フランソワの後をついだアンリ2世も戦争を継続したが、最終的にイタリアからは完全撤退。1559年にカトー・カンブレジ条約をもって65年の永きにわたるイタリア戦争は終わった。
16世紀半ばにドイツで始まった宗教改革はフランスへも波及していた。北フランスではジョン・カルヴァンが誕生し、プロテスタント(フランスではユグノーと呼ばれた)の数は留まる事を知らなかった。最初は新教に寛容的であったフランソワ1世であったが、彼の寝室の扉にカトリックを批判するビラを貼られ、激怒したフランソワは新教への全国的な迫害を行った。次代のアンリ2世も弾圧を一層強化し、パリの高等法院内に特設異端裁判官。通称、火刑裁判所を設置した。
アンリ2世が馬上騎馬試合において事故死すると、フランソワ2世が即位するがわずか1年半でこの世を去り、続くシャルル9世はわずか10歳の少年であった。このためこの時代の主役は仏王ではなく、シャルルの母親にして摂政となったカトリーヌ・ド・メディシスであった。当時フランス王宮内では新教派と旧教派で貴族がまっぷたつに分かれていたが。カトリーヌはどちらにも属さず、両者の融和を図った。しかし結局1562年にヴィシーでカトリックがプロテスタントを虐殺した事件をきっかけにユグノー戦争が始まってしまった。
カトリーヌは新旧融和を成し遂げることによって王権をその上に位置づけようとしたが上手くゆかず、フランスはバラバラになっていく一方であった。こうした中でフランス王家はブルボン家のアンリ(後のブルボン朝アンリ4世)と現フランス王シャルル9世の妹マルグリットの結婚が決められた。アンリはプロテスタントでマルグリットはカトリック側だったので、これも融和政策の一つである。
しかしその婚姻の儀が終わった数日後に悲劇が起きる。1572年にプロテスタント側のコリニー提督暗殺事件が起きた。この事件が拡がればプロテスタントの怒りは間違いない。そこでカトリック側のギーズ公アンリとカトリーヌは結託して逆にプロテスタントの指導者を皆殺しにしてしまった。しかもこの殺戮事件の勢いはフランス全体に広がり、国内で新教に対する大量殺人事件が発生した(サン・バルテルミの虐殺)。
こうして新旧融和の道は完全に絶たれた。プロテスタントは次々にフランスから亡命し、宗教戦争は泥沼に陥っていった。シャルル9世の後には弟のアンリ3世が即位したが、失政ばかりで彼への期待は次第に薄れていく。その上、彼には男子がなかった。法律によれば王位継承第一位はナヴァラ王アンリであったが、彼はプロテスタントであった。当然国内のカトリック勢力は黙っていられない。彼らはカトリック同盟(リーグ)を結成し、アンリの即位を阻もうとする。
こうして再び三勢力の争いが始まる。この争いは仏王アンリ3世、新教ナヴァラ王アンリ、旧教ギーズ公アンリと三勢力の指導者が全員アンリだっただめ、三アンリの戦いとも呼ばれる。暗雲立ちこめる宗教戦争はギーズ公アンリの暗殺。次いで仏王アンリ3世の暗殺という悲惨な結果で終了した。ナヴァラ王アンリは仏王アンリ4世として即位する。ブルボン朝の始まりである。
掲示板
1 ななしのよっしん
2018/01/20(土) 05:20:27 ID: i75Z3weVjP
強かったカペー朝や革命起こされたブルボン朝に比べると、全体的に地味やな。
2 ななしのよっしん
2020/11/03(火) 08:21:04 ID: 5zjTszc5di
ヴァロア朝ってラ・モット伯爵夫人輩出したってイメージしかねえわ
3 ななしのよっしん
2020/11/26(木) 21:27:12 ID: w4kEgfbpQ0
統一フランスを形成していった大事な時代だよな
百年戦争とユグノー戦争で膿を出し切り集権化して後世への礎になった
度々包囲網に阻まれたが逆に言えばそれだけ当時のフランスはすでに強国だった
イタリア戦争でミラノ公国やナポリ王国を確保できていたらどうなっていただろうね
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最終更新:2024/11/08(金) 20:00
最終更新:2024/11/08(金) 20:00
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