労働価値説とは、「物の価値は、その物を生産するのに必要な労働量によって決まる」という考え方である。
労働価値説は別名「価値論」とも言い「物の価値は何で決まるか?」という単純ながらも現在まで結論の出ない深淵なテーマである。今日の経済学では物の価値は需要と供給によって決まると教えてもらえるが、19世紀までの古典派経済学では商品の価値は労働量によって決まると考えられていた。
主要な労働価値説の論者はアダム・スミス、デイヴィッド・リカード、カール・マルクスがいる。前者二人にはそれぞれの項目を参照してもらうとして、ここではマルクスの労働価値説について解説する。
マルクスは資本主義を分析するにあたり、商品という概念の分析から始めた。というのは、資本主義的生産様式が支配する(つまり資本主義)社会では社会の富[1]は商品の集合体として表れるからである。これは人間の体で考えると分かりやすい。人間の体というのは細胞の集まりであるので、人間の体を分析しようと思ったら、まずは細胞を分析すればよい。マルクスは資本主義という体の細胞を商品と考えたのである。
商品というのは、他人と交換する物(またはサービス)のことであり、全ての商品は使用価値と交換価値を持っている。使用価値というのはその商品を使用することによる価値であり分かりやすい。弁当という商品は食べられるから価値があるし、服という商品は着ることができるので価値がある。問題は後者の交換価値である。ここで一つの物々交換の例を見てみる。漁師がマグロを釣って服飾屋に持っていってズボンと交換してもらったとする。この時、
という式がなりたつ。この式は当たり前のように思えるが、実はそう簡単ではない。算数で2+3=5というのは右辺と左辺が数字という質的に同じものである。しかし、当然だがマグロとズボンは物として全く別のものだ。全く別のものなのに何故彼らはマグロとズボンを交換することができたのであろうか?マルクスはここで両者に共通する尺度の存在を見いだそうとした。マグロとズボンの裏側には何か共通するものがあるはずなのだ。つまりその共通するものこそが「労働」なのである。これがマルクスの労働価値説[2]である。
マグロ1匹釣るのに必要な労働量=ズボン10本作るのに必要な労働量
と言い換えることができる。
この労働価値説のポイントは三つ。
上記の式の場合、漁師はズボンが欲しいからマグロを提供し、服屋はマグロが欲しいからズボンを提供し、ここに交換が成立するが、使用価値が高いからといって交換価値が上がるということはない。交換価値を決めるのはあくまで労働量だけである。
例えば酸素なんかを考えると分かりやすい。酸素は全ての生物の生存に必要不可欠な物質であるが、酸素の獲得には労働をほとんど必要としない。そのため、酸素とマグロを交換することはできないのである。
ただし交換が起こるためには両方の商品が使用価値を持つ事が必須である。使えない商品なぞは誰も欲しがらないから交換は起きない。使用価値があるから交換が起きて、その交換比率(交換価値)は労働量によって決まるという流れだ。
当たり前ではあるのだが商品を作るのに労働力は個人の能力によって異なる。なので、この式においては社会的に平均的な労働力を想定する。先ほどの例でいえば、熟練のマグロ漁師と新人マグロ漁師では1本のマグロを釣るための労働量が違うので、平均的な能力を持ったマグロ漁師を想定している。
⑶労働には二種類ある
具体的有用労働とは、その名の通り具体的に働いて社会的に有用な商品を作り出す労働の事である。マグロ漁師の場合は船をだして、仕掛けを撒いてマグロを釣り上げることであり、服屋の場合は布を切りズボンを仕立て上げることである。社会的に有用な商品を作り出すので、具体的有用労働は商品の使用価値を生み出す。
しかし実は具体的有用労働と交換価値はまるで関係がないのである。マグロ漁師は交換をする際に、服屋がどんな風に布を切り、どのような技術を用いてズボンを仕立てたあげたのかは全く気にしないし、逆もそうである。服屋にとって漁師がどのようにマグロをつり上げた(具体的にどのように労働した)のかは商品を交換をする時にはどうでもよい事だろう。
交換をするときにお互いが重視するのは、実際にどれくらい人間としてどれだけのエネルギーを発散したかという抽象的な労働の量である。これを抽象的人間労働と呼ぶ。商品の交換価値は、この抽象的人間労働の量で決まり、逆に商品の価値は抽象的人間労働が物質化(対象化)したものと言える。
具体的有用労働と抽象的人間労働のそれぞれの特性についてもうちょっと詳しく見てみよう。少し難しいので興味ない人はスルーで。
まずは具体的有用労働について。
⑴有用労働は使用価値を生み出すが、同じ使用価値同士は交換はできない。というより、しても意味がない。例えば米農家は自分の作った米を別の米農家の作った米と交換はしない。これは、自分の米と他人の米は同じ使用価値を持っているからだ。すなわち、商品の交換をするためには自分とは別の有用労働をしている人間の存在が必須となる。社会的に必要な有用労働を複数の人間が分担して行うことを社会的分業と呼ぶ。社会的分業がなければ(誰かと交換するための)商品は生まれることができないのである。
ただし社会的分業が行われているからといって必ずしも商品が生まれるとは限らない。例えばインドの奴隷社会などでは社会で分担して作ったものは年貢として領主に奪われてしまうから、商品の交換は発生しない。
⑵具体的有用労働は人間の生存にとって必要不可欠であり、人間は自然に対して手を加えることによってしか人間生活を持続できない。あらゆる商品は、原材料をたどれば全て土や水、鉱物などの自然にたどり着くのだ。そして全ての商品はいずれまた何らかの形(例えば排泄など)で自然に帰っていく。これを人間と自然の物質代謝と呼ぶ。経済学者ウィリアム・ペティ曰く「労働は富の父である、土地(自然)は富の母」。
⑴社会には無数の仕事が存在し、ライン仕事など誰でも出来る単純な仕事もあれば、薬品製造など専門知識を必要とする複雑な労働が存在する。そのため、単純労働と複雑労働を同じものとして扱ってよいのかという疑問がわいてくる。しかし、いかな複雑労働でも一つ一つ紐解いてみれば、それは単純労働を組み合わせたもの。あるいは拡大したものにすぎず、結局は同じ土俵の概念であると言える。
⑵生産力が増えると使用価値は上がるが、交換価値は下がる。今まで1時間に2個作っていた商品が、技術革新によって1時間に4個作れるようになった。このとき2個だったものが4個になったので使用価値のg合計は上がったが、今まで30分(1時間/2個)の労働時間が投入されていた商品が、15分(1時間/4個)で作れるようになってしまったため、交換価値は半分になった。
価値形態とは、「価値の取っている姿、形のこと」である。価値形態論は資本論読解の序盤にして最難関となる項目なので頑張って欲しい。
例えば魚市場で50万円のマグロを買ったとする。この時、マグロを価値の自然形態。50万円を貨幣形態と呼ぶ。普段私たちが感じることのできる価値はほぼこの二種類である。しかし、この「自然形態=貨幣形態」すなわち「マグロ=50万円」という等式に至るまでにはどのような過程を踏んでいるのか?それをここではみていく。
今回は、上で出てきたマグロとズボンの例を続けて用いるが、もちろんここで出てくる商品は別になんでもいい。まず一番最初に交換が発生した時の等式は、
となる。この式を日本語でいうと「マグロ1匹はズボン10本と同じ価値を持つ」となる。ここでマグロ1本は、ズボンという商品を用いて自らの価値を表現していることが分かるだろう。このとき、受動的に価値を測定される側(今回はズボン)を等価形態、能動的に価値を測定する側(今回はマグロ)を相対的価値形態と呼ぶ。
ここで気をつけるのは等価形態と相対的価値形態が同じ商品になることはありえないということである。上にも述べたように同じ商品同士は交換する意味がないのだ。マグロとマグロを交換しても何の意味もないのである。故に等価形態と相対的価値形態は、対極的に排除し合う存在と言える。
まずは相対的価値形態の特徴について見ていこう。
相対的価値形態は抽象的人間労働を通して他の商品の価値を測定することができる。ここにきて価値とは「労働=価値」という単純な式で表すことはできず、その労働が他の商品によって評価されることによってはじめて価値として表現できるのである。つまり今回の例でいえば、マグロの価値は漁師が頑張って働いた労働時間ではなく、その漁師さんの労働時間は服屋の作ったズボンを獲得することによってはじめて価値として社会に出るのである。仮に漁師が頑張ったけれど訳の分からない魚しか釣れず、市場にもっていったが誰も欲しがらないので商品の交換が起きなかった場合、漁師の労働は価値を持たず社会に出る事は叶わない。
マグロの価値はズボンによって決定されるために、例えばマグロの漁獲量があがって少ない労働時間でマグロが獲れるようになった場合、マグロの価値は下がり、
のようになるかもしれない。逆にマグロの数が減り、マグロ釣りにより多くの労働が必要になった場合は
となる。いずれにせよ、ある商品の価値を測定する場合、右辺(今回はズボンの)相対的価値形態によって左辺(今回はマグロ)は評価されるので、左辺は常に固定になる。
次に等価形態について見てみよう。等価形態は、価値を測定される受け身の存在であるが、これには三つの独自性がある。
⑴等価形態(左辺)の使用価値は、その反対物(右辺)の価値の現象形態になる。
これは左辺が右辺の持っている価値を具体的に表現するという意味である。マグロ1匹=ズボン10本の場合ならば、ズボンの価値は他人と交換することによって美味しいマグロを食べることによってはじめて具体的な価値として表れるのである。たとえズボンにどれだけの労力をかけられていようが、金銀財宝で装飾されていようが、それを欲する人が服屋の欲望を満たす商品をズボンと交換してくれなければ、ズボンの価値はゼロなのである。そのため、全ての商品の価値はそれ固有に存在するものではなく、社会的に決定されると言える。例えば金や銀はそれ固有に価値があると勘違いされがちであるが、実際には誰かと交換し、金銀の代わりに受け取った商品を使用することによってはじめて金銀の価値は具体的に世に出てくるのである。この⑴によって、次の⑵が言える。
⑵等価形態の具体的労働がその反対物(右辺)の抽象的人間労働の現象形態になる。
一見難しそうであるが、これは⑴を別の言い方しただけだ。具体的労働は使用価値を、抽象的人間労働は価値を生み出すことを思い出そう。よって⑴の文章を「等価形態(左辺)の(具体的労働によって生み出された)使用価値は、その反対物(右辺)の(抽象的人間労働によって生み出された)価値の現象形態になる」と言い換えたのがこの⑵になる。
⑶私的労働がその反対物の社会的労働形態になる。
私的労働とはその名の通り、自分が使うためのものを作る労働である。自分のために作ったものを、商品として誰かと交換することによって相手の私的労働は自分のためでなく社会のための労働になるのである。上の例でいえば漁師がマグロを釣るのはそれだけでは私的労働にすぎない。漁師がマグロを釣って自分で食べる分には、社会的には何の意味もない。しかし漁師が釣ったマグロを市場に出して何かを交換しようとすると、漁師の労働は社会的に意味を持ち、そマグロと交換して漁師が得た商品(例えばズボン)は社会的労働形態となる。
ここで最初の①の式に戻ろう。
今まで述べてきたように、マグロの価値はズボンによって表現される。マグロ自体には価値は存在せず、他の商品との関係にある。つまり、最初にいった「全ての商品に使用価値と交換価値がある」というのは実は間違いだったのである。交換価値は何かと交換されることによってしか表現されない。つまり商品一個を見た場合には、その中に存在するのは使用価値、または使用対象、そして「価値」であると言えるのである。
この価値は歴史的に段階的発展を遂げており、その形式を価値形態と呼ぶ。上の①の式が第一段階(簡単な、個別的または偶然的な価値の形態と呼ばれる)となる。そして第二段階。当然だが漁師はズボンだけじゃなくて他の商品も欲しがる。もちろんマグロはズボンだけじゃなくて他の商品とも交換できる。そしてズボンもまた他の商品と交換できるので。
②マグロ1匹=ズボン10本=パン100個=自転車五台=書籍50冊=冷蔵庫8台
このように連続した価値の等式が第二段階(総体的または展開された価値形態)。そしてこれが、
③マグロ1匹=ズボン10本
=パン100個
=自転車五台
=書籍50冊
=冷蔵庫八台
と言ったように基準となる商品一つで他の全ての商品の価値を示すようになる。これが第三段階(一般的な価値形態)。しかし毎回毎回マグロを服屋やパン屋や本屋に持っていく訳にはいかない。ではマグロの代わりに基準となる商品には何を用いるべきだろうか?持ち運びやすさ、保存のしやすさ、全ての要素を考えた結果、基準となる商品として「金(ないし銀などの貴金属)」が用いられるようになった。
④金1kg=マグロ1匹
=ズボン10本
=パン100個
=自転車五台
=書籍50冊
=冷蔵庫8台
金銀は持ち運びが楽でグラム単位で取引できるなど貨幣には最適であるが、それでも遠くに運ぶのはコストがかかり、途中で盗賊などに奪われるリスクもある。そこで重要な街ごとに金銀を預ける場所を作り、そこを兵士が集中的に守ることによって盗賊から財産を守ることを容易にする。そして遠くの人と取引をする場合は近くの預け場所Aに金銀を振込み、代わりに金銀交換チケットを貰う。そしてそのチケットだけを相手に渡せば、その者は近くの預け場所Bに行って相応の量の金銀を受け取ることができる。この預け場所こそが銀行であり、金銀交換チケット[2]が紙幣である。そしてこの紙幣と金銀を兌換するシステムを金本位制(銀本位制)と言う。
仮に金1kgが50万円であるとすると、ここでようやくこの項目の最初に提示した、
マグロ1匹=50万円
の式にたどり着くことが出来た。私たちは日頃、何の考えもなしに「この商品は何円」と商品の価値を貨幣で評価することに慣れきってしまっているが、そのメカニズムを厳密に観察すると以上のように複雑なプロセスをたどることになるのだ。
上に書いたように、商品の価値は労働力によって決まるのであるが、本来これは労働力と均等の労働力の交換である。しかし労働力そのものでは交換できないので市場において労働力は商品という形をとる。つまり、人と人の関係が物と物の関係になる。これを物象化(物神化)と呼ぶ。そして物象化の結果、商品が労働力から切り離された固有の価値を持つと錯覚してしまうことを物神崇拝(フェティシズム)と呼ぶ。このフェティシズムとは生足フェチとか指フェチとかのフェチと全く同じ言葉である。
物象化という言葉は資本論の一巻でちょいと書かれている程度だが、後世の著名なマルクス主義者ゲオルク・ルカーチや廣松渉によって取り上げられて注目されるようになった。
掲示板
41 ななしのよっしん
2025/02/05(水) 04:40:49 ID: LX//xqXLa1
>>40無形資産(例:ブランド価値、知的財産、デジタルコンテンツ)が
全て具体的有用労働と抽象的人間労働の範疇で片づけられるの?そりゃ暴論だろ
42 ななしのよっしん
2025/02/05(水) 09:08:18 ID: /NARxf72Qh
労働価値説は基本は労働工場を対象に考えてるからな
あと平均的な労働者の労働なので、個人の能力差は平準化して考える
スミスの労働価値説だと、稀少な職業はそれを目指したけどなれなかった人の労働まで足し算されるらしい
つまり大谷の労働に年間200億の値段がつくのは、MLB目指した数多のやきう選手たちの亡骸の分
43 ななしのよっしん
2025/02/05(水) 22:21:49 ID: rmqoTmApHD
>>41
そもそもマルクスが「無形資産を具体的有用労働と抽象的人間労働の範疇で片づけ」てないんだが
労働価値説をなんだと思っているのか
>>42
スミスはそんな感じなのか
医者なんかは育成費用とか絡むから価値の次元で語れるけど、大谷の場合は野球っていう産業自体が生活必需品から離れるから需給関係とか価格変動とかの領分じゃねとは思う
急上昇ワード改
最終更新:2025/02/26(水) 11:00
最終更新:2025/02/26(水) 11:00
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