労働価値説 単語

4件

ロウドウカチセツ

7.4千文字の記事
  • twitter
  • facebook
  • はてな
  • LINE

労働価値説とは、「物の価値は、その物を生産するのに必要な労働量によって決まる」という考え方である。

概要

労働価値説は別名「価値論」とも言い「物の価値は何で決まるか?」という単純ながらも現在まで結論の出ない深淵なテーマである。今日経済学では物の価値は需要と供給によって決まると教えてもらえるが、19世紀までの古典派経済学では商品の価値は労働量によって決まると考えられていた。

要な労働価値説の論者アダム・スミスデイヴィッド・リカードカール・マルクスがいる。前者二人にはそれぞれの項を参照してもらうとして、ここではマルクスの労働価値説について解説する。

アダム・スミス

デイヴィッド・リカード

商品

マルクス資本主義を分析するにあたり、商品という概念の分析から始めた。というのは、資本主義的生産様式が支配する(つまり資本主義社会では社会の富[1]は商品の集合体として表れるからである。これは人間の体で考えると分かりやすい。人間の体というのは細胞の集まりであるので、人間の体を分析しようと思ったら、まずは細胞を分析すればよい。マルクス資本主義という体の細胞を商品と考えたのである。

使用価値と交換価値

商品というのは、他人と交換する物(またはサービス)のことであり、全ての商品は使用価値交換価値を持っている。使用価値というのはその商品を使用することによる価値であり分かりやすい。弁当という商品は食べられるから価値があるし、という商品は着ることができるので価値がある。問題は後者の交換価値である。ここで一つの物々交換の例を見てみる。漁師がマグロを釣って飾屋に持っていってズボンと交換してもらったとする。この時、

マグロ1匹=ズボン10本

という式がなりたつ。この式は当たり前のように思えるが、実はそう簡単ではない。算数で2+3=5というのは右辺と左辺が数字という質的に同じものである。しかし、当然だがマグロズボンは物として全く別のものだ。全く別のものなのに何故彼らはマグロズボンを交換することができたのであろうか?マルクスはここで両者に共通する尺度の存在を見いだそうとした。マグロズボンの裏側には何か共通するものがあるはずなのだ。つまりその共通するものこそが「労働」なのである。これがマルクス労働価値説[2]である。

それを踏まえれば、上記のマグロズボンの式は、

マグロ1匹釣るのに必要な労働量=ズボン10本作るのに必要な労働量

と言い換えることができる。

この労働価値説のポイントは三つ。

⑴使用価値は交換価値に影響えない。

上記の式の場合、漁師はズボンが欲しいからマグロ提供し、屋はマグロが欲しいからズボン提供し、ここに交換が成立するが、使用価値が高いからといって交換価値が上がるということはない。交換価値を決めるのはあくまで労働量だけである。

例えば酸素なんかを考えると分かりやすい。酸素は全ての生物生存必要不可欠な物質であるが、酸素の獲得には労働をほとんど必要としない。そのため、酸素マグロを交換することはできないのである。

ただし交換が起こるためには両方の商品が使用価値を持つ事が必須である。使えない商品なぞはも欲しがらないから交換は起きない。使用価値があるから交換が起きて、その交換率(交換価値)は労働量によって決まるという流れだ。

⑵労働力とは、社会的に平均な労働力のこと

当たり前ではあるのだが商品を作るのに労働力は個人の力によって異なる。なので、この式においては社会的に均的な労働力を想定する。先ほどの例でいえば、熟練のマグロ漁師と新人マグロ漁師では1本のマグロを釣るための労働量が違うので、均的な力を持ったマグロ漁師を想定している。

⑶労働には二種類ある

労働には具体的有用労働人間労働がある。

具体的有用労働とは、その名の通り具体的に働いて社会的に有用な商品を作り出す労働の事である。マグロ漁師の場合はをだして、仕掛けを撒いてマグロ釣り上げることであり、屋の場合は布を切りズボンを仕立て上げることである。社会的に有用な商品を作り出すので、具体的有用労働は商品の使用価値を生み出す

しかし実は具体的有用労働と交換価値はまるで関係がないのである。マグロ漁師は交換をする際に、屋がどんなに布を切り、どのような技術を用いてズボンを仕立てたあげたのかは全く気にしないし、逆もそうである。屋にとって漁師がどのようにマグロをつり上げた(具体的にどのように労働した)のかは商品を交換をする時にはどうでもよい事だろう。

交換をするときにお互いが重視するのは、実際にどれくらい人間としてどれだけのエネルギーを発散したかという抽的な労働の量である。これを抽人間労働と呼ぶ。商品の交換価値は、この抽人間労働の量で決まり、逆に商品の価値は抽人間労働が物質化(対化)したものと言える。

労働の二重性(具体的有用労働と抽象的人間労働)

具体的有用労働と抽人間労働のそれぞれの特性についてもうちょっと詳しく見てみよう。少し難しいので興味ない人はスルーで。

まずは具体的有用労働について。

⑴有用労働は使用価値を生み出すが、同じ使用価値同士は交換はできない。というより、しても意味がない。例えば米農は自分の作った米をの米農の作った米と換はしない。これは、自分の米と人の米はじ使用価値を持っているからだ。すなわち、商品の交換をするためには自分とは別の有用労働をしている人間の存在が必須となる。社会的に必要な有用労働を複数の人間が分担して行うことを社会的分業と呼ぶ。社会的分業がなければ(かと交換するための)商品は生まれることができないのである。

ただし社会的分業が行われているからといって必ずしも商品が生まれるとは限らない。例えばインド奴隷社会などでは社会で分担して作ったものは年貢として領に奪われてしまうから、商品の交換は発生しない。

⑵具体的有用労働は人間の生にとって必要不可欠であり、人間は自に対して手を加えることによってしか人間生活を持続できない。あらゆる商品は、原材料をたどれば全て土や水、などの自然にたどり着くのだ。そして全ての商品はいずれまた何らかの形(例えば排泄な)で自然に帰っていく。これを人間自然の物質代謝と呼ぶ。経済学者ウィリアム・ペティく「労働は富のである、土地(自然)は富の」。

次に抽人間労働について。

⑴社会には無数仕事が存在し、ライン仕事など誰で出来る単純な仕事もあれば、薬品造など専門知識を必要とする複雑な労働が存在する。そのため、単純労働と複雑労働を同じものとして扱ってよいのかという疑問がわいてくる。しかし、いかな複雑労働でも一つ一つ紐解いてみれば、それは単純労働を組み合わせたもの。あるいは拡大したものにすぎず、結局は同じ土俵の概念であると言える。

⑵生産力が増えると使用価値は上がるが、交換価値は下がる。今まで1時間に2個作っていた商品が、技術革新によって1時間に4個作れるようになった。このとき2個だったものが4個になったので使用価値のg合計は上がったが、今まで30分(1時間/2個)の労働時間が投入されていた商品が、15分(1時間/4個)で作れるようになってしまったため、交換価値は半分になった。

価値形態

価値形態とは、「価値の取っている姿、形のこと」である。価値形態論は資本論読解の序盤にして最難関となる項なので頑って欲しい。

例えば市場で50万円のマグロを買ったとする。この時、マグロを価値の自然形態。50万円を貨幣形態と呼ぶ。普段私たちが感じることのできる価値はほぼこの二種類である。しかし、この「自然形態=貨幣形態」すなわち「マグロ=50万円」という等式に至るまでにはどのような過程を踏んでいるのか?それをここではみていく。

今回は、上で出てきたマグロズボンの例を続けて用いるが、もちろんここで出てくる商品は別になんでもいい。まず一番最初に交換が発生した時の等式は、

マグロ1匹=ズボン10本

となる。この式を日本語でいうと「マグロ1匹はズボン10本と同じ価値を持つ」となる。ここでマグロ1本は、ズボンという商品を用いて自らの価値を表現していることが分かるだろう。このとき、受動的に価値を測定される側(今回はズボン)を等価形態動的に価値を測定する側(今回はマグロ)を相対的価値形態と呼ぶ。

ここで気をつけるのは等価形態と相対的価値形態が同じ商品になることはありえないということである。上にも述べたように同じ商品同士は交換する意味がないのだ。マグロマグロを交換しても何の意味もないのである。故に等価形態と相対的価値形態は、対極的に排除し合う存在と言える。

まずは相対的価値形態の特徴について見ていこう。

相対的価値形態は抽人間労働を通して他の商品の価値を測定することができる。ここにきて価値とは「労働=価値」という単純な式で表すことはできず、その労働が他の商品によって評価されることによってはじめて価値として表現できるのである。つまり今回の例でいえば、マグロの価値は漁師が頑って働いた労働時間ではなく、その漁師さんの労働時間は屋の作ったズボンを獲得することによってはじめて価値として社会に出るのである。仮に漁師が頑ったけれど訳の分からないしか釣れず、市場にもっていったがも欲しがらないので商品の交換が起きなかった場合、漁師の労働は価値を持たず社会に出る事はわない。

マグロの価値はズボンによって決定されるために、例えばマグロの漁獲量があがって少ない労働時間でマグロが獲れるようになった場合、マグロの価値は下がり、

①’マグロ1匹=ズボン5本

のようになるかもしれない。逆にマグロの数が減り、マグロ釣りにより多くの労働が必要になった場合は

①’’マグロ1匹=ズボン20本

となる。いずれにせよ、ある商品の価値を測定する場合、右辺(今回はズボンの)相対的価値形態によって左辺(今回はマグロ)は評価されるので、左辺は常に固定になる。

次に等価形態について見てみよう。等価形態は、価値を測定される受け身の存在であるが、これには三つの独自性がある。

⑴等価形態(左辺)の使用価値は、その反対物(右辺)の価値の現象形態になる。

これは左辺が右辺の持っている価値を具体的に表現するという意味である。マグロ1匹=ズボン10本の場合ならば、ズボンの価値は他人と交換することによって美味しいマグロを食べることによってはじめて具体的な価値として表れるのである。たとえズボンにどれだけの労力をかけられていようが、金銀財宝で装飾されていようが、それを欲する人が屋の欲望を満たす商品をズボンと交換してくれなければ、ズボンの価値はゼロなのである。そのため、全ての商品の価値はそれ固有に存在するものではなく、社会的に決定されると言える。例えば金やはそれ固有に価値があると勘違いされがちであるが、実際にはかと交換し、金銀の代わりに受け取った商品を使用することによってはじめて金銀の価値は具体的に世に出てくるのである。この⑴によって、次の⑵が言える。

⑵等価形態の具体的労働がその反対物(右辺)の抽象的労働の現象形態になる。

一見難しそうであるが、これは⑴を別の言い方しただけだ。具体的労働は使用価値を、抽象的労働は価値を生み出すことを思い出そう。よって⑴の文章を「等価形態(左辺)の(具体的労働によって生み出された)使用価値は、その反対物(右辺)の(抽象的人間によって生み出された)価値の現象形態になる」と言い換えたのがこの⑵になる。

⑶私的労働がその反対物の社会的労働形態になる。

私的労働とはその名の通り、自分が使うためのものを作る労働である。自分のために作ったものを、商品としてかと交換することによって相手の私的労働は自分のためでなく社会のための労働になるのである。上の例でいえば漁師がマグロを釣るのはそれだけでは私的労働にすぎない。漁師がマグロを釣って自分で食べる分には、社会的には何の意味もない。しかし漁師が釣ったマグロ市場に出して何かを交換しようとすると、漁師の労働は社会的に意味を持ち、そマグロと交換して漁師が得た商品(例えばズボン)は社会的労働形態となる。

ここで最初の①の式に戻ろう。

マグロ1匹=ズボン10本

今まで述べてきたように、マグロの価値はズボンによって表現される。マグロ自体には価値は存在せず、他の商品との関係にある。つまり、最初にいった「全ての商品に使用価値と交換価値がある」というのは実は間違いだったのである。交換価値は何かと交換されることによってしか表現されない。つまり商品一個を見た場合には、その中に存在するのは使用価値、または使用対、そして「価値」であると言えるのである。

この価値は歴史的に段階的発展を遂げており、その形式を価値形態と呼ぶ。上の①の式が第一段階(簡単な、個別的または偶然的な価値の形態と呼ばれる)となる。そして第二段階。当然だが漁師はズボンだけじゃなくて他の商品も欲しがる。もちろんマグロズボンだけじゃなくて他の商品とも交換できる。そしてズボンもまた他の商品と交換できるので。

マグロ1匹=ズボン10本=パン100個=自転車五台=書籍50冊=冷蔵庫8台

このように連続した価値の等式が第二段階(総体的または展開された価値形態)。そしてこれが、

マグロ1匹=ズボン10本
      =パン100個
     =自転車五台
     =書籍50冊
     =冷蔵庫八台

と言ったように基準となる商品一つで他の全ての商品の価値を示すようになる。これが第三段階(一般的な価値形態)。しかし毎回毎回マグロ屋やパン屋や本屋に持っていく訳にはいかない。ではマグロの代わりに基準となる商品には何を用いるべきだろうか?持ち運びやすさ、保存のしやすさ、全ての要素を考えた結果、基準となる商品として「(ないしなどの金属)」が用いられるようになった。

④金1kg=マグロ1匹
     =ズボン10本
     =パン100個
    =自転車五台
    =書籍50冊
    =冷蔵庫8台

これが第四段階(貨幣形態)であり貨幣の誕生であった。

金銀は持ち運びが楽でグラム単位で取引できるなど貨幣には最適であるが、それでも遠くに運ぶのはコストがかかり、途中で盗賊などに奪われるリスクもある。そこで重要なごとに金銀を預ける場所を作り、そこを兵士が集中的に守ることによって盗賊から財産を守ることを容易にする。そして遠くの人と取引をする場合は近くの預け場所Aに金銀を振込み、代わりに金銀交換チケットを貰う。そしてそのチケットだけを相手に渡せば、その者は近くの預け場所Bに行って相応の量の金銀を受け取ることができる。この預け場所こそが銀行であり、金銀交換チケット[2]紙幣である。そしてこの紙幣金銀換するシステム金本位制本位制)と言う。

仮に金1kgが50万円であるとすると、ここでようやくこの項の最初に提示した、

マグロ1匹=50万円

の式にたどり着くことが出来た。私たちは日頃、何の考えもなしに「この商品は何円」と商品の価値を貨幣で評価することに慣れきってしまっているが、そのメカニズムを厳密に観察すると以上のように複雑なプロセスをたどることになるのだ。


  1. 富と一概にいっても「富とは何か?」というのも中々難しい問題である。マルクスのちょっと前には「富とは金である」という重金義が社会にはびこっていた。重金義者によれば金やこそが富であるのだから、金銀を集めることこそがの力を高める方法だとして、輸出を増やし輸入を制限し貿易差額で金銀を溜め込むという重商と呼ばれる政策に陥った。
    これに対して、近代経済学と呼ばれるアダム・スミスは「富とは物である」とした。金やはいくら集めても実際に食べることも使うこともできない。故に、富とは金でなく金で買えるパンなのであると摘した。
    マルクスは更にこれを発展させ、「富とは商品である」と述べた。物と商品の違いは、市場にでるかどうかである。自分のでとれた野菜を自分で食べた場合は市場に出ていないので、マルクス的にはこの野菜は富ではない。こういうと感覚的にはスミスの方が正しいと思えるかもしれないが、資本主義を分析するという的の場合、富=商品としたほうが都合がよいのである。そもそも資本主義が発展していくと自給自足は難しくなっていく。私たち現代日本人も日頃使っているもので自給自足できるものといえば、せいぜいガーデニングでとれた少量の野菜だけであろう。
  2. マルクス経済学において価値とは労働によって決まるが、近代経済学では価値は効用によって決まる効用価値説の立場をとっている。効用とはその商品で得られる満足度のこと。労働価値説は客観的価値論、効用価値説は主観的価値論とも言う。これは労働は労働時間によって定量化できるのに対して、満足度は定量化できないことが理由である。例えばミカンリンゴを作る労働時間は数値化できるが、ミカンリンゴを食べる満足度は数字で表せない。
  3. 日本千円札一万円札などの紙幣は正式名称は「日本銀行券」と言い、そのものチケットなのである。ちなみに10円玉などの硬貨は「補助貨幣(補助通貨)」と呼ばれる。

物象化・物神崇拝

上に書いたように、商品の価値は労働力によって決まるのであるが、本来これは労働力と均等の労働力の交換である。しかし労働力そのものでは交換できないので市場において労働力は商品という形をとる。つまり、人と人の関係が物と物の関係になる。これを(物神化)と呼ぶ。そして物化の結果、商品が労働力から切り離された固有の価値を持つと錯覚してしまうことを物神崇拝(フェティシズムと呼ぶ。このフェティシズムとは生足フェチとかフェチとかのフェチと全く同じ言葉である。

化という言葉は資本論の一巻でちょいと書かれている程度だが、後世の著名なマルクス義者ゲオルク・ルカーチによって取り上げられて注されるようになった。

関連項目

この記事を編集する

掲示板

おすすめトレンド

ニコニ広告で宣伝された記事

記事と一緒に動画もおすすめ!
メテオ(じょん)[単語]

提供: ま る ♬

もっと見る

急上昇ワード改

最終更新:2025/02/26(水) 11:00

ほめられた記事

最終更新:2025/02/26(水) 11:00

ウォッチリストに追加しました!

すでにウォッチリストに
入っています。

OK

追加に失敗しました。

OK

追加にはログインが必要です。

           

ほめた!

すでにほめています。

すでにほめています。

ほめるを取消しました。

OK

ほめるに失敗しました。

OK

ほめるの取消しに失敗しました。

OK

ほめるにはログインが必要です。

タグ編集にはログインが必要です。

タグ編集には利用規約の同意が必要です。

TOP